時代に抗う映画『窓ぎわのトットちゃん』感想文

《推定睡眠時間:0分》

なんでそんなことになっているのかわからないのだが、2023年12月現在の新作邦画は空前の戦中戦後映画ブーム、9月に公開され現在もバリバリ現役上映中の『ゴジラ-1.0』、塚本晋也監督最新作『ほかげ』、特攻隊員と女子高生の淡い恋愛を描く『あの花が咲く丘で、きみとまた出会えたら』、そして黒柳徹子の同名ベストセラー小説を映画ドラえもんシリーズの監督として知られる八鍬新之介がアニメ映画化したこの『窓ぎわのトットちゃん』と、いずれも太平洋戦争を背景とした物語である。

時系列的にはたしか1943~1945年を舞台にしているのが『トットちゃん』で、敗戦間際1945年6月を舞台とするのは『あの花』、具体的な時代設定は劇中で語られないが描写や台詞からすると敗戦直後1945年9月ごろと思われるのが『ほかげ』で、1945年ごろ~1947年にまたいで物語が展開されるのが『ゴジマイ』。というわけでこの空前の戦中戦後映画ブームをフルに楽しもうとすれば、公開日的には一番遅いが『トットちゃん』から観るのがよいだろう。この順番で4本オールナイトやってくれないかなどこか。

それで内容はというとトットちゃんこと黒柳徹子かっこ小一は元気が有り余りすぎて何にでも興味を持つし面白くなっちゃう、まぁ今で言ったらADHDだよね、でも当時は当然ながらそんな概念ないですからガッコのセンセもADHDならしょうがないかと理解してくれることもなく、小一にして小学校追放、万引きとかのショボイ悪さをして高校退学になったことを自慢するヤンキーなんか目ではないホンモノの不良でありパンクスである。

学校を追放されるほどわんぱくキッズな徹子に両親も困ったようであったがここならどうかと見つけてきたのが自由が丘の私立小学校トモエ学園、ここは自由が丘の名に相応しい自由主義教育を施す学校であり、学ぶ教科も児童一人一人に決めさせるほどのびのびとしたおおらかな学び舎である。小一徹子は狭くて堅苦しい公立ガッコには馴染めなかったがなんでも自由にやらせてくれるこのトモエ学園は大いに気に入った。徐々に暗くなっていく世相の中、徹子はトモエ学園の中で自由を謳歌するが、軍靴の足音は次第にトモエ学園にも迫ってくるのだった。

この自由主義教育はリトミック教育というらしい。そういえば前にアンパンマンのリトミックおあそびシリーズみたいなDVDを見たことがあるが、あれはそういう意味だったのか。ウィキペディアを読むと音楽をキー概念に児童の自主性・主体性を育てるリベラル教育のようで、子供に選択の権利など存在しないかのような昨今の保護主義的なリベラル児童観からすると、なんだか隔世の感がある。80年近く昔の話だから実際隔世なのだが。

トモエ学園のなんでも子供のしたいようにさせてやれ主義は徹底したものがあり、それを端的に示すエピソードはボットン便所に財布を落とした徹子が便層から糞尿を汲み取ってウンコの山を築いてしまうやつ。俺が徹子を教える立場であればまさかの光景に顔面蒼白となり怒るどころか幽霊のような声で「徹子さん…後は先生がやっておきますからとりあえず教室へ戻って下さい…」と言うだろうが、ウンコの山を発見したトモエ学園校長(声:役所広司)は「後でちゃんと戻しておけよ」と言うだけで徹子の気の済むまで糞尿を汲み取らせてやるのだった。ただその「後でちゃんと戻しておけよ」の言い方には多少の怒気がこもっているように俺には聞こえた。

徹子のように公立校の枠からはみ出してしまうさまざまな子供たちの通うトモエ学園は子供たちにとって、あるいは親や教師たちにとってもツラい世の中から自分たちを守ってくれる聖域だったのだろう。冒頭で描かれる公立小学校の授業ではススメススメヘイタイススメの軍国教育を行っているが、私立校であるトモエ学園では軍国教育は行っておらず、戦争の影はどこにもない。トモエ学園で徹子の親友となる小児麻痺の子供がいる。この子供は裕福な家の生まれだが歩くことも満足にできず、バリアフリーなんて概念もない当時のこと、外の世界に居場所などなかった。けれどもトモエ学園だけはその例外だったんである。

この映画はトモエ学園の聖域性を際立たせるためにあえて時代状況を説明せず、時代の変化の過程を省略する。実は太平洋戦争末期には私立校のトモエ学園もお上の命令により軍国教育を免れ得なかったことが終盤になるとわかるのだが、徹子が軍国教育を受けている具体的な場面はなく、それがわかるのは聖域が崩壊した後のこと。聖域の崩壊、たいていの人が知るベストセラーとはいえ一応ネタバレにならないように詳細は伏せるが、木下恵介の『陸軍』を思わせるこの場面は素晴らしい。これまで省略されてきたもの、隠されてきたもの、子供たちがそれから守られてきたものが、ある人物の死をきっかけに怒濤の勢いで画面の中に流れ込んでくるのだ。

そのシーンから先はまるで空気が抜けた風船のよう、現在の徹子のナレーションでこうなりました、こうなりました、こうなりましたとポンポンポンと呆気なく語られて、敗戦さえ迎えることなく結構びっくりする中途半端なところで終わってしまう。けれどもそれがいい。公立校のつまらない現実から飛び出してというか閉め出されてユートピアのようなトモエ学園でかけがえのない時間を過ごした徹子はラストでまたつまらない、ついでに悲惨度もかなり増した現実に戻ってくる。これはファンタジー映画の古典『オズの魔法使』と同じ構造だな。『オズの魔法使』も最初と最後で主人公ドロシーを取り巻く貧しい環境はなにも変わっていないのだが、ファンタジー世界の旅を通してドロシーは過酷でつまらない現実を生きる力を得る。『トットちゃん』の徹子もトモエ学園の中で現実を生きる術を学んだというわけであった。

ファンタジーの世界から帰ってこないアニメが主流派でむしろ現実を見せると腐った男女視聴者たちに「現実なんか見たくねぇ!」とネットで燃やされたりするというネオテニーの末期症状を呈している観もある現代日本アニメにあってこのラストを採用した点だけでも『トットちゃん』はまことに志高い立派な大人が作っていることがわかる。徹子がさ、トモエ学園のプールの授業って男女ともに全裸で泳ぐんですけど(今の日本でやったらネットで賛否両論なんかでは済まず児童ポルノとか児童虐待とかの疑いで学校関係者が何人も逮捕されてしまうだろう)、その授業に出たくなくて一人で座ってる小児麻痺の子供の前で「恥ずかしくないよ!」って全裸になるシーンがあるんですよ。そこで徹子小一の乳首がちゃんと描かれてるのこれ。

偉いなぁと思ったよな、だって児童ポルノ扱いされて怒られが発生する可能性もあるから普通避けるじゃんそんなの。でも徹子は自分の裸、つまりの生身の自分を晒すことは恥ずかしくないと言ってるわけだから、その言葉に迫真性を持たせるためにはちゃんと徹子小一の裸を包み隠さず描くべきで、それが芸術家のやるべきことってなもんじゃないですか。保身とか客ウケとかそんなのどうでもよくて、作品として完成させるためにはそうすべきっていう芸術家の良心にちゃんと従ってるんですよこの映画は。それは作った人も偉いし、送り出した人も偉いよな。だいたい今どき『トットちゃん』を映画化したところで金になるわけないんだから。

ところでその小児麻痺の子供、プールに入らないのは何も裸を見られるのがイヤだったからとかではないと思うのだが、徹子の全裸エンパワメントによって半ば無理矢理プールに入ってみた結果、一瞬溺れたかと思ったが「身体が…軽い…」と今までに感じたことのない感覚を得、束の間の自由を謳歌する。そのファンタジックな心象風景はアニメーション的にも見事なのだが、いやぁ、なんというかね、そうこういうことってあるんだよ、あるんだけどねぇ…って感じでしみじみとしてしまいましたよ。

この子供がまたもや徹子の無茶振りによって(徹子の無茶振り癖はこの頃からのものだった!)小児麻痺の身体にはあまりに過酷な木登りをさせられるシーンがある。こういうことは今ならほとんどありえないよな。親が許さないし、学校側がそんな危険を放置していたとなれば、その責任も問われることになる。でも子供がやりたいといったら多少危険に見えてもやらせてあげたらいいんじゃないかって俺は思うんですよ。その危険を乗り越えた先にはもしかしたらこの子供・泰明ちゃんがプールや木の上で体験したような、今まで知らなかった世界に触れる感動があるかもしれないし、それは自分の中で生きる力にもなるんじゃないだろうか。

『トットちゃん』が今の世でアニメ映画化されることの意義というのはそこにあるのかもしれない。とくにコロナ禍以降の傾向として、みんな自分の世界の外に出ること、自分の知らない他者に出会うことを過剰に警戒しているように俺には思える。でも自分の見知った安全な世界に安住していると、いつかその外にどうしても出なければならなくなったときに、その現実で生きていくことは難しくなる。「ヤツらが我々の生存を脅かしている!」なんて被害妄想じみたことを言って侵略戦争をはじめるあんな人やこんな人は、自分たちだけが住む安全な世界に安住しすぎて外の世界が怖くてたまらなくなった結果、だったら外の世界を滅ぼしてそこを自分たちが支配する安全な世界にしてしまおうと、俺のハイパー批評眼によれば考えているんである。

安全な世界に引きこもることは長い目で見れば実は自分にとっても他人にとってもぜんぜん安全なんかではない。にも関わらずSNSの蔓延によって一段と近視眼的になった人々は先のことなど考えず今が良ければと安全な世界に引きこもろうとしてしまう。なんでも体験してみたらいいし、どんどん知らない世界に出て行ってみたらいいんじゃないだろうか。そのような昨今の流行思想の真逆をあえて往くかのような『トットちゃん』、まぁ児童書的な映像が楽しいってのもあるし、さすが映画ドラえもんリメイクシリーズの中で唯一オリジナルを超えたと俺が何様目線で認定している『のび太の新・日本誕生』の八鍬監督、今回も力作でしたなぁ。

※トットちゃんの目から見ればめちゃくちゃ子供にやさしく理解のある良い人でしかないトモエ学園の校長先生が、どうも大人相手にはわりと要求が厳しいパワハラ気質っぽく、最後にはその目に狂気が浮かんで怖くなるというあたりもまた立派。単なる良い人も単なる悪い人も世の中には存在しない。人間はいつでもどこでも決して一面的な存在ではありえないのだ、という現実を逃げずに描く『トットちゃん』なんである。

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Jame Gumb
Jame Gumb
2023年12月17日 8:55 PM

昨日この記事を読んで今日観てきました。
トットちゃんがうんこまみれになるシーンは本当に良かったですね!
あそこで蠅や匂いが入ってくるにも関わらずあえてガラス窓全開のままにしとく、という細かい描写が「自主性は徹底的に尊重する、しかしそれは見なかったことにして放っておくという意味ではない」という校長先生の覚悟を感じさせて大変グッと来ました。

Jame Gumb
Jame Gumb
Reply to  Jame Gumb
2023年12月17日 9:06 PM

私が一番アガったのは他校のガキどもとのMCバトルシーンです。国家権力を後ろ盾にホームグラウンドをディスられた上に、大事なホーミーの身体障碍を嘲り笑われ、あまつさえ石とかぶつけられたトットちゃんの怒りの鉄拳が遂に炸裂するのか!?でも喧嘩しちゃダメって言われてるし、手を出したが最後この学校も終わっちゃうかも… どうすんだろ… とハラハラさせておいてからの、
リリックとフローで圧倒して撃退‼ の流れがあまりにも熱すぎて、そりゃ泣きますわ、校長先生も泣きますわ。
しかもこのシーンその前の相撲でのトットちゃんの無敵っぷり(腕力で対抗しようと思えば出来た)や、「土俵を変えようか」との先生の言葉をちゃんと踏まえている上に、歌とリズムの教育が子供たちにもたらす強さとはいったい何なのかという問いへの完璧な説明となっており、更にヤスアキ君が腕力の無さを度胸と正義感で克服する見せ場も入っていて、もう、今思い出しながらまた泣けてきました。

いつも良い映画を紹介して下さって本当にありがとうございます。
今度実家の年老いた母親(例の部屋の大ファン)も誘ってもう一回観に行こうと思います。

りゅぬぁってゃ
りゅぬぁってゃ
2023年12月25日 11:20 AM

『チョッちゃん物語』(徹子の母によるエッセイのアニメ化)も比較して見ると、
同じエピソードでも描写の違いがかなりあって面白いです。

駆け落ち婚だから実家の疎遠になった。音楽家の収入が不安定だから質屋によく通ってた。
徹子の弟妹のシーンがかなり増えてる など。

それぞれが主観で執筆してるから「どちらも嘘は書いてない」んでしょうが。