【隙間創作】『だいたい三人ぐらい殺人事件』のお話

 警察発表によれば見つかった肉片の数から言っておよそ三人が亡くなった。およそ、というのは細かく切断された肉片の大部分は三つのDNA型に分類することができたからで、しかしその中にはこれら三種には該当しないDNA型を持つ親指片と眼球もあった。親指の切断と眼球の摘出だけでは殺人の要件は満たさない。とはいえ、三種のDNA型に分類される複数の手足の指、左右の耳、上下の唇、両の性器、ほか、脾臓の切片、肝臓の切片、腎臓の切片、胃の切片、心臓はまるごと、要するに、その肉片は数が多すぎた。バラバラ殺人として捜査が始まった三種の肉片群に付随するそれとは別種のDNA型を持つ親指片と眼球も殺人の傍証と判断されたのである。

 メディアが報じた表向きの順序としてはこうであった。だが実際の肉片群はそう単純な従属関係にあったわけではない。なぜなら三種の肉片群は単純な傷害と見なすには数が多すぎるとしても、明白な殺人と見なすには数が少なすぎたのである。
 傷害と殺人の罪状の上での区分は明確であり、その間に広がる緩衝地帯は量刑判断に用いられるのみだ。至って単純な理屈である。肉体の状態は生きているか死んでいるかのどちらか一方でしかない。死にながら生きる人間は存在しないし、逆もまた然りだ。高尚な生命論の迷宮にあえて立ち入る必要がなければ脳死もまた生の一様体、肉体の機能不全に過ぎず、心臓が送り出した血液が肉体を循環している間はどのような形でも人間は生きている、循環していなければ死んでいる。少なくとも刑法上の生死の境界線はそこにある。

 従ってこのような問題が提起されうる。発見された多数の肉片は傷害の直接証拠にはなり得ても、たとえば、それが臓器移植の形で未発見の「本体」の血液循環機能を補っているとするならば、これは殺人として扱うことはできない。こうしたことからむしろ逆説的に第四群の微々たる肉片が、それ自体は単体として傷害の物証としかならないとしても、残る三群の肉片との連続性の中でこれらが殺人によって生じたものであるとの見解を補強することになったのである。

 すべては脳が発見されれば済む話ではあった。脳機能をなしに心臓は血液を循環させることはできない。しかし脳を含む頭部は見つからない。ある捜査員は冗談交じりにこう言った。肉片なんかにいくらあっても同じだよ。誰のでもいいから脳みそを持ってきてくれ。これは匿名の警察関係者の言葉としていくぶん威厳が付け足されて週刊誌の誌面を飾った。

 実際のところ、この捜査員が言うように捜査が長引けば長引くほど肉片の証拠能力は色あせて、その後やはり異なるDNA型を持つ第五、第六の僅かな肉片が発見された際には、第四の肉片群とは対照的に、これが殺人の傍証にならないばかりか、傷害からも格下げされて、せいぜいのところ闇臓器移植業者による死体遺棄事件に過ぎないのではないか、という見解も捜査関係者の中から現われたのであった。

 脳がない。そして死体の身元はわからない。奇妙にも数多の肉片が発見されたにも関わらず、むしろ発見されればされるほど、肉片は死体の一部とは解釈されなくなっていった。その場合は死体遺棄でさえない。肉片はただ肉片でしかない。その男が自ら法廷で述べた三件の殺人事件の動機は概ね以上のようなものだった。

 三郡と余りの一群の肉片の発見に端を発する事件は三郡の肉片の未発見の頭部として一人の男が三つの頭部を捜査本部に持ち込んだことでかえって混乱の度合いを深めることになった。男の身柄はその場で確保されたが、問題は頭部のDNA型であり、いずれもそれまでに確認されている肉片群のどれとも一致しない。捜査員の手元には切断された頭部が三つある。その事実から言って少なくとも新たに三人が殺されたのは間違いない。しかしその頭部は三郡の肉片を死体にはしなかったのである。

「殺人は殺人によって殺人ではなくなる。殺人犯のいない殺人は殺人ではない。殺したくて殺したのではないのです。私には罪の意識がありました。それなのに、金目的で殺した最初の死体を罪の意識に耐えきれずに解体したら、死体は肉片となって、殺人の事実はなくなって、罪は確かに残っているはずなのに、私は殺人犯ではなくなりました。それで、もう一人殺し、もう一人殺し、ところが、殺しても殺しても、殺しているはずなのに、私は一人も殺していないのです。おそらく三人が死亡したらしいこと、その死を確定するためには脳が必要であることを週刊誌の記事で知りました。そこで、私は三人の殺人犯となるために、三人の頭部を用意する必要があると考えました。私は殺人の罪を償いたかったのです」

 起訴状に載った六件の殺人のうち男は頭部の発見されなかった最初の三件のみを認めた。男の部屋から発見された頭部以外の三郡の肉片群については否認した。あと三人殺せば、部屋にある三人も殺したことになるのですが。男の法廷での発言は一般には猟奇的な挑発と理解された。男が死刑台に上がるまでに贖罪として理解されることはないだろうし、男が弁護士を通じて被害者のための死刑回避を訴えていることもそうだ。

 その男の目下のところの心配事は、死刑に処された自分の死体が焼却されてしまえば、殺人事件の犯人は消滅し、犯人が消滅したために殺人事件は消滅し、殺人事件が消滅することで被害者の死体は消滅し、被害者の死体が消滅することでだいたい三人を殺した自分の罪が消滅してしまうのではないか、ということなのだ。その理路を追える人間なら、やがて死刑台の上で男が誇らしげな笑みを浮かべて叫ぶことになる言葉の意味を理解することができるだろう。これは、私が殺した人たちを蘇らせるための儀式なのです!

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