【隙間創作】『花蜂みたいな恋をした』

投稿日: カテゴリー ブツブツお話会

「ツチハンミョウの幼虫はハナバチのメスに似たフェロモンを出すんだよ。それでハナバチのオスをおびき出してさ、乗る。オスを騙して巣に連れてってもらってそこでぬくぬく育っちゃうの」
 どんな流れでその話題になったのかは思い出せないが彼女は確かにそう言った。そうだ、彼女はツチハンミョウの話をしていて、それからタバコの煙を吐き出すと、僕を見て笑った。僕も笑った。意味を成さないまま途切れることなく続く思考の中で(何時間ぐらい経っただろう)今はそれだけが孤島のように切り離されて、その輪郭を正確に思い描くことができる。その意味も。彼女の愛らしい咳の音。けほっ! けほっ!

〈…はい。えー、まず、咳ですね。それから発熱。これはいわゆる一般的な風邪と変わりません…〉

 きゅるるる! 新入社員には通じないな。テープの巻き戻る音。初めてタバコを買った日のことを思い出す。そう遠い昔ではないはずだ。きゅるるる! 銘柄もわからないからカウンターの向こうに見える昆虫標本じみたパッケージ群の中に必死で探した。同じものだ。彼女のタバコと同じもの。同じ色と同じ長さ。同じ模様と…それはある種の昆虫の擬態模様に見えた…とにかく、同じものだ。39にもなるのに年齢確認を食らう。今は誰でもそうなのだろうか。それから外で吸って、最初だから肺には入らない。簡単じゃないか。それからもう一吸い、今度は深く、肺まで達して。げほっ! げほっ! もう出る汁もない。

 違うフロアだった。だから彼女に会うためにはタバコが必要だった。思い出せ! 彼女はタバコを吸う。新型コロナ禍ですっかりタバコの株が下がったのに。株が下がっても値段は上がる。今では千円だ。彼女はバカバカしいと言った。バカバカしいだろうか。千円で、たった千円で彼女に会える。一目惚れだった。人生で初めての。感じたことのない強烈な衝動と多幸感。そして色。目に見えない色が世界を染めた。僕はなにも恋愛経験がないわけじゃない。でもそれとは違う…松田聖子はなんと言った? ビビビッ!

〈…ですから感染経路についても飛沫感染、接触感染、こういったものが主たる感染経路と考えられます…〉

 今はもうその残滓に浸ることしかできない衝動はカオティックな層を成していた。愛おしく思った。それは当然として、哀れにも思った。悲しくもなり、幸せも感じ、憤りも覚えた。彼女は一人だったのだ。××企業基本法に照らし合わせれば(頭に付く言葉は何か?)大企業といえた。先進的な取り組みも少なくない。男性育児休暇の取得推奨、フレックスタイムの導入、役員のクォータ制、SDGs? LGBTQ? モニター越しの社内回覧によれば、だ。クリーンなガラスのパーテーションの向こうに伸びる廊下に見えた攻撃的なショートヘアの彼女にはどれも関係のないことのように思えた。彼女は一人だ。一人で廊下を歩いていた。男社会の好色な捕食者から身を守るためにあたかも男に毒性擬態するかのような黒のスーツとネクタイで。工業暗化? 企業暗化? まだ若い彼女は色を失ったが、それでも彼女であることは隠しきれない。それは蛹だった。守らなければならないように感じた。使命感とも言えない。衝動なのだ。

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「ロイコクロリディウムは鳥の糞からカタツムリに寄生する。鳥の糞を食したカタツムリの体内で孵化した卵は筒状のスポロシスト…まぁ群体だね。そこまで成長すると触覚に移動して脈動し始める。伸びたり縮んだり、膨れたりしぼんだり。異常を感じたカタツムリは明るい場所に移動して触覚を積極的に動かす。これがイモムシに見えるんだよ。それで、鳥に食べられちゃう」

 最初は偶然を装って(そのとき僕はタバコを忘れたふりをした)、次も偶然を装って。二度目の偶然は偶然にも彼女と同じタバコを持っていた。偶然ですね。ホントですね。脈拍はロイコクロリディウムのスポロシスト。筋肉は乾燥したハリガネムシ。心はツチハンミョウにおびき出されるハナバチ。彼女は虫が好きだった。だから僕も虫が好きだ。その日から好きになった。急ぎの仕事を装って(そうでもしないと胸が張り裂けてしまいそうだから)また、今度。喫煙室を出るとすぐにスマホを開いて検索バーに名前を入れる。出てきた画像に…オエッ!

 帰りの電車も偶然にも彼女と同じだったから、僕はその日、とうに終電が過ぎて暗くなった、今まで通り過ぎてきたであろう駅を(だが、確信は持てない。駅の看板が彼女よりも大事ということはないのだから)、時折視界の片隅に入れながらタクシーで家に戻らなければならなかった。駅で別れて、また明日。振り返って、ところで咳は…1時間ほどの乗車の間、彼女は何度も咳き込んでいた。彼女は笑う。威嚇行動。わざと近くに寄ってくるウザいオッサンに効果てきめん。え、何の? え、だって、嫌じゃない? 例の病気って思うでしょ。例の病気って…あぁ。ビビるんだよ、オッサンは。さっさと離れていく。感染を恐れて痴漢しようなんて思わない。だから嘘咳。新型コロナの時に学んだ。通学中にね。みんなで咳き込めば女は進化するのかも。けほっ! けほっ!

 獲得形質は遺伝しない。僕はそれを知っていたし、彼女もそれを知っていた。一人でタクシーを待ちながら不意に涙が頬を伝って、その波は高くなるばかり。倒れるように乗り込んだ。泣きながら行き先を告げた。その時ばかりはラマルク主義が真実に思えた。もしも僕と彼女が一緒になればラマルクの理論に則ってこの悲しむべき獲得形質が子供にも伝わるはずだ。伝えるべきではないのかもしれない。ラマルク主義への批判には欠けている点がある。それは淘汰圧を個体の意志が撥ね返す力の称揚である一方、力のない個体への更なる淘汰を胚胎している。そんなことを考えた。適応。淘汰。進化。突然変異。それから彼女。

〈…ウイルスは変異しますので、これは注視しておく必要がありますね。たとえば嚥下痛ですが、初期の段階では症例報告が上がっていない。しかし、変異株の流行が確認された昨年8月からは…〉

 次の日の彼女は咳が止まらなかった。他に人が入ってこないから逆に良いよ。そう話す表情は硬い。咳も、威嚇の咳には見えなかった。先週の香港出張でもらってきちゃったんじゃない? 冗談めかして僕が言っても彼女は少しも笑わない。かもね。空港では陰性だったけど。でも保健所に連絡してみようかな。離れた方がいいですよ。伝染っちゃうかもしれないから。そう言って、タバコを一吸い、けほっ! けほっ!

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 あなたのウイルスなら僕は怖くないんだ。あなたの細胞に入り込んで、あなたの酵素を取り込んで、あなたと一緒にタンパク質を合成した、あなたの生みだしたウイルスなら。衝動は愛の確信に変わる。僕たちは一緒にウイルスの子供を作る。ダーウィン主義は愛の試練だ。僕はその場から動かなかった。限りある逢瀬を淘汰への(バカバカしい!)恐れで失いたくはなかった。彼女と同じ擬態模様のタバコを吸いながら彼女と虫の話をした。たとえどうなろうとも恐れるものはない。だから、きゅるるる! そこで、きゅるるる! 違うかもしれない。ぷるるる? 電話だとしたら、感染経路を追跡する保健所のトレーサーからのはずだ。まだそれぐらいの判断力は残っている。残っているのは判断力だけで、体力はとうに尽きている。枕元の水は昨日から飲んでいない。痛いから!

 きゅるるる! ツチハンミョウの幼虫はハナバチのメスに似たフェロモンを出すんだよ。それでハナバチのオスをおびき出してさ、乗る。オスを騙して巣に連れてってもらってそこでぬくぬく育っちゃうの。

 きゅるるる! ロイコクロリディウムは鳥の糞からカタツムリに寄生する。鳥の糞を食したカタツムリの体内で孵化した卵は筒状のスポロシスト…まぁ群体だね。そこまで成長すると触覚に移動して脈動し始める。伸びたり縮んだり、膨れたりしぼんだり。異常を感じたカタツムリは明るい場所に移動して触覚を積極的に動かす。これがイモムシに見えるんだよ。それで、鳥に食べられちゃう。

 水。虫の話だ。もう一滴も出ない性器をそれでも握ろうとする。朧気な意識の向こうに彼女はいる。射精にならない射精をした。失われた時間の中で幾度となく。水は飲めない。痛かった。呼吸が怖い。痛いからだ。喉の痛み。感染しているのは間違いない。彼女なのだ。今、僕の中に彼女はいる。彼女の身体。彼女の子供。彼女のウイルス。水の入ったコップを握る代わりにまた性器を握る。上下に動かす。麩菓子のような手触りの性器は動かすたびに表皮がボロボロと崩れていくように感じられた。不意にわかった。ツチハンミョウの偽装フェロモンに捕らえられたのだ。ウイルスが作り替えた彼女の発する化学物質に誘引されたのだ。喉を痛めないように口だけが笑って、笑い続けた。僕は君を守ったよ。君と君の子供たちをダーウィンの残酷な淘汰圧から。ラマルク主義者を抱いてくれ。専門家が何かを話すテレビの音はもう聞こえなかった。まどろむ幸福が痙攣する全身を包むのが感じられた…。

〈…注意すべきは、ま、みなさん以前の新型コロナでマスク着用、アルコール消毒、それから三密をなるべく避ける…こうした対策はしっかりと身についていると思うのですが、やはり狂犬病ウイルスですから、咳や発熱などの身体症状がない場合でも意識の面に影響が出ることがある。これは自覚するのが難しい。これまでに報告されている症状としては多幸感、それから性欲の昂進、感情の起伏が激しくなるといった…〉

 きゅるるる! マッソスポラ菌はセミに感染する菌なんだけど、こいつは宿主を性欲ゾンビにしちゃう。宿主の下半身を冒してひたすら交尾に駆り立てて、宿主は自分でも意識しないまま菌を別のセミに感染しちゃう。迷惑な話だよね。誰かさんみたいじゃない? けほっ! けほっ!

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