【隙間創作】『歩く歩道』のお話

 どうしてと訊かれてもどうも答えようがない。歩くものは歩くし歩かないものは歩かない。人間は歩く。電柱は歩かない。犬は歩く。ブランコは歩かない。歩道は歩く。理由なんかない。人間は考える葦だと言うし、なら歩く歩道だってあるだろう。とはいえ確かに歩道が歩くのは奇妙なことだ。君が言うことに俺は全面的に同意するし、むしろ奇妙なことだからこうして君に打ち明けてる。それでどうなるものでもないとしても、なんとなくすっきりとはする。

 じゃあもう一度要点をまとめてみよう。歩くんだ、要するに。歩く歩道がある。これをどう説明したものか。もしかすると歩くという動詞が意味するものが俺と君とで違うから伝わらないのかもしれない。虹が七色に見える地域とそうは見えない地域があるというのは有名な話だ。もっとも俗説に過ぎないらしいがね。いや、俗説かどうかは問題じゃないんだ。俺の見ているものと君の見ているものは同じで違う、違って同じ、そういうことも考慮しないといけない。それを言ってる。

 だから歩くという動詞が何を意味するか、前提としてまず今ここで決めておく必要がある。比喩でなければ歩くという行為もしくは状態はある面から独立した物体がその面の上を二本以上の足に相当する器官や道具を交互に動かして移動することだ。たとえばスケボーで道路を移動しても歩くとは言わない。しかしローラースケートで滑る以外の自律した移動法を取ろうとすればこれは歩くと言えるだろう。もしかすると今の説明はまずかったかもしれない。歩く歩道は電柱を足にして歩いたりするわけじゃないし、それだったらさすがに俺だっておかしいと思う。歩く歩道がおかしくないわけではないとしても、電柱を足にして歩道が歩くのはおかしい。じゃあ何なのかというと、ただ歩く、こうとしか言いようがない。

 こんな風に考えてもらいたいんだ。朝起きて職場に行って仕事をして帰ってくる。よくあることだ。じゃあ歩道は? 朝起きて歩いて夜帰ってくる。ほらね、考え方次第じゃないか。それでもいちゃもんをつけてくる奴はいてパターンは決まってるんだ。歩道が歩くんならなんでどっか行っちゃわないんですか? 馬鹿げた問いだよ。朝起きて職場に行って仕事をして帰ってくる。よくあることだ。じゃあ歩道は? 朝起きて歩いて夜帰ってくる。ほらね、だから、これなんだよ。犬だって散歩の後には自分の家に帰ってくるのに歩道が帰ってこないわけがないんだ、そもそも。

 でもこの疑問にはさすがの俺も真剣に考えた。どうしてあなた以外の誰も歩く歩道を見ないんですか? それからこれだね。歩道が本当に歩くのなら写真に撮ればいいんじゃないですか? もっともだと思う。どちらも子供が言ったことだが、大人よりも遙かに問題の本質を突いてるよ。その時にはうまい答えが見つからなかったが今の俺ならこう答えるだろう。もし幽霊が歩いていても、君には見えない。でも見えないからと言って幽霊が歩いていないことにはならないね? 君には説明不要だろうが俺は唯物論者だ。このたとえがまずいならこれはどうだ。不透明の扉の向こうで明らかに人が歩いている足音が聞こえる。君はその姿を直接見ることは出来ないが、誰かが扉の向こうで歩いていることに疑いを抱くことはないだろう。今のところこのたとえがもっともシンプルだし、歩く歩道に近い。こういうことなんだよ。

 厄介なのはこんなことを言うと俺がクスリでもやってるんじゃないかと勘ぐる奴がいる。確かにLSDをやってるんだよ。俺が君にこう言うのは俺が嘘を言っていないことを理解してもらうためだが、もしかしたら少し補足が必要かもしれない。単純なことなんだ。俺には幻覚が見える。しかし現実も見える。俺には幻覚と判断できる幻覚が見えるし、幻覚と判断できない幻覚も見える、そして現実と判断できる現実も見えるし、現実と判断できない現実も見える。この四つだ。この四つに知覚が分類されるのはLSDをやってる人間だけだろうか? 言うまでもなくそうではないね。君には夢が見える、しかし現実も見える。君には夢と判断できる夢が見えるし、夢と判断できない夢も見える、そして現実と判断できる現実も見えるし、現実と判断できない現実も見える。ほらね、同じなんだよ。単純なことなんだ。

 それでも俺がLSDをやってるからわけのわからない幻覚を見てるんだと言うんなら、俺がLSDをやってると君に告白した事実はどうなる? もしかしたらLSD自体が幻覚かもしれない。その場合LSDの幻覚によってLSDの幻覚自体が消失するという認知の隘路に陥るわけだが、これは俺だけの問題ではなく、あえて言うなら君の問題なんだ。君から見た俺はLSDでラリってる。LSDでラリった人間が自分はLSDでラリってると語る。君は俺が語る他の――たとえば歩く歩道だ――ことには幻覚認定を下すのに、LSDでラリってるという話だけは真実認定を下す。その根拠は君から見たLSDでラリった俺自身にあるんだよ。そんなものは君の主観的判断に過ぎないじゃないか。もしかしたら俺は嘘をついていて本当はLSDなんかやってないかもしれないんだからね。精神病の歴史は主観性の暴力の歴史だ。俺はできるだけ客観的に話そうとしてるんだよ。唯物論者だからね。

 だが歩く歩道に関する困難はもう一つあるんだ。あの歩道が歩くのは間違いないが、歩いて困る人間は誰もいないし、君はもちろん俺だって困らない。君が外を歩けば誰か別の歩いている人間とすれ違うこともあるだろう。それで? ただそれだけだ。普通はそれだけで何の問題もない。歩く歩道も同じなんだ。あの歩道は歩くが、だからと言って何か問題があるわけじゃない。

 逆に言えばそこなんだよ、問題は。問題がないから誰も問題にしない。これが歩く歩道の問題なんだ。あの歩道は歩く。今でも歩いてるし、これからここまで歩いてくる。それが歩く歩道の日常行動なんだ。俺は今日も歩く歩道を見るだろう。それが俺の日常なんだ。LSDをやっていなくても見る、とはあえて言わない。なぜならLSDをやっていても見えない日は見えないからさ。

 ほらね、やっぱりジャンキーの戯言だ。君は世間の連中と違って理解のある人間だからそうは言わないかもしれないが、言われても仕方がない。LSDに身体的依存性はないからジャンキーの定義が俺に当てはまるかは微妙なところだが、クスリをやってる人間は十把一絡げでジャンキーだからな、この国では。マリファナでもヘロインでも区別なしだ。依存性の問題じゃないんだ。合法か非合法かの問題なんだ。ストロングゼロを毎日3本空けるアル中をこの国はジャンキーと呼ぶか? 17ミリのタバコを毎日3箱空けるチェーンスモーカーをこの国はジャンキーと呼ぶか? 合法か非合法かが問題なんだ。依存性の問題じゃない。

 だが、俺にとってそれはどうでもいいことなんだ。俺は俺の意志でLSDを続けてるし、今後もやめるつもりはない。それでジャンキーと呼ばれても構わないし、正気じゃないと言われても構わない。俺にとってはそれが正気を保つための行動だとしてもね。なぁいいか、ここなんだ。問題はここなんだよ。

 もし俺がLSDをやめて、それでも歩く歩道が見えてしまったら? シラフの君に俺が見えてるみたいに…。

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