100%文句しか書かない『アイの歌声を聴かせて』感想文

《推定睡眠時間:0分》

※以下の文句ぶちまけ感想文は完全に俺のために書かれているので映画のネタバレとかふつうにしますし基本可読性とかぜんぜん考えてません。あとネタバレはこの映画だけじゃなくて『天気の子』にも及んでます。わかった上で読みたいやつだけ読め。

これは一昨日この映画を観た直後の私のツイートですがそんな貶さないでもいいだろって今見直すと自分で引くよね。ムカついてたんだろうなー。でも大丈夫この直後に観た『ダーク・アンド・ウィケッド』が1時間半ずっと厭なことしか起こらない愉快なホラー映画だったので『アイ歌』のストレスすっかり解消、今はとっても冷静にこの映画のことを考えることができます。ポジティブとネガティブを同じくらいに浴びる、やはりそれが健全かつ幸福な人生の秘訣だろう。私自身はぜんぜん健全でも幸福でもないんですが。

いやぁでもね、俺のムカつきツイートにもそれなり理由っていうのはあって、ぶっちゃけて言うと本当はそんなにムカついてない。だって俺大人なんで。本当はそんなにムカついてないんですけど、『アイ歌』を観ながらずっと二つプラス一つの映画のことを考えていて、それは『天気の子』と『竜とそばかすの姫』と、プラス一本というのはそれと比較する意味で『ロン ぼくのポンコツ・ボット』で、そういう映画のことを考えながら若くして(大丈夫なのかなぁ…)の老婆心が出てきたんで、『アイ歌』を観て気持ちよ~くなってる人たちを少しだけ厭な気持ちにさせてやろうと思ったんですよね。

なんで(大丈夫なのかなぁ…)ってなるのか。それは『天気』と『竜』と『アイ歌』がいずれも熱狂的なファンがついて興行収入的にも大ヒットを飛ばした(『アイ歌』だけはスマッシュヒットぐらいかもしれない)邦画の劇場用アニメだからで、そこに共通する要素を抽出すると次のようなものになる。一つには理想化された地方と薄汚く貶められた中央の対立、一つには無力でイノセントな子供と保身に走る権力を持った大人の対立、一つには地味で孤立気味で心にわだかまりを抱えた高校生が主人公であること、一つには守られる存在でありスピリチュアルな存在としての女性イメージが見られること、一つには超越的な体験を通して高校生男女が結ばれること。だいたいこんな感じになります。

これらの要素を超乱暴にまとめて一つのモチーフに還元すると、『天気』と『竜』と『アイ歌』というのはつまりこういう映画だと言える。周縁に追いやられた人間が魔術的な方法で中心に報復を遂げ新たな世界を産む。これってかなりアナーキーな思想ですよね。俺はアナーキーな映画は好きなんですけどそれはアナーキーだとわかっているからで、わかっているからアナキズムを娯楽として楽しめるっていうところがある。問題はこのアナキズムと破壊性を『天気』と『竜』と『アイ歌』の主要なそして熱狂的な観客は理解しているのかということで、俺に言わせればそれは大いにあやしい。全然わかってないと思う。

更に言うなら作り手もそれを観客にわからせないように映画を作ってると思う。邦画の劇場用アニメがまとうアナキズムと破壊性は伝統のようなもので、その路線を一般化した宮崎駿なんか完璧にそっち側の思想の持ち主として意識的にそれをアニメでやってますけど、たとえば『風の谷のナウシカ』にしても、大友克洋の『AKIRA』にしても、押井守の『機動警察パトレイバー 2 the Movie』でもいいですけど、そういう邦画劇場用アニメ史に残るような映画ってアナキズムと破壊性と、付け加えればその後に待っているかもしれない新しい世界/ユートピアの構想が帯びる危険性にちゃんと自覚的だから、それを安全なものだったり優しいものとしては提示しないんですよね。だからこそあえてその危険を突き破る革新的な表現だったりシナリオだったりができるとも言えるし。

翻って『天気』と『竜』と『アイ歌』はどうかというと、ひとつの傍証として、この映画は三つともそこそこの規模の騒動が起きますけどその騒動の被害者っていうのはほとんど画面に出てこない。言い方を変えるならば破壊の痕跡が無い。宮崎駿が映画の中で破壊を描く時にはその被害っていうのは絶対に見せる。まぁ人じゃなくても建物がぐっちゃぐちゃに壊れるとかね。上の三作で言えば『天気』は東京が水没するのでそれには当たらないような気も一見するんですけど、宮崎駿であったら描くであろう破壊そのもの(『崖の上のポニョ』みたいな)は大胆に飛ばしていて、水没した東京が既成事実化した単なる風景として現れる。つまりこれは主人公の選択の結果としての破壊には見えないようになっているわけです。あるいは破壊でさえない。

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ダラダラと違う映画の話を続けるのもどうかと思うのでそろそろ『アイ歌』の感想に絞っていくと、まぁだからさ、基本はそれなんだよな、俺が『アイ歌』に感じる嫌悪感っていうのは。観た直後にはまたこんなツイートもしている。

怒ってるなぁこの人。ごめん怒ってないとか先に弁解しましたがこう見るとやっぱキレてました。冷静な感じにキレてるのが陰湿系のパワハラ上司っぽくて嫌ですよね。よかった役職と縁のない底辺清掃バイトで! まそれはともかくこのへんで『アイ歌』に対する俺の数多い難癖の一つをまとめておくと、非常に常識的な意見ですが、破壊であるとか犯罪をその罪や被害を見せないようにして肯定的に描くのはモラル的にかなりよくない。上のセルフ引用ツイートが全てですけど『アイ歌』ではAIが主人公の女子高生を幸せにするために色んな犯罪(AIだから犯罪にならないとかそういう問題ではなく)に手を突っ込むわけで、たとえばその一つはメガソーラーと風力発電施設のジャックですけど、その影響で一時的にどこかの人工呼吸器に電力が供給されなくなる可能性だってないわけではないじゃないですか。それを完全に無視してエモい泣ける~とかやってていいのかなっていうのは俺はすごい思いますよ。おかしいですよね、人が無責任にたくさん死ぬ映画ばかり好んで見ているというのに!

次の論点に移る。といっても上の議論の続きのようなもので、そうして表面的に無毒化された「破壊」の先の新世界の創造がここではヘテロ高校生男女の性的な結びつきで示唆されるわけですが、じゃあその具体的な新世界のビジョンはどのようなものかというと、実はこれは『天気』にも『竜』にも『アイ歌』にもない。ちょっとだけタイトルを出しつつ触れていなかった『ロン ぼくのポンコツ・ボット』はこうあるべきっていう未来の具体的なビジョンがあって、その点が(それだけではないとしても)邦画の大ヒット系アニメと『ロン』ほかの洋画劇場用SFアニメのヒット作は違う。『アイ歌』とかって破壊だけあって未来がないんですよ。まったく空虚で形骸化された、よって危険な未来志向だと思う。

ただ『アイ歌』みたいな映画を観た人がそこに空虚を感じることはおそらくあんまりない。それは演出の力とかもあるんでしょうけど、田舎の舞台設定が大きいんだと思ってる。都会は常に変化するところだから未来を想像しようと思ったら今とは違う風景を思い描かないといけないし、その不安定さが都会っていうところがあるじゃないですか。それに対して田舎っていうのは基本的に大きな変化はなくて(部分的に機械化が進んでいても町全体が変わることはない)十年先でも二十年先でも同じ風景を想像できる。田舎は風景が安定してるし、その安定は心の安定ともダイレクトに結びつく。だから『アイ歌』みたいな映画では破壊の先の未来がどんな形か提示する必要はないし観客に想像させる必要もない。画面の中の田舎の風景を眺めていればそれだけで輝かしい未来が約束されたように思えてくるんです。

ここで第三の論点に移りたいんですが、そうした田舎の安定性は言うまでもなく継続的な出産と定住を前提とする。『天気』とか『竜』とか『アイ歌』がヘテロ女子高生の異性恋愛の成就で幕を閉じるのは偶然ではなくて(ここでも『天気』はまたちょっと事情が違うのだが)、作り手がどの程度意識的に行っているかはまた別の話なんですが、女キャラっていうのは意地悪な言い方をすれば産む機械としてこういう映画に出てくる。とくに『竜』の細田守作品なんかはその傾向が顕著ですけど、この『アイ歌』でも女性キャラの物語内での役割に着目すれば、その傾向は疑いようがなくなると思う。

一人は主人公で、ディズニープリンセス(的な)が大好きな彼女はAIちゃんの導きで幼なじみの男の子と結ばれます。彼女はまた母子家庭で家計を担当しており、そうして二重に母親のイメージを背負っているわけです。もう一人の女キャラは主人公の母親で、この人はAI技術者として歌うAIのシオンちゃんを育てる。キャリアウーマンじゃないんですよね。メタ的なレベルでこの人が担うのは結局母親の役割なんです。それは件の歌うAIシオンちゃんも同様で、最終的にそれは赤子にとっての母、上空から見守り子の幸せのために危険を除去する母のイメージをまとう。最後にもう一人出てくる女性キャラは主人公の同級生ですが、この人は男との恋愛にしか興味がないキャラクターとして設定されていて、実際それ以外にほとんどなにもしない。

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女は男に恋する生き物であり子供を産んで母親となるだけの存在である。俺にはこれはずいぶん古色蒼然としているなぁ…と思えるのですが、この極端な保守性は学友たちの形ばかりの多様性によって、主人公の母親の出世を阻む男上司という典型的な悪役の投入によって、おそらく隠蔽されるだろう。まず前者を見てみれば、それが記号としての多様性に過ぎないことは、彼ら彼女らがシオンちゃんがAIロボットであることを知りつつも主人公の「お願い」によってその事実を隠蔽することで繋がった仲間であることを挙げれば充分だろうと思う。「お願い」を共有しない人間、「お願い」を破る人間はこの時点で仲間から排除されているわけで、言い方を変えれば彼ら彼女らは仲間になる以前から既に仲間の要件を備えているわけだ。それは予定調和であって多様性の発現ではない。

後者について見てみれば、とにかくこれがまぁ単なる障壁としてしか物語の中で機能しない薄っぺらい悪役なのですが、意地の悪い男のせいで女の出世が妨げられるというようなフェミニズム的物語は、その後に登場するもう一人の男の存在によってたちまちかき消されてしまう。これは『アイ歌』の中では非常に興味深い箇所なのですが、その男というのはなぜかカメラワークや照明によって顔の見えない男性副社長で、主人公の母親はここでも副社長にどうか公正な裁きをと「お願い」し、それに応える形で顔の見えない副社長は主人公の母親を妨害した男上司を裁く。

なぜ顔が見えないのだろう? 俺としてはここから天皇制に話を持って行きたくもあるがそれはあまりにも(文字数的な意味で)危険なのでここではしないとして、結局は男に対する「交渉」ではなく「お願い」によって主人公も主人公の母親も事態を好転させることで、男優位の社会に対する異議申し立ては見事にスポイルされるわけである。つまりはこの二人の女キャラは男と対決しているように設定上は見えるようになっているけれども、実際はしていない。そして「お願い」することしかできない弱い女として性格付けられることで、彼女たちを周囲の人間が守る必要性が持ち上がる。その必要性は母体としての女のイメージで更に補強されることだろう。守られる女と守る男(たち)という古の構図が、「田舎の未来」を作るものとして無批判的に復活するわけだ。

ここでは女の労働問題が男性優位の保守思想を正当性しまたその存在を隠蔽するために用いられているわけだから、フェミニストを自認する人間であればこういう姑息なやり口には文句を言った方がよいし、その罠には気付いた方がよい。若干脇道に逸れるがひとつ引用文を入れておこう。これは『アイ歌』の破壊の痕跡なき破壊とビジョンなき未来志向に対する批判に読み替えることもできる。

解放の理論を欠いた解放の思想は、啓蒙もしくは運動論に帰着するほかない。女性解放運動家にとっては、この世の中は、「性差別」という「社会的不公正」がはびこる野蛮な社会であり、この「不正義」を許しているのは、「男性の横暴」と「女性の蒙昧」だということになる。「すすんだ理想」と「おくれた現実」――これが近代主義フェミニストがしばしば陥る「フェミニスト進歩史観」である。そして「すすんだ理想」と「おくれた現実」のあいだを埋めるのは、「啓蒙」という名の、徒労にも似た「シジュフォスの労働」だけになる。〔…〕啓蒙と教育によっても変わらない頑迷固陋な人々に対しては、パワー・ポリティクスしかない――つまり運動の力で政治の場において彼らを少数派に転落させることである。
上野千鶴子『家父長制と資本制』

最後の論点。このようにして見事に進歩主義的物語・フェミニズム的物語を偽装した反進歩主義・反フェミニズムの物語は落ち着くべきところに落ち着く。それは主人公を見守るためだけに存在するAIちゃんが星を覆うネットへと居場所を移し地球全体を主人公の恋愛と出産と育児(それがこの物語の中の「幸せ」なのだ)を円滑に行うための揺りかごに変えるというもので、田舎の変わらぬ風景とすべてを覆い尽くす「母」が、主人公から自立の可能性と個としての存在を完膚なきまでに叩き潰し、相思相愛が実り手を繋ぐ男女という定型化されたイメージの中にその残りカスを投げ入れてしまうことで、自由など思考することさえできない、ただ子を産むためだけにそこに居続ける、それゆえに幸せな復古主義のディストピアが完成する、ということなのだ。

ポスト構造主義の哲学者、ジュリア・クリステヴァは日本を訪れた時の印象をこのように語っている。

何よりも美しい庭園のひとつが竜安寺の庭園です。もちろんこれらの庭園での観想により導かれるにちがいないこの空にする状態は、母という覆いに自分を完全に任せるような太古の状態への回帰ではないかと自問できましょう。「私はいない。でも他者がいるのでもなくて(母という対象は他者として感じられないから)、ひとつの空間があるだけだ。私たちの境界は混じりあっている」……。西欧では精神分析の上でこの空の状態はひとつの欠乏とか苦痛として体験されます。というのも私たちには日本人が所有しているような文化的コード化がないからです。
ジュリア・クリステヴァ『日本的《バロック》』棚沢尚子/天野千穂子 訳

そもそも主人公の「幸せ」は、幼児期にそれを「幸せ」としていたものをAIちゃんが保持し続け、年月を経てすっかり忘れた頃に主人公に再び押しつける幼児的な「幸せ」である。女児の幸せと女子高生の幸せが同じわけがないだろう。どうしてそれをイイ話などと感じる観客がいるのかといえば、思考放棄の甘い香りがそうさせているとしか思えない。映画の冒頭に出てくるIoT家電に埋め尽くされた「打てば響く」均質な田舎ハウスが理想的な住まいとして提示され最後まで批判的な眼差しが向けられることがないように、人間が何も考えない状態にも批判の目は向けられない。

何も考えないことの美徳は田舎の美徳でもあるだろうか。ともかくそんなわけでイエスタデイ・ワンスモアが「何も考えていなかったあの頃」の方が幸せだったとして平成日本を昭和日本に戻そうと目論んだようにAIちゃんは何も考えないことを主人公に要求するのだ。そしてこの映画ではそれに抗ってタワーを駆け上がる人間は誰もいない。むしろ逆に、主人公たちは(それが表向きの目的ではないが)無思考のユートピアを現実のものとするためにタワーの頂上に自ら向かいさえするし、その願望は科学というよりは神秘現象に属する不合理な「お願い」によって奇跡的に成就するのだ。なんという退行的な映画だろうと思う。

これでだいたい文句は終わったのでリラックスタイムということで文句とは別に思ったことを二三。この絵柄ってなんかエモ系のエロゲみたいですよね。『天気』の公開時にこの文法はエモ系のエロゲと同じとツイートしている人がいて、エロゲをやらない俺が言っても説得力がないが慧眼だと思った。エモとエロは思考からの逃避という点で同じカテゴリーに属するのだから、これらの反知性主義を標榜するアニメ映画がエロゲと似るのも当然のことだろう。あれちょっと文句っていうか悪口入ってない!?(入ってない、入ってない…)

俺としては『天気』とか『アイ歌』はキラキラ映画の作りとよく似てると思ったし、『アイ歌』でAIの声を担当したのが土屋太鳳という事実はこの映画とキラキラ映画との直接的な結びつきのそれなりの根拠になる(土屋太鳳とえいばテン年代のキラキラ映画を牽引したキラキラスターだ。俺はキラキラ映画をよく観てるから知ってるんだ!)。結局キラキラ映画も作品のメッセージというか、作り手はあんま考えてないんでしょうけど結果的に打ち出してしまうイメージは同じなんですよね。田舎賛美とか反知性主義とか母性信仰とか多様性なき多様性とか。キラキラ映画の場合はもっとジャンクな感じで完全にお仕事として作られてるからその薄っぺらさに『アイ歌』みたいに嘘がなくて素直に楽しめるんですが。

あとアトラスの名作ゲーム『デビルサマナー ソウルハッカーズ』ともちょっと似てる気がした。中層階の連絡通路があるツインタワーが終盤の舞台になっているとかアクティブな性格の女性電子生命体が人間として主人公たちの仲間に加わるところとかわりと共通点が多い。悪魔の出てこない『ハッカーズ』って感じだな。そんなの面白いですか?

…面白くねぇよ!

【ママー!これ買ってー!】


声の網 (角川文庫)

声から生まれ対話で成長する電子生命体といえば星新一の長編SF代表作『声の網』。子供向けショートショートの名手のイメージが根強い星新一だがこれを読めばそんな誤解をいつまでも放置しておいていい作家ではないことがわかる。これはもうサイバーパンクですよガチで。サイバーパンクでかつ全体主義に関する鋭い洞察の書。その呵責の無い社会批判は『アイ歌』みたいな映画が持て囃される現代にこそ必要なものだ。

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