こっち来るなよ映画『カモン カモン』感想文

《推定睡眠時間:15分》

今でこそ週5ペースで映画の感想を(クオリティはともかく)書き飛ばしている俺だが中学校ぐらいまでは何かの感想を書くということが誇張でなしにまったくできなかった。何を書いたらいいのか、というか、そもそも「感想」という概念がわからない。俺はバカなガキではなかったのでそれなりに本は読んでいてスティーヴン・キングとか江戸川乱歩とかあとはその当時流行っていた『パラサイト・イヴ』『バトルロワイヤル』『アナザヘブン』なんかも小学生の時に読んだ。むしろ本を読むのは好きな方で、ところが感想を求められるとなにひとつ言葉が出てこない。

じゃあ読んで何も思わなかったかというとそうではなくて、そうだったらそもそも好んで本なんか読まないんだから読んでる間は楽しんで読んでるわけです。俺ができなかったのは要するに事後的に感想を作るということで、まぁちょっと考えてみてもらいたいんですけど「あの部分が超面白かった!」という映画なり小説なりの感想があるとして、「あの部分」ていうぐらいだし実際にそこを見たり読んだりしている時は「超面白かった!」とは思わないわけですよね。それは事後的に作られた感想で、実際に作品を見ている時にリアルタイムで感じている言語化されない印象とは違う。

感想というのは物語で、普通の人は意識することなく印象と感想を一致させることができたり、あるいは印象を感想で上書きするわけですけど、俺はそれができなかった。つまり、感想を書けと言われて俺は(再現不能な)印象を書けと言われているように理解していたわけです。だから作文も弁論も詩作もまったく書けない。本をよく読んでいたこともあって物語を作るのは小学生の頃から得意で、その能力と「感想」を結びつけられるようになったのは高校に入ってようやく、という感じ。なかなか苦労したねぇ。「今の気持ちを言いなさい」とか問われても本当にわからなかったからな。それで反抗と捉えられて怒られたりしてさ。

まぁでも、その迂回も無駄ではなかったと今の俺は思ってる。なぜなら先に書いたように「感想」というものが事後的に作られた、より強い言葉で言えば捏造された「物語」でしかないことを肌で知っているから。気付かない奴は大人になっても死ぬまで気付かないことを俺は早くもガキの時分に気付けたわけだ。それでなんの得があるかといえば、このように週5ペースで映画の感想が書ける。それは得なのかという当然の疑問も湧くがとりあえずその点は無視するとして、しょせん感想なんて作り物ってわかっていればこそ、パーツとパーツの組み合わせで無限に感想を作ることができるわけだ。はい、じゃあ『カモン カモン』くんカモン!(以降ちゃんと映画の感想になりますすいません)

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なんでこんな前置きをしなければいけなかったかってこの映画主人公のホアキン・フェニックスが雑誌かなんかの編集者だかで子供のインタビューを録る仕事をしてんのね。でそのインタビュー模様が映画の折々で入ってくるんですけどまあああどのおガキ様も立派な「感想」をお持ちでさすがアメリカ、ガキの時分でどいつもこいつも政治家のスピーチみたいに話しやがる。バカバカしいったらありゃしない。こんなものは子供の「本音」ではないし「言いたいこと」でもないんだよ。子供を子供としてではなく小さな大人としてインタビューをするっていう状況の中で子供は大人の好きそうな物語を捻り出しているだけだ。

ところがこの映画はそれを子供の真実であるかのように描写してしまうし、インタビューを「子供と真剣に向き合おう! 子供の声に耳を傾けよう!」ってな具合にある種の善行として捉えてしまう。アメリカらしい考え方だとは思う。とくにアメリカのニューエイジ・リベラルらしい(配給がA24というのに納得しかない)。その世界観の中では感想が印象を凌駕していて、錯綜する印象は理路整然とした感想に隠れて見えなくなるばかりでなく、感想=物語によって印象が意味づけられると同時に今後の印象の方向性さえ決定されてしまうのだ。

ホアキンが世話をすることになる準主人公の異様に可愛いガキの父親が精神科病棟に入院していること、そのことでガキが混乱しているように「大人たちには」見えることは示唆的だ。事後的に構築される物語が正常とか健常と見なされる世界の基盤なら、精神疾患の世界の基盤はその場その場で生じる印象だからだ。それを恐れているのは子供ではなく健常者の大人の方だろう。

ガキが頻繁に一人でどっかに行くなどの問題行動を起こすとホアキンの姉に当たるガキの母親はその動機をこんな風に解説する。「あの子はあなたを試してる。ぼくを本当に守ってくれるの、ぼくに本当に関心を持ってくれるの…」。本当にそうだろうか? 単に退屈してたんじゃないの? 携帯ゲームでもやらせときゃ落ち着くんじゃない? このガキは母親もしくはホアキンの方針でスマホは週に一回一時間しか触らせてもらえないし家にはゲームもDVDも見当たらない。アダルト子供キッズチルドレンの俺に言わせればこんなもんはやんわりとした虐待である。ゲームぐらいやらせてやれよ。このガキに友達がいないのだってその教育方針に依るところも大きいと思うぞ…まぁそれはいいとして。

何が言いたいかって言うとさ、この映画に出てくる大人たちって超高度に物語化されていて、物語で徹底的に印象を飼い慣らそうとするんです。それは裏を返せば物語に収まらない印象を恐れているということ。ゲームとかスマホというのは瞬間的な快楽を追求する装置で人に物語ではなく印象を与えるものだ。だから母親とホアキンはそれを嫌うのではないだろうか。

ガキの問題行動に大した意味なんかないかもしれない。そこにはガキの印象しかないかもしれないのに、ホアキンら大人たちは物語を見ようとして、その物語にガキの印象を回収しようとする。この物語は意味と言い換えたっていい。すべてが理性の形作る意味に覆われた大人の世界のなんと息苦しいこと! そして、そんな大人たちに合わせてインタビューで物語を語る理性的な子供たちの、なんと薄気味悪いこと。

俺はなにもガキを印象だけで生きる生き物だと言いたいわけじゃない。小学生の俺が読書感想文は書けなくてもホラ話的な物語ならすいすい書けたようにガキにだって物語はある。けれども印象もあるわけで、その印象の一切を否定しようとするこの映画の「やさしさ」は俺には耐えられない程の臭気を放つ。映画として面白いとか面白くない以前に、この思想が俺にはかなり無理だった。

【ママー!これ買ってー!】


『ハモンハモン』 [Blu-ray]

タイトル似てるなって思っただけでとくに意味はないです。

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2 Comments
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匿名さん
匿名さん
2022年5月14日 4:28 PM

同意見、私も映画が終わったとたん、「あっ!これドキュメンタリーじゃなかった!」と我に帰り、薄ら寒くなったひとりです。