シャマラン凱旋映画『ノック 終末の訪問者』感想文

《推定睡眠時間:15分》

最近シャマランとロジャー・コーマンって結構似てるんじゃないか説が出てきてシャマランの映画って『ハプニング』とか『アフター・アース』みたいに広い範囲を舞台にする映画もありますけど基本はなんか狭いところに人間を閉じ込めて会話メインで進行させるじゃないですか、世界はどうやらこんな大変なことになってるらしいみたいのも会話とあとテレビの映像とかだけで説明して。それがなんかコーマン映画っぽい。AIP時代のコーマン映画って一にも二にも予算をかけたくないから宇宙探検だとか核戦争後の世界だとか設定は無駄にスケールがでかいのに実際観るとラスト10分ぐらいまでずっと宇宙船の中だけとか山小屋の中だけとかで話が進むみたいのよくある。それで、だけど、なんかハッタリ効かせたオチをつけたりなんかして安いけど映画観たなって感じにさせてくれたりする。そうそこもシャマランとコーマン似てるのよ。

ただシャマランとコーマンが違うのはコーマンはあくまでも商売と割り切って映画をやってるわけですけれども(といっても製作ではなく監督した映画を観ればコーマンも立派にアーティストであることがわかる)シャマランはもう少しアーティスティックな動機で映画を作ってる。そのために融通が利かないところがあって一時期はハリウッドから干されてしまった…というのはわざわざシャマラン最新作の感想を検索なりなんなりしてここに辿り着いた選ばれし読んでる人には言うまでもないことだろうが、なんでそんな言うまでもないことをわざわざ書くのかといえば俺シャマラン前線復帰作の『ヴィジット』から先のシャマラン映画にずっとシャマランらしさよりコーマン的な商売性を感じてたんですよね。

観客はこういうの観たいでしょ、観客はこういう展開喜ぶでしょ、みたいなさ。面白いんですよ『ヴィジット』も『ミスター・ガラス』も『オールド』も。面白いし好きだけど、なんか費用対効果を結構シビアに計算してる感じがあって、できるだけ金をかけずに一人でも多くの客を映画館に呼ぶには何が必要かってことから逆算して映画を作ってるっぽいから、『アンブレイカブル』みたいな客の好みよりも自分の趣味嗜好思想哲学を明らかに優先してた頃のシャマラン映画が好きだった俺としては一抹の寂しさもあった。

まぁだから、今回嬉しかったね。戻ってきたなと。『サイン』と『ハプニング』と『レディ・イン・ザ・ウォーター』のシャマランが戻ってきましたよみなさん…それもあの頃よりもずっと洗練された形で! なにせ冒頭からして見事なもの、少女が山小屋の外でイナゴを捕って遊んでいるとそこがあたかも自分の家ででもあるかのようなナチュラル足取りで尋常じゃない風体のデイヴ・バウティスタがやってくるわけだが、シャマランは一目見ただけでこれは尋常じゃないぞと思わせるキャラクターやシチュエーションを作るのがやはり巧い、あんなに眼鏡のつるが頭に食い込んでるのに素知らぬ顔をしているバウティスタを見たら何も説明せずともこれは大変なことだと観客は思わずにはいられないだろう。

でそこから『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』的攻防を経て山小屋内外のみでシャマラン的黙示録が語られるわけだが、いやぁこれは本当にね、渋い技巧がたくさん詰まってる。たとえば山小屋の主はゲイのカップルで二人は中国系の養子をもらってる。ハリウッドで流行中のポリコレ配役なのだが、その配役によってこのゲイカップル+中国系養子を襲撃して「世界を救うには君たちのうち一人の犠牲が必要だ…」と世迷い言をのたまうバウティスタ一派が宗教かなんかで狂った人に見えてくる。果たしてバウティスタ一派が言っていることは本当なのか? それとも単に狂ってるだけなのか? というのが読めないわけですよ、ポリコレ配役によって。

ほぼほぼ山小屋のみという舞台設定はとうぜん会話劇メインになるので最初の方はわりあい眠くなるっていうか寝たがこれも効果的で、バウティスタ一派は君たちが死なないから世界がこんなことにといって世界中で急に頻発してるらしい災厄ニュースをテレビで見せるのだが(スマホ圏外という設定)、ニュース映像でしか世界の状況がわからないからそのニュースを信じていいかわからない。本当のニュースかもしれないがバウティスタ一派の作ったフェイクかもしれないし、よしんば本当のことだとしても現実世界に目を向ければ毎日世界のどこかで大災害大事件大変異が起きているわけだから、ただ単にいつものニュースと思えばそうも見える。

それが良いか悪いかはともかく下手な監督が作るとポリコレって単にポリコレになる。ほぼほぼ山小屋オンリーの舞台設定だって凡百な監督が作れば単なる予算的制約以上の意味はもたない。でもシャマラン違うんだよな、何も考えずに導入すれば映画にとってマイナスに働くかよくてもプラマイゼロぐらいにしかならないような要素をちゃんとプラスに作用させてる。匠の技ですよこれは。しかもそれを全然お金をかけずにやってるわけですから。バウティスタの初登場場面だってカメラ据え置きでとくに煽るような凝った撮り方はしてないですけど、それが逆に怖い。カーテンの向こうに人がいるかいないかというようなシーンで、ごく単純なショットを絶妙な間で繋ぎ合わせるだけでサスペンスを高められる。そういう映画の作り方ができるんですよ今のシャマランは。

妄想か救済かといういかにもシャマラン映画な問い立てもかつてのシャマラン映画のような独善性はなくしっかり地に足のついた正統進化、災厄だらけの現代に生きる人々が抱える不安や心労あるいは狂気を寓話的に表現した映画としてヨーロッパのえらい映画祭に出品されても全然おかしくない。おそらく観る人によって捉え方が180度違うであろうラストも…っと危ないそれは言わないでおくが、奇妙な余韻を残して良かったなぁ。

まそんなわけでね、『ノック 終末の訪問者』、たいへんよかったです。たぶん『ヴィジット』以降きちんと収益を上げる映画を作る人として実績を積んできたからなんだろうな、観客に媚びることなくしかし自分の殻にこもることもなく社会性と娯楽性が見事に両立されてる。ようやく本当の意味でシャマランが帰ってきたよ。それもしっかり大人の映像作家になって還ってきたというわけでうう…なんかイイハナシダナー!

【ママー!これ買ってー!】


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『レディ・イン・ザ・ウォーター』が公開された時に柳下毅一郎が町山智浩との対談の中でシャマランを黒沢清と並べて論じてて、そのときは(シャマランを擁護しつつ)シャマランは黒沢清より格下だけど的なトーンだったんですけど、今のシャマランを黒沢清と比較したらどうかっていうのはちょっと聞いてみたい。というわけで手法的にも内容的にも『ノック』とよく似た90年代黒沢清の到達点『カリスマ』をどうぞ。

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