完全に予想外の爆裂ヒット映画『国宝』感想文

《推定睡眠時間:0分》

主人公の父親であるところのヤクザ永瀬正敏は敵対組織のカチコミを受け、背中の入れ墨に雪を浴びながら日本刀を構えると、これがヤクザの流儀だと言わんばかりにまだ中学生ぐらいの主人公に「よう見とけぇ」と言い放ち、任侠映画のようにカチコミヤクザに迫るのだが、そこで銃声とどろき、主人公の父親は別のカチコミヤクザに射殺されてしまう。これが映画の最初のシークエンスだが、時代はたしか1964年。1960年代はテレビの普及や民間航空路線の拡大などによりヒト、モノ、カネそして情報がダイナミックに世界中を移動するようになったことで、戦後から現代へ時代が大きく変わった転換期であり、映画においても1960年代を通して旧来の様式美を重視した任侠映画がリアル路線の実録ヤクザ映画に変質していくが、地縁や血縁といった伝統的・封建的なものが解体され、外部から入ってきた新しいものに次々と取って代わられることが、新しい世界のルールとして形を成し始めた時期であった。

身内を失った主人公は父親の知り合いだった高名な歌舞伎役者の渡辺謙に拾われ女形の芸を渡辺謙の息子と共に厳しく仕込まれることになるのだが、やがて歳月が経ち思いがけない偶然から、渡辺謙の跡目を息子ではなく主人公が継ぐことになり、ここにそれまで親友であった主人公と謙の息子(成長したら吉沢亮と横浜流星になりました)の激しい確執と栄枯盛衰のドラマが幕を開ける。ということで、これは日本の戦後から現代への移り変わりを背景として、そうした時代の大きな流れの中で変革と、そしてそれに伴う混乱を余儀なくされた日本の伝統芸能であるところの歌舞伎の世界の揺れ動きを、名跡の血を持たないが溢れんばかりの才能に恵まれた主人公と、名跡の血は持っているものの才能的には凡人というその親友を通して見せる映画が、まさかの爆裂ヒットとなっている『国宝』なのであった。

いやはやまさかここまで売れるとは。その勢いは止まらず公開週から興行成績が下がらないどころか週を重ねるごとに口コミ効果で動員数が上がっているというのだからにわかには信じられない。なにせランタイム3時間の芸道映画である。いくら吉沢亮と横浜流星の二枚看板といっても題材的にもランタイム的にも到底大ヒットが見込めるような映画とは思えないのだが、現実は土日ともなれば都会のシネコンでも全回満席でチケットが取れない異常事態。劇中でも親父の跡目は自分が継いで当たり前とばかり思っていた横浜流星くんが謙の乱心により吉沢亮が跡目に抜擢されるという想定外の事態に大いに狼狽していたが、この映画関係者の誰一人として予想していなかったであろう人気爆発には俺もめちゃくちゃびっくりである。

しかし実際に観てみれば、まぁここまで売れるとは思わないが、ウケる要素は多分に含んでいたのであった。一言でいえばこれはNetflixドラマの総集編みたいなのである。昔からそうとも言えるがとくに配信時代たる現代の連続ドラマはイベントの連続で視聴者の興味を引き続ける作りがベターになっており、次から次へと事件や刺激的な描写などが続くので観ている方は次はどうなるか次はどうなるかと先が気になって途中で視聴を止めることができない。3時間と長い『国宝』だが観ていて飽きないのはそうした作りになっているためで、シーンが変わる毎に誰かが栄冠を掴んだり逆に奈落に落ちたりとドラマはダイナミックに展開し、その間を繋ぐ間奏曲として吉沢亮と横浜流星が演じる様々な歌舞伎の演目がある。豪勢な見世物だなぁと思う。

もっともそうした連続ドラマ的な作りが犠牲にするものは必ずあるわけで、この映画の場合は登場人物の心理描写の深みや、物語の背景となっている時代相じゃあないだろうか。もともとヤクザの息子でとくに歌舞伎に興味があったわけでも女形に憧れを持っていたわけでもない主人公の吉沢亮はどうしてあれほど跡目に固執したのだろうか。俺が想像するところでは、それは主人公が心の底ではヤクザの息子という「血」から逃れたいと思っていたからなのだが、そうした主人公の心理を納得させるような繊細な描写は見当たらない。ようするに大味である。

最終的には半世紀におよぶ大河ドラマということを考えれば、そりゃまぁ予算の都合とかもあろうけれども、もう少し歌舞伎界の外にある日本の変貌を映してもいいと思うが、それもこの映画には無い。詳しいことは知らないが監督の李相日はチェン・カイコーの『さらば、わが愛/覇王別姫』をインスパイア元として挙げているらしい。なるほど『覇王別姫』も半世紀に渡る二人の女形京劇役者の大河ドラマであるが、しかし『覇王別姫』の場合は大日本帝国の統治であるとか独立後の文化大革命であるとか、物語の背景となる中国現代史がしっかり描き込まれ、二人の京劇役者の波瀾万丈の運命からは中国社会の激動が見えてきたものであった。それを考えれば『国宝』の方はカメラが歌舞伎界の外に一切出ないので物語の奥行きに乏しく、単に二人の歌舞伎役者の個人的なドラマに収斂してしまった観がある。今はBLとかシスターフッドとか個人の関係性にクロースアップした視野の狭いフィクションがウケる時代なので現代に合っているとも言えるが、今の観客の欲望に忠実であることで映画として大切なものを捨てたとも言えなくもないかもしれない。

渡辺謙や田中泯の芸鬼っぷり、吉沢亮と横浜流星の歌舞伎演目、脇を固める寺島しのぶや嶋田久作、芹澤興人などのイイ顔たち、種田陽平による美術と、見所盛り沢山の娯楽大作であることは間違いない。でもたとえば、芸に魅せられた人間の業のようなものをここから感じ取れるかといったら案外そうでもなく、そういうものならこの映画の半分以下の上映時間(とおそらく予算)しかないプログラム・ピクチャーの『喜劇役者たち 九八とゲイブル』なんかの方がよほど強く迫ってくるし、芸の世界の物語ということであれば、浪曲師の世代交代を捉えたドキュメンタリー映画『絶唱浪曲ストーリー』に見えた老名人の凄みを超えるものは、『国宝』にはなかったように思う。

落ちぶれた吉沢亮がビルの屋上で夜景を背景に舞うシーンはおそらく人間国宝・坂東玉三郎をスイスの鬼才ダニエル・シュミットが捉えたドキュメンタリー映画『書かれた顔』にインサートされている舞踏家・大野一雄の舞踏シーンのオマージュだと思うが(田中泯演じる人間国宝の女形のモデルは大野一雄だと思われる)、『書かれた顔』とか『覇王別姫』とか、なんかこうやってネタ元作品を並べると『国宝』はこれら偉大な先達たちの外見だけを真似て中身はあまり伴っていない映画のように思えてくる。けれども、歌舞伎というのは型でありスタイルであり、顔を書けば、その書かれた顔の方が中身になってしまうような、表面の美学によって成立している芸術形態であろうから、『国宝』もまた歌舞伎や女形を題材とするに当たってそんな表面の美学に徹した映画と言えないこともない。

少なくとも、実力では決して及ばないことを作り手自身が(たぶん)痛感しながらも、それでもあえて『覇王別姫』や『書かれた顔』の表面を演じようとするその姿勢は、先代に追いつこうと認められようと骨身を削る劇中の二人の若き女形と重なって、悪い気はしないんじゃあないだろうか。面白い映画だったと思います。

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カモン
カモン
2025年7月13日 4:51 PM

すごくいいレビュー
これまで見た『国宝』レビューの中で一番正鵠を射たすばらしい内容だと思う
『覇王別姫』とはまるで別物で較べる対象ですらないと思うので何かと無闇に引き合いに出されたり監督自身が(中国へのリップサービスだとしても)言及したりするのにうんざりしていたけどこういう見方なら納得