純愛キラキラ特攻隊映画『あの花が咲く丘で、きみとまた出会えたら。』感想文(ネタバレあり)

《推定睡眠時間:20分》

これまで映画スター、警官、教師、消防士、世界的大金持ち、弟など様々なイケメンと交際を重ね、イケメンがいるとなればどこへでも赴いてきたキラキラ女子高生だが、その思いはついに時空を越えて今度のキラキラ女子高生は特攻隊と決死の恋愛、そんなバカなと呆れるかふざけるなと怒る人もいるかもしれないが、実はキラキラ映画とSFは相性がよく、傑作『orange オレンジ』をはじめ『ぼくは明日、昨日の君とデートする』『初恋ロスタイム』『君が落とした青空』、SFではないのだが構成が時間SF的な『今夜、世界からこの恋が消えても』など、キラキラ映画において時空を超えた恋愛はそう珍しいものではないのであった。

珍しくないのはもちろん時間SFの設定だけではない。ストーリーに関してもいつものキラキラ映画である。川で溺れた子供を助けようとして父親が死に、それから何年経ったのか知らないが未だその傷が乗り越えられないでいるらしい主人公(福原遥)は反抗期真っ盛りで、彼女を大学へ送ろうと必死こいて働いている母親に反発し進路面談でもゼロ回答、父親さえ死ななければ…くっ! とか思いながら激しい雨の中衝動的に外へと飛び出し防空壕に避難、そのまま眠りについて目を覚ますとそこは1945年6月、敗戦直前の日本であった。

どこがいつものキラキラ映画やねんと思われるかもしれないが、むしろこれこそがキラキラ映画。なにもかもがない戦争末期の日本で主人公は仮住まいさせてもらっている海軍指定食堂で汗水垂らして働き空襲を受けて戦争の悲惨さを学びそして敗戦の未来を知っているにも関わらず恋した早稲田哲学科の特攻隊員(水上恒司)を止められない自分の無力に打ちひしがれたりしたのちに現代に帰還、今ある平和は当たり前のことじゃないし大学で勉強できるのも当たり前じゃないんだ、お母さんごめんねお父さんありがとう、わたし家のお手伝いもするし大学にだってちゃんと行く!

てなもんで人間的成長を遂げるわけだが、なにかしら強い不満や迷いを抱えた恋愛慣れしていない思春期女子高生が異性との交際もしくは交流という冒険を通して内に秘めた悩みを克服する、というビルドゥングスロマン(教養小説)がキラキラ映画の本質であり、俺が今まで観てきた限りではこうした構成を取らなかったキラキラ映画はひとつもない。いや、ひとつぐらいはあったかもしれない。でも思い出せないからそうしたキラキラ映画は相当なレアケースか、キラキラ映画の範疇を超える映画と考えていいだろう。

『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』はビルドゥングスロマンの原則に忠実であると同時に、これもキラキラ映画のあるある(代表例は『ういらぶ。』)なのだが、精神分析的な物語構成を取っていた。なぜ主人公が特攻隊員と恋をするのかといえばこの特攻隊員がイケメンだったという身もフタもない現実もあるが、物語上の意味はこの特攻隊員は誰かのために死を覚悟した人=子供を助けるために死んだ父親の代理、なのだ。現代で主人公が半ばヤケクソ気味になっていた原因はある意味で自分が父親に捨てられたことに根があるのであり、特攻隊員とのプラトニックな恋愛に加え、空襲による火の海の中で孤立していたところをこの特攻隊員に助けられるという、死んだ父親が川で溺れた子供を助けたエピソードをシチュエーションを変えて自分が体験することで、父親の行為を受け入れ、それによって主人公は心の中のわだかまりを溶かすことができたのである。

ややもすれば特攻賛美と取られかねないセンシティブなネタであるがそのへんなかなか巧いところで、主人公は火の海から特攻隊員に救われた時点で父親の人助け死を理解しているので、その後飛行場から飛び立つ特攻隊員を町の人々と共に見送るシーンで彼女は特攻の右翼的ロマンティズムを体現しているのではなく、これは死んだ父親からの親離れを象徴するシーンなのである。1945年にタイムスリップした女子高生が云々と言われればアホかの一言で済ませたくなるが、タイムスリップ前日に主人公はテレビの特攻隊特集を見ており、タイムスリップというのはその無意識の記憶が見せた夢という現実的な解釈は、実はバリバリにできるちゃんと考えられた映画なのだ(これは要検証だが、俺の見間違いでなければ1945年の町に現代の服装をしたエキストラが通るシーンが一箇所だけあり、そうだとすればこの出来事が夢であることの証左になるだろう)

その上で、1945年の日本の時代考証もどこまで細かくできているかは俺にはなんとも言えないとしても、少なくとも特攻隊を含めて都合良く美化する形にはなっておらず、結構ちゃんとその時代を再現しているようには見えたのでなんか感心してしまった。特攻隊といえば絶賛公開中の『ゴジラ-1.0』の主人公は特攻に出たものの途中で死ぬのが怖くなって急遽機体不良を偽り離島の飛行場に降り立った人だったが、それを「まぁどうせ無駄な攻撃なんだ」みたいな感じで理解してやるこの飛行場の部隊長も含めて、こんな物分かりの良い現代的な考えの帝国軍人が当時いるわけない。いたとしたらきっと日本は開戦に踏み切っていなかっただろうし、そもそも帝国主義にも染まっていなかっただろう。

それにひきかえ『あの花』の特攻隊員たちは現代の考えではなかなか理解の難しい人たちである。「お腹ぺこぺこ隊、参上!」とかいうクソ面白くないジョークと共にドタドタと食堂に現れ、クソでけぇ声で大ヒット軍歌『同期の桜』を歌い、主人公が特攻なんて無駄じゃないですかと至極真っ当な21世紀的見解を述べると貴様ぁ! 俺たちは自ら特攻に志願したんだ! それを愚弄するかあああああ! と激ギレする。ちなみにこれは主人公が惚れたイケメン特攻隊員と別の特攻隊員で、主人公がまたもや空気を読めず日本は戦争に負けるんですよと警官の前で言ってしまい貴様あああああとやられていたところを止めに入ったイケメン特攻隊員の方は「気にするな、あの警官が悪いんだ。…いや、もしかしたらあの警官も犠牲者なのかもな…」とかなり冷静に現況を分析しているのであった。さすが早稲田哲学科、これは惚れる。

そんな頭の良い人でも時代の空気に逆らえず特攻に向かわざるをえないニッポン1945年初夏、配給は日に日に乏しくなり町を歩けば両親が死んだというボロボロの服装のガキが路地裏に転がっている。ラジオの大本営発表では日本は相変わらず連戦連勝だが、本当は日本は負けていることを市井の人々は肌で知っている。にもかかわらず、あるいはだからこそ、特攻に向かう若者たちを彼らはこれから神様になる人たちなんだバンザーイバンザーイと泣きながら見送る。その絶望と狂気。それに比べて現在の日本の人たちはなんと恵まれていることか! …というあたりやや説教臭い対比なのだが、とはいえそれは実際にそうだろう。戦時中に比べれば今の方が千万倍マシに決まってる。

ストーリーはしっかりしているし演技にも映像にも安っぽさはない。舞台は茨城の行方市なのでおそらく予科練平和記念館と思われる施設でのロケも敢行しており、ウェルメイドではあるがただのお仕事として撮っている感じもない。女子高生と特攻隊員の恋愛という珍奇な設定からキワモノ映画とか右翼映画みたいに思われてしまいがちだが、これはなかなか真面目によくできた反戦キラキラ映画の佳作じゃあないだろうか。

映画の感想はこれで終わりだがボーナストラック的に「いやこんなもん愛国ポルノだろ!」派のみなさんの誤解を解くための補足をつけておこう。子供を救うために川に飛び込んだ現代の父親と日本国民を守るために特攻に志願した戦時中の若者を同一視する点は、効果のある前者と効果のない後者の区別をつけないという点で危うさも秘めているが、後生の視点からすれば無意味であっても、戦時中において特攻は効果がある戦術とある程度信じられていたからこそ実行されていたのであって、志願者の心理面では明確な差異を見つけるのが難しい。

他人を救うために自分の命を捨てるべきではないという意見もあるだろうが、現代日本でも消防士や警察官やそして当然自衛隊もいざとなれば他人のために命を捨てる前提の職業であり、巧妙に隠蔽されているだけで人間社会が誰かの犠牲的献身によって支えられていることは、今も昔も日本も海外も変わらない。だいいち特攻において非難すべきは志願兵ではなくそれを立案し強制した大日本帝国軍部なのだから、警官という公権力や手紙の検閲という出来事を通して間接的にではあるが軍部の非情と時代の狂気を提示するこの映画は、再度引き合いに出して悪いが(いや別に嫌いなわけじゃないんですよ)『ゴジラ-1.0』よりもよほど特攻に対して批判的である。

「特攻」の批判と「特攻者」の批判は別で、それをしっかり区別して「特攻」を批判しながら特攻と大日本帝国の犠牲になった「特攻者」を悼むのが『あの花』という映画だが、果たしてそうした理性的な特攻批判をできている人や映画がどれほど存在するかといえば、俺にはあまり多いようには思えない。…まぁ、ただその特攻批判とか反戦思想をこの映画の主要観客と思われる泣き目当ての女子高生たちが受け取ってくれてるかどうかは、かなり怪しいところではあるのだが(俺の観た回ミニスカにマスコットじゃらじゃら付けたスクールバックとかいうザ・女子高生の客ばっかだったんだよ)

※完全に余談なのだがこのタイトル、北野武の初期傑作『あの夏、いちばん静かな海。』と似てる。

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