《推定睡眠時間:15分》
映画の最後に出てくるテロップ(英語圏の実録映画にいつも付いてくるやつ)によるとこのリー・ミラーという人は有名な報道写真家だそうで劇中にも出ていたがホロコースト犠牲者の死体写真を撮ったのでそれは有名になるだろうなという感じなのだがモデルから写真家へ転身そして自ら志願して第二次世界大戦の最前線へという実に異色かつ波瀾万丈な経歴の持ち主。趣味は酒とタバコとセックスでカジュアルにおっぱいを晒しがちという昭和豪傑でもあり、映画の題材にはうってつけである。
でもそんな濃い人物の伝記映画にしてはなんか普通だった。戦場写真家の伝記映画としてはシリア内戦で死亡したメリー・コルヴィンを描いた『プライベート・ウォー』というのがあったが、あちらが「これを観ているお前はどうするんだ?」と突きつけてくるような重厚な作風だったのに対して、『リー・ミラー』の方は良くも悪くもかもしれないがリーの人生の一部(第二次世界大戦開戦前~戦後)を表面的になぞっただけの観があり、ちょいちょいユーモラスで楽しいのはいいがそのために迫力が削がれてしまったようなところもある。
そうした印象を強めるのは主演ケイト・ウィンスレットを筆頭にアンドレア・ライズボロー、マリオン・コティヤールという米英仏の豪華演技派女優陣。いずれも「この人が出るならば!」と出演作を観に行ってしまうスタアなので(アンドレア・ライズボローはまだ他の二人ほど知名度は高くないかもしれないが、『ポゼッサー』や『To Leslie トゥ・レスリー』などで独特の中性的な個性ある繊細なお芝居を見せていた注目の人なのだ)その共演、リー=ウィンスレットが行く先々で出会うのが英国ヴォーグ編集長のライズボローとナチスに蹂躙されたコティヤールという展開は華やかで胸躍るが、いや胸躍っていいのかな…? というわけなのだ。監督自身も写真家らしく、そこはあえてウィンスレット以外は無名の役者で固めた方が劇的な効果が出るといった映画的思考がどうもあまりなかったように思う。ウィンスレットの恋人役もアレキサンダー・スカルスガルドとスタアですし。
あとそこはもうちょっと掘り下げて欲しかったというのはまぁこういうのって難しいんですがこれイギリスっていう戦勝国の映画だからリーが国防のために戦場行きを志願する行為が英雄的なこととして描かれますけど、同じことを敗戦国のドイツとか日本でやったらだいぶグロテスクな感じにならんか…? っていう。戦場には女はいらん! という女性蔑視の風潮が当時はあって(今でもあるでしょうが)、リーはそれに抗って強引に戦場に潜り込むんですけど、それが侵攻であろうが防衛であろうが戦場において兵士が行うのは虚飾を剥がせば単なる殺戮に他ならない。したがって女性兵士と男性兵士を平等に扱い女性兵士比率を増やすということは、そのぶん女性に人殺しをしてもらうということになる。たしかにそれは男女平等という観点からは歓迎されることかもしれないが、一方でそれは人殺しの倫理的問題を無視することでもあるわけで、単純に男女平等でいいねで済む話なのかと思うわけである。
映画の終盤では戦場の実情に触れたリーが戦争がこんなに悲惨なんだという写真を撮って英国ヴォーグに掲載するよう送りつけるのだが、そこでも戦争が悲惨というよりもナチスの残虐非道が悲惨という視点を脱するまでには至らず、どうにも煮え切らない。このへんは第二次世界大戦を描く際の戦勝国の人の限界なのかもしれない。そういえばNASAの黒人女性計算手を描いた映画『ドリーム』も原作ノンフィクションではNASA前身NACAが舞台なので主に描かれるのは第二次世界大戦中、戦時中の人手不足によって黒人女性に計算手という高給職への道が開かれた(そしてその仕事は間接的に原爆投下を支援するものであった)という苦い部分もしっかりと描写していて立派なのだが、映画版ではそうした倫理的な難しさが全カットされた上に時代設定までマーキュリー計画の行われた1960年頃に改変されてしまったのであった。
というようなうーんと思わされるところはあるけれども、まぁとはいえケイト・ウィンスレット、アンドレア・ライズボロー、マリオン・コティヤールのお芝居はやはり見事、ウィンスレットのキレイなおっぱいも見られますし、テーマとか表現の面でこの題材ならもう少し踏み込んでくれてもよかったのでは…と思いつつ、面白い映画ではあったとおもいます。
この映画見るかジャルジャルの映画見るか悩むな…面白いなら賛否両論ある後者よりこちらか
全然ジャンルが違う映画だ!なので何のアドバイスにもならない気がしますが、『リー・ミラー』の方はオーソドックスな作りの伝記映画なので、極端に合わないとかはないとおもいますよっ