妄想戦記映画『ONODA 一万夜を越えて』感想文

《推定睡眠時間:0分》

陸軍中野学校二俣分校で秘密戦教育を受けていた青年期の小野田寛郎(遠藤雄弥)が同期の連中となんちゃら節みたいなのを歌っているとメフィストフェレス的な教官(イッセー尾形)が歌詞を変えたなんちゃら節を歌いながらやってきて「俺がやったようにやってみろ」と小野田に脅しをかけるというシーンがあり、果たしてこれがなんだったのか観ている間も観た後も分からずしばらく考えていたのだが、昨日ぐらいになってあぁそういうことかと不意に俺にとっての答えが頭に浮かんだ。

あれはさ、たぶんこういうことなんです。教官は小野田が同期の連中が歌うのと同じ歌詞でなんちゃら節を歌っても「違う! 一言一句が大事なんだ!」と怒鳴るし教官の歌を必死に思い出してそれを再現しても「俺の言っていることの意味がわからないならお前はここを去れ!」と怒る。でも小野田が自分で考えた歌詞でなんちゃら節を歌うと教官はニヤァって笑みを浮かべてそれを認める。全部節回しは同じだけど歌詞は違う。他人のなんちゃら節をそのまま自分のなんちゃら節にしてはならない。ある言葉を聞いてもそれを字義通りに受け取ってはいけなくて、自分の解釈で言葉の意味をねじ曲げなければならない…。

終戦から数年後、未だルパング島のジャングルに潜伏し主に島民をターゲットに破壊工作や戦闘を続けている小野田とその忠実な部下の小塚(松浦祐也)は隊から離脱した元兵士の手引きで島にやってきた帰国事業団の帰ってきなさいメッセージを耳にする。どうやら日本は負けてしまってもう自分たちが戦う意味はないらしい…だがそのとき、小野田の脳裏にあの呪いの言葉がリフレインするのであった。「一言一句が大事なんだ!」

かくして小野田は帰ってきなさいメッセージの存在しない裏を読む。帰国事業団が残していった新聞やラジオの情報をそのまま受け取るのではなく独自に解釈する。帰ってきなさいメッセージは軍部からの暗号であり新聞やラジオは彼ら残留兵を欺くために巧妙に加工されたフェイクニュースである。大日本帝国は死んでいない。もはや小野田には現実など意味を成さなかった。小野田の世界では小野田が信じるものだけが現実であり、虚構の現実の中で小野田は幻想の日本軍の重要人物にしてジャングルの王なのである。

なるほどそう考えればあの不可解な教官の叱責も腑に落ちるね。でも本当にそうだろうか? それはなんかあれじゃないの明後日の方向の深読みじゃない? 大丈夫? 小野田みたいに妄想戦記に片足突っ込んでない? そう言われるとなかなか自信がなくなってくるのでまぁ諸君も映画を観て自分だけの解釈を探すべし。自分だけの解釈を探したせいで小野田と可哀想な部下たちはジャンルをウン十年も徘徊する羽目になったわけだが(でもみんながみんな同じ方向に思考停止して突っ込んだのが先の大戦なわけだから、自分だけの考えを持たないのもそれはそれで悲劇には違いない)

いやそれにしても驚いたよね。ジャングル残留兵として俺の頭にあったのは前にサバイバルエッセイを読んだことのある横井庄一だったので小野田寛郎も名前とか断片的なエピソードは知っているが全体像はよく知らず、横井はなんか別に偉い階級ではなかったみたいだし例のサバイバルエッセイでもジャングルでの若干呑気な生活っぷりしか書いていなかったから小野田もまぁそんな感じだろうと思いきや、こっちは中野学校出身の情報将校でゴリゴリの帝国軍人。

知ってた? まぁ世間の常識は俺の非常識だからみなさんは当然ご存じであったかもしれませんが俺にとってはなかなかなウラシマ的転回、ジャングルにおったから敗戦を知らなかったのとあとたぶん途中からは面倒くさくなって戦況とか関係なく惰性で隠遁生活をやってた風な横井と違って小野田のジャングル潜伏は自ら望んでのものだったわけですなぁ。いやーそうなると見る目もだいぶ変わってくるよ色々と。そんなの『闇の奥』だし『地獄の黙示録』のカーツ大佐じゃん。俺が唯一偉くいられる場所っていうのから抜け出せなくなっちゃったんだね。映画の冒頭では軍国少年の憧れ的な航空兵になれなかった小野田の挫折体験が描かれるが、その挫折が(あくまでも映画の中では)小野田のジャングル潜伏の遠因になっている。

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だから小野田の妄想ゲリラ戦は普通に暮らしてるだけの島民を部下に殺させたりするので醜悪ですけど切なさもあるんだよな。物語のターニングポイントになるのは帰国促しメッセージから「暗号」を読み取った小野田がその解釈が間違いだったことにおそらくは気付くシーンで、でも小野田は腹心の小塚にそのことを言えない。もし自分の間違いを認めてしまったら小塚はさっさと投降してしまうかもしれないし、そうなれば自分の今までの戦いに何の意味もなかったことも、自分が本当はそこらへんに転がってるただの一般人で軍の重要人物でもなんでもなかったことも認めなければならなくなる。戦争に人生の大半を費やした小野田にとってそれは耐えられないことだろう。こうして小野田の精神はゆっくりと死んでいくわけだ。

自縄自縛の動く彫像小野田を演じた津田寛治とたまたまその説得に当たることになった仲野太賀の対話はこの映画の白眉と言え、いやこれが素晴らしい。仲野太賀が演じるのは冒険家の鈴木紀夫でその当時もう死んどるやろと世間的には思われていた小野田を鈴木はUMAでも探すみたいに探しに来るんですけど、このガチ冒険家と妄想冒険家小野田の対比ね。対比と交流。自分のせいとはいえ妄執で動けなくなってしまった小野田/津田寛治が世界を自由に渡り歩く鈴木/仲野を見つめる目の凄み! その視線と銃口に怯まず決死のコミュニケーションを試みる仲野の清濁にまみれた人情味あふれる芝居っぷり!

すごいよねぇ、二人とも本当にその時代の人に見えるしねぇ。でもその時代の人に見えるのはこの二人だけではなくてわりと出てくる人みんなそう見えます。もしかしたら塚本版『野火』の影響かもしれないが映像的にはかなりクリアな今の映像で時代感とかあんま無いしちょっと舞台劇っぽくもあるのでそういう意味でのリアリティは薄いんですけど、なんていうかですね、顔の作りが古い役者をちゃんと選んでるんですよね。今の日本で太平洋戦争の映画を作ると興行保険的に今風に整った顔立ちの役者を入れたりとかするじゃないですか。でも『ONODA』はそういうところがなくてちゃんと古い顔、兵士の顔、前線兵士の悲惨を表情に出せる人にやってもらってるので、俳優の人たちの迫真の演技だけでその空間が戦時中になってしまうんだよな。

台詞は全編普通に日本語だしフランスの映画監督がこれを作ったというのはすごいけど、でも逆に日本の外に住んでる人だからこんな風に撮れたのかもしれないとも思う。今の日本の映画監督が同じようなのを作ろうとしたらたぶん思想の左右とか予算の大小とか関係なくわりとどんな監督でも俳優の顔で戦場を作るっていう発想にはならないよな。なんかモノのディティールとかドラマティックな演出とかで見せようとするから戦争状況はわかるけど戦争風景はわからないみたいな、俺は今の人が戦争風景を理解することは不可能だと思っているのでそれで別にいいと思うんですけど、でもだからこそ俳優の顔で戦争風景を作るっていうチャレンジングな試みを観るとそれはすげぇなってなる。

だからこれは大変よかった映画で、何か不満があるとすれば陸軍中野学校二俣分校のシーンがあまりにも短く、その内容も教官のありがたいマインドコントロールお話会があるだけっていう抽象性はどうかなぁって点なんですけど、でもそこだけだったな。二時間半ジャングルをうろうろしてるだけの戦争映画なのにそこだけなんだから立派。小野田の罪と孤独を可能な限り平等に描こうとするところなんかも。

※と書いたあとになんですがあともう一点のどうかなぁポイントとしてこれは完全に趣味の問題だが劇伴がセンチメンタルに過ぎるような気もしなくはなかった。

【ママー!これ買ってー!】


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役者の顔で戦争を見せようとする数少ない現代日本映画(汚しメイクでかなりごまかしてますが)

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