たぶん日本で一番エメリッヒ版『ミッドウェイ』を評価する感想文(ネタバレ注意)

投稿日: カテゴリー 居眠り映画館タグ , , , ,

《推定睡眠時間:10分》

いい加減にしないか! 君たち! 君たち一体いつまでローランド・エメリッヒを破壊的バカ映画を撮る人だと思っているんだ! 確かにエメリッヒは破壊的バカ映画の巨匠だ! 『インデペンデンス・デイ』でホワイトハウスを破壊し、『GODZILA』でゴジラのイメージを破壊し、『2012』で地球を破壊したハリウッドの破壊王であることには違いない! とくに『2012』は遊び感覚で人体を破壊していく人でなしコメディの大☆傑☆作として永久に俺映画史に刻まれている!!!

だがしかしである! みなさんちょっと考えてみていただきたい! すごいバカで面白いコントを演る芸人さんは地頭もバカなのだろうか? まぁそういう例もあるだろう、そういう例もあるだろう! しかし一般的には! バカっぽいコントでちゃんとお客さんを笑わせられる芸人さんって頭わりと良いんじゃないですか? だって「粗忽長屋」を演る落語家の人をその演目だからって本人まで粗忽だと思う人ってたぶんいないですよね?

なんでそんなことを書くかと言えばだね、90年代的感性をいつまでも引きずって未だにエメリッヒをバカ監督だと思っている輩が多すぎるとは言わないまでも…いややっぱ言おう、多すぎるんだよ! あのね! それはちょっと失礼じゃないですかね! エメリッヒに対して失礼なんじゃない! 映画に対して失礼なのだ! あまりにも映画を表面的に観すぎである! 映画の含意を自分から読み取ろうとしなさすぎである!

俺に言わせればローランド・エメリッヒという監督は相当にクレバーな人ですよ! っていうかそうじゃなかったらあの生き馬の目を抜くハリウッドで大ヒットを連発させることなんかできないですからね! そんなの3秒考えればわかる話です! しかし重要なのはそこではない! エメリッヒがそのバカと破壊に彩られたフィルモグラフィーの中でどういうものを描いてきたんだろうかとそこが問題。

作家的ターニングポイントになったのはやはり2011年の『もうひとりのシェイクスピア』と2015年の『ストーンウォール』。前者はシェイクスピア(戯曲ではなく作者)を題材にした史劇であり、後者は現在のLGBT運動に繋がる1969年のストーンウォール暴動を描いた実話ものである。その間に相変わらずバカで景気の良い破壊の見られる『ホワイトハウス・ダウン』を撮ったりもしているが、ともあれこの二作を考慮すればエメリッヒがバカ映画一本槍の人ではないことぐらい誰にでもわかるし、後者はエメリッヒ自身ゲイということもあってそれなりの作家的気負いもあったであろうということもわかる(※批評的には大失敗に終わった)

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そしてもうひとつわかるのはエメリッヒはあれやこれやを相対化して眺める冷笑的な映画作家だということである。『もうひとりのシェイクスピア』で描かれるシェイクスピアのゴーストライター説はエメリッヒの独創ではないとしても歴史のアナザーに目を向けるものだし、『ストーンウォール』はなんというか粗雑で古色蒼然としていてバカっぽい映画ではあったが、ひとつにはセクシャリティの多様性に目を向ける点で、もうひとつは警官の苛烈な暴力に対して被迫害者がジョークと嘲笑をメインウェポンとする点で、あるいはその時代錯誤な作劇も含めて差別状況そのものを戯画化してしまうクールな視点があった。

エメリッヒの映画はいつも人死にが軽くて笑えるが、それもこうした観点から眺めるなら少しだけ違った風景が見えるんじゃないだろうか。典型的なのは『インデペンデンス・デイ』のUFOビリーバーたちが無情にもUFOにぶっ殺される最高の人でなしシーンである。酷いことするなぁ宇宙人とエメリッヒ、と思いながら俺は笑う。でもそれに対する地球人の報復行為も相手がエイリアンだからわかりにくいだけで実は同じくらい酷いし、UFO浣腸といいますか…まぁ観た人ならわかると思いますが、その方法ときたらバカの一言でこれも笑う。

要するに、エメリッヒは暴力的な全ての行為をその相対主義でもって等しく嗤おうとする作家なのだ。これはたいへん重要なポイントである。なぜエメリッヒがあんなにあっさり地球を壊してしまえるのか言えば、全ての人間を平等に「たかが人間」として描いているからである。そしてなぜ芸術家志望だった西ドイツ育ちでゲイのドイツ人であるエメリッヒが『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』に代表されるアメリカ帝国万歳イエーみたいなマッチョな共和党アクション映画を事も無げに撮り続けるのかと言えば、そんなものエメリッヒは一切信じてないからである。

信じていないからこそエメリッヒはなんの愛情もなくアメリカ白人の暴力と死をカメラに収めてギャグにしてしまう。アメリカ白人なんかしょせん他人のケツ蹴って喜ぶバカばかり…とまで思っているかどうかは知らないが、エメリッヒの奇妙なフィルモグラフィーを一望したときに、そこには確かに冷笑家エメリッヒの逆説的アメリカ批評が見えるのである。

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ということを押さえておかないと! と!! たぶん『ミッドウェイ』は「エメリッヒにしては真面目だな…」みたいな感じになってあんまり楽しめないと思うんですよね。だって『ミッドウェイ』の最高ポイントは俺にとってはそこだったからね。ここにはいつものエメリッヒ的哄笑はないけれども、哄笑を生んでいたアメリカ批評はある。日米を平等に云々などという宣伝のための文句を真に受ける必要なんかない。どう考えてもこれはアメリカ白人に向けられたアメリカ白人のためのアメリカ批評映画である。だって主要キャストは当然としても米軍サイドはエキストラまでオール白人だったからね!(少なくとも俺は黒人を見つけられなかった)

なんでそんなに白いのだろう。おそらくそれはそんなに深読みしないでいいことで、単にアメリカの暴力とは即ちアメリカ白人の暴力だからであり、アメリカの戦争とはアメリカ白人の戦争だったからである。戦争を始めたのも終わらせたのも白人である。あまりにも自明なことなので灯台下暗し的についつい見逃してしまいがちな事実をエメリッヒはガチトーンで奇襲的に叩きつける。これは単にホワイトウォッシュとか無神経とかの言葉で済ませてよい問題ではない。

パンフレットを読むとエメリッヒは今あえてミッドウェイ海戦の映画を撮った理由の一つに「ナショナリズムの台頭」を挙げている。ナショナリズムの台頭に対する映画作家の抗議的アンサーとしてナショナリズムを煽るに絶好のミッドウェイ海戦とかいう題材を持ってくる意味がわからず頭がスキャナーズになってしまうところだったが、落ち着こう、そしてエメリッヒの相対主義と逆説を思い出すべきである。

映画の主人公はパールハーバーで同僚を殺され復讐に燃えるマチズモの権化な戦闘機のパイロット。この人は実在の人物で(ほかの主要登場人物もすべて実在の人物)ミッドウェイ海戦において多大な武勲を立てたが戦闘の後遺症もあって以後戦闘機に乗ることはなかったらしい。もっと重要な色んなポジションの人が出てくる戦争群像劇なのになんでこの人が主人公になったんだろうか。まるでノーマン・ロックウェルの絵から抜け出してきたかのような作り物めいた妻子を見てこの人は思う。ミッドウェイで負けたらアメリカは終わりだ…どこもかしこも日本軍に占領されてしまう。この絵に描いたような幸せな家庭も奪われてしまう。怒りに加えてその黙示録的恐怖が彼を戦場に向かわせる。マッチョの鎧をまとわせる。

命からがらミッドウェイから帰還したパイロットを妻は優しく出迎える。しかしパイロットの表情は暗かった。アメリカにとっては華々しい勝利であったし、パイロットにとっても誇るべき戦闘であったはずなのに、彼は祝賀ムードを受け入れない。もう戦闘機には乗れないとパイロットが語ると妻は彼を抱きしめてこう返す。じゃあ、これからは別のことをやりましょう。

なぜナショナリズムの台頭へのアンサーがミッドウェイだったのか、俺はこのパイロットの抜け殻のような表情を見て理解できたような気がした。『ミッドウェイ』はマッチョなアメリカ白人向けのナショナリズム全開の共和党アクションであった。そして同時に、「敵」に対する憎悪と恐怖から暴力とナショナリズムで武装してボロボロになるマッチョなアメリカ白人に対する同情の込められた、そこからの脱出を促す、やはりこれもエメリッヒのアメリカ批評だったのではないかと思うのである。

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とはいえその批評性は空前のバカ続編にしてアメリカ白人こき下し巨編『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』なんかと比べると遙かに穏当なので普通にナショナリスティックな戦争映画としても観れてしまう。実際、実在の軍人を多数出しているだけあってちゃんと(敵味方問わず)軍人への敬意が感じられるし、というかそういうのを喜ぶ層にこそ観てもらわないとあのパイロットの表情に込められたメッセージの意味がないので、そこらへんエメリッヒの知性を感じるところでもあり、なかなか真意が(俺が真意と思っているだけだが…)伝わらないんだろうなぁみたいな歯がゆさを感じるところでもあった。

現に、おインターネットでこの映画を観た日本人の感想を漁ると相も変わらずエメリッヒをバカ映画監督扱いする輩とか描写がアメリカ側に偏ってるとか中国資本入ってるから抗日的(!)で気に食わないとか…テメェらいい加減にしろよ俺がパールハーバー食らわすぞと心の零戦が発進してしまいそうになるのを必死に堪えることになるわけだが! あのね! そんな幼稚な見方しかできないんなら機関車トーマスでも観てりゃいいだろ! なんかあれだよプラレールとか爆破して遊んでりゃいいじゃん!

なんでもかんでも映画が噛んで含めるように説明してくれるのを機体しやがってこのプロ消費者どもがっ! 消費者なら消費者でいいからせめて消費者としての矜持ぐらい持って映画を能動的に読み解こうとしろ! その結果として色んな見解が出てくるならいいけどお前らただ漫然と画面に映ったものをこれはアリでこれはナシでとか試験官にでもなったつもりで上から判断してるだけじゃねぇか! なんだ抗日的って! バカじゃねぇのか抗日映画だったら山本五十六をあんな理想軍人として描くかっ! 浅野忠信演じる山口多聞の最期をあんな英雄的に描くわけないだろうが!

あくまで俺にとってはということだがそんな志の低い映画じゃないんだよ『ミッドウェイ』は! 鉄と硝煙の質感が素晴らしい宗教画的な海戦シーンは色んなものがたくさん超壊れるので血湧き肉躍るが本質的には批評的な映画であって、その群像劇は決して有機的な人間ドラマを生まずむしろアメリカ白人を巨大な戦争機械に組み込んで単なる出来事の連鎖として非ドラマ化していくが、それはシナリオの力不足ではなく戦場というものは人間に機械となることを求める場であるし、戦争というものは突き詰めれば機械と機械の衝突のエスカレーションである、というようなことをエメリッヒが考えていたかどうかは定かではないが! しかしそのように思考を広げる余地は確かにある映画なのだ! そのへんは観る側で自由に考えてねみたいな!

でその戦場の機械化過程に抗って最期まで人間であろうとするのが山本五十六と山口多聞なんです。感動しましたね。俺はミリオタじゃないから個人名には興味がないんです。そうじゃなくて、この二人の「降りた」瞬間をヒロイックに描こうとするエメリッヒの意志に感動したんですよ。戦場において機械であることを拒むなら降りるしかない。こう言ってよければアメリカ軍は組織が高度に合理化・機械化されていたからミッドウェイで勝利を収めることができて、日本軍はそこまで合理化されていなかったから敗北を喫したが、その不完全さゆえに機械化過程を免れて「たかが人間」を保つことができたんです。

その人間性の残存はミッドウェイ以降の敗北局面では凄惨な内ゲバをもたらすことになるわけだから何もいいことずくめというわけでは全くないが、ミッドウェイで大活躍したパイロットはそこで機械化過程の最終局面に達して自分の人間性を殺してしまったわけだから、それでこそ戦闘機と同化して決死の急降下爆撃を成功させたわけだから、帰還した時には廃人のようになってしまっていたわけで、アメリカ白人の一兵士にとっては試合に勝って勝負に負けたというエメリッヒ流の逆説がアイロニーを廃した切実な形でここにはあるんです。

エメリッヒがインタビューで語っている「戦場には敗者しかいない」は陳腐な文句ではあるが、確かに『ミッドウェイ』はそのことを正面から描いた映画に俺には思えた。すばらしいではないですか。哄笑ではなく考証もしっかりしているっぽいし、局地戦を通して戦争の本質に迫る、ホワイト・アメリカ批評に加えて情緒に訴えかけない反戦、戦争のシステムを正確に見せることで戦争がもたらす人間性の喪失のおそろしさを伝えようとするなんて立派なことです。西ドイツ生まれの破壊王がそれを撮ったというのもオマケのようなものではあるが作品に特別な重しを与えてますよ。

言うまでもなく、ナチス・ドイツの最悪の達成点は半自動化された大量虐殺システムを構築したところにあるわけですから。その原動力がナショナリズムであったこともまた言うまでもない。

【ママー!これ買ってー!】


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映画をどう観るかなんてそりゃ観る人の自由ですが『インデペンデンス・デイ:リサージェンス』を観てエメリッヒは愛国的な映画を撮るなぁと感じる人はちょっと素直すぎないですかね。素直はよいことと学校の先生には教わりましたが…。

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