極限戦闘映画『デンジャー・クロース 極限着弾』感想文

投稿日: カテゴリー 居眠り映画館タグ , , , , ,

《推定睡眠時間:15分》

〈デンジャー・クロース〉というのは自陣営が巻き添えを食らうぐらい至近距離の支援砲撃を指す軍事用語(俗語?)だそうで、劇中では正規軍の北ベトナム人民軍(NVA)と非正規民兵組織の南ベトナム解放戦線(NLF、これがいわゆるベトコンらしい)の合同部隊の猛攻を受けたオーストラリア・ニュージーランド混成軍の中隊がここままじゃどうせ全員死んじゃうからっていうんでデンジャー・クロースの要請を出す。死なばもろもと、生き残ればもうけものだ。それぐらい切羽詰まっていたのが通称「ロング・タンの戦い」、オーストラリア・ニュージーランド混成軍がベトナム戦争中最大の戦死者を出した戦闘なんだとか。へぇ、世の中知らないことだらけだ。そんなの全部知らなかったよ。

っていう歴史童貞ミリタリー童貞の俺ではあるが大興奮でしたよこの映画。疚しいことは隠さずに先に言っておくがぶっちゃけ各キャラクターの関係とか作戦内容とかよくわからん点が多かった。軍服着て泥と血にまみれてりゃ誰が誰かの見分けもつかん。でもね! そんなんじゃないんです。そんなんどうでもよくなる面白さがあった。

オープニング…ざっくりした状況説明テロップが出たのち、ベトナムのジャングルにオーバーラップするNLFと思しき兵隊の突撃姿、やがてジャングルは爆撃されて兵隊は心なしか『プラトーン』的なポーズを取って倒れる…というこの安い絵面に頭の中のB級スイッチがオッ? に入りかけるが、ところがどっこいそこから先は一言で言うならばベトナム戦争版『ブラックホーク・ダウン』です。『ブラックホーク・ダウン』ばりの大激戦っぷり。軍事なんか全然わかんないけど『ブラックホーク・ダウン』超おもしろいからな。だから『デンジャー・クロース』も超面白いのだ。

俺の琴線に触れたのは群像劇ともちょっと違う機能主義的な作劇だった。たとえば観客に近い主人公を一人置いて、その戦場での経験と心境の変化をドラマとして見せる戦争映画ってあるじゃないすか。『プラトーン』とかそうっすよね。でもこれはそういうのじゃなくて、個人のドラマというものがそんなに無い。別に無いわけじゃないんだけれども圧倒的な状況に対して芽生えるもの、という立ち位置で、個人のドラマよりも戦場の状況の方が前に出てくる。

状況が前に出てくるってことはその状況を作り出すものも前に出てくるわけで、それは具体的には何かっていうと、最前線の小隊からの無線連絡が後方の中隊に行って、まずそこで何かしらの判断がある。でその判断は今度は司令部みたいなところに行って、そこで大局を見た別の判断がある。そこから迫撃砲部隊に支援砲火命令が出たり座標の連絡があって、その支援の結果を受けて最前線から再び連絡が…みたいな戦場のフィードバック・システムと各兵士の軍隊の中での機能の描写。

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これがかなりリアルな感じ(感じなのでリアルかどうかは知らない)で、俺こういう風に組織がどう動くかっていうところに焦点を当てた物語がすごい好きなので、そうか戦場はこうやって作られるのか、軍隊はこんな風に動くのか~ってもう、興味津々でしたよね。前線から後方部隊へ、後方部隊から…って風に戦場の遠心力に引っ張られてどんどん戦闘に関与する人間が増えていくあたりゾクゾクもんですよ。米軍の支援機が現われた時には鳥肌だったね。

戦闘シーンの迫力はもちろん『ブラックホーク・ダウン』もそういうところが面白かったが、その機能主義的作劇の何がイイって戦場じゃ人間なんか機械の代替物でしかないんだよみたいな身も蓋もなさです。これも『ブラックホーク・ダウン』と被るところだが見てご覧なさいなオーストラリア・ニュージーランド混成軍に襲いかかるNVA・NLAの兵士たちを。防御なんかまるで考えずただただ銃もしくは銃剣もしくはそれもなければマチェットを手に突進してくるその姿は『ターミネーター』に出てくるアンドロイド兵士のようではないですか。

愛国的な映画だし「ロング・タンの戦い」で犠牲になったオーストラリア・ニュージーランド兵を讃えるために作られた(とはいえ、この戦闘でのオーストラリア・ニュージーランド側の戦死者は18人、一方NVA・NLA側は245人も死んでるので、数を競ってもしょうがないがオーストラリア・ニュージーランド混成軍の悲劇である以上にNVA・NLAの悲劇なのだが)とパンフレットに制作動機が書いてあるぐらいだから敵側にあまり関心を向けないのは当然だが、追悼目的でリアルに戦場を再現しようとしたら軍隊の機械性とその中で踏み潰されていく個人のドラマ、そうしたものを強いる戦争の厳粛な狂気が露わになってしまって結果的に身も蓋もない冷徹で平等な視点を獲得しているのがこの映画なのだ。

敵も味方もなくただただ人間が血を流す機械として壊れていく光景が刻々と変化していく天候…濃霧に覆われて数メートル先も見えなくなったり、ゲリラ(まさに!)豪雨にずぶ濡れになったり、雷が直撃したり…の中で繰り広げられるが、その荒々しい生きた自然と機械化された人間たちの戦闘の対比は一種幻想的なムードを醸し出して、なにやらリアルを突き抜けて不条理劇のようにも見えてくる。平等であるとは残酷であるということだ。そして残酷であるとは不条理であるということだろう。その意味で実録戦記ものを超えた奇妙なおそろしさやうつくしさを俺はこの映画に感じた。

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手持ちの武器を総動員した激しい白兵戦と度重なる迫撃砲の砲撃・米軍の航空支援で戦地となるゴム林は白い樹液をまき散らしながらズタズタに引き裂かれ焦土と化していく。まるで世界の終わりのようであるが、米軍の航空部隊が正確な爆撃目標を立てられないと知るやあっさり別の戦域へと離脱してしまう(オーストラリア・ニュージーランド混成軍は自前の航空部隊を出しておらず、航空支援は米軍に要請するほかなかったとのこと)ように、こんなものはしょせんどこにでもある局地戦に過ぎないのであった。

ならばせめて埋もれた犠牲者に光を…とこうして映画化されたわけですが、いやぁ、堪りませんねぇ、この、破壊と死体と兵器に彩られた過酷で過剰で空虚な戦場。そんな意図はないはずなのだがこんな戦争にはなんの意味もないと言わんばかりだ。意味を失ったこの世ではないような空間で一寸先のランダムな死に怯えながら兵士たちは戦争機械の歯車になる。この戦場では全てが一つだ。兵士も兵器も司令部も、自陣営と敵陣営もが一丸となって戦場の破壊だけを目指して動き続けるのだ。だからこそ、そこに反動として芽生える兵士個々人の小さな人間性がドラマを生むんである。

ジャングルを神話的に捉えた映像美もまたすばらし、たくさん出てくる兵器もすばらし(なんでもオーストラリアの特製機関銃オーウェンガンの大活躍がミリオタ的見所なんだとか)、砲撃を受けながら紅茶の飲んだりするのほほんユーモアとそれとは対照的な唐突な死の描写もすばらしければ、冷たくも暖かくもない、ただそれが自然の成り行きであるような戦闘シーンは最高にすばらし。はいはい、傑作傑作。傑作でーす。

※エンドロールにこの戦いに加わったオーストラリア・ニュージーランド混成軍の兵士たちのご本人画像と演じる俳優の答え合わせみたいなやつが出てくるが、別に歴史上の人物というわけでもないのにわりとどの役者も本人にちゃんと似ていて作り手の本気感があった。

【ママー!これ買ってー!】


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おもに『ラスト・サムライ』の原案と製作総指揮を務めたことで知られるニュージーランドの異端派映画監督ヴィンセント・ウォードによる幻視的な戦争映画。英米流の戦争映画を期待すると肩すかしでは済まず肩パンを食らうと思うがおもしろいです。ちなみにベトナムものではない。

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