なかなかむずかしい映画『アンネ・フランクと旅する日記』感想文

《推定睡眠時間:0分》

オランダ・アムステルダムにあるアンネの隠れ家は現在アンネ記念館となっているそうで実物アンネ部屋&日記を一目見るべく多くの人がわざわざ開館前に列を作りその一方通りの反対側ではシリア難民の人々が苦しいテント暮らしを余儀なくされておりお前らアンネアンネと大騒ぎするがアンネの受難を思いやる優しさと想像力があるならなぜ目の前の難民にそれを向けてやれないのかと冒頭から痛烈な皮肉が発せられるのであったがところでアンネの日記ってみなさん読んだことあります?

俺じつはない。そして多少の申し訳なさもないでもないがぶっちゃけそんなに興味もない。なので何年前の話だか忘れてしまったが図書館にあるアンネの日記のページを故意に切り裂いて誰かが逮捕されたというニュースを耳にしたときにはなんじゃそりゃと思ってしまった。だって好もうが嫌おうがたかが本じゃないですか。たとえば俺は乙一の小説は一切評価してないので読むとバカじゃねぇのと思いますけどだからと言って本を破ろうとは思わないし…パッと思い浮かばないのだが俺がこの世で一番憎む人が本を書いてそれが図書館に置いてあったとしてもそんなの読まなきゃいいだけの話ではないかと思ってしまう。

でも破らずにはいられないという人はいるんでしょうね。映画の中でもアンネの部屋に石を投げて窓を割るやつがいたが、このニュースが教えてくれるのはアンネの日記が帯びる象徴性で、それはある人にとってはユダヤ民族の悲劇の象徴であり、ある人にとってはお勉強的に知っておくべき知識の象徴であり、またある人にとっては陰謀論的「支配者」の支配の象徴だったりするのかもしれない。象徴として見られ破られ賞賛されあるいは唾棄されるアンネの日記。

ふと思ったのだが俺がアンネの日記に興味が持てないのも無意識的にその象徴性を嫌っているからなのかもしれない。象徴として消費される本なんか面白いわけがない。村上春樹をぜんぜん読む気がしないのも俺には春樹ファンが春樹の本をただ象徴として見ているだけで文を文として読んでいるようには思われないからで(※偏見)、同じようなことはアンネの日記にもあるんじゃないかというのはまさしくこの映画『アンネ・フランクと旅する日記』が言わんとすることの一つだった。

誰も彼もアンネの日記をただ見ているだけで読んでなんかいないのだ。それはきっと難民を見るようにして、あるいはナチスを見るようにして。もし読んでしまえば目が受け流したその悲惨や恐怖を飲み込んで自分の中に入れないといけないから。

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アンネの日記ページ破り事件の時には当然といえば当然のことだが俺の記憶ではサイモン・ウィーゼンタール・センターが犯人を非難する声明を出したはずで、これは今も変わらないがなにもそこまで過剰に反応しなくてもと当時はぼんやり思ったものだった。犯罪者を非難して何が悪いと良識ある人から怒られそうだが過剰な反応(これも「何が過剰なのか!」と怒られるそうだが!)は対象の象徴化に一役買うことになる。図書館の本が損壊されれば本来被害者は本の所有者であるところの図書館とか自治体だろうが、それを飛び越えた第三者の介入は本の損壊という具体的な事実を形骸化して事件を象徴を中心に再編成することになるだろう。

最近のニュースで少し呆れたのはアンネ・フランクの密告者をアメリカの作家だか研究者だかが特定したかもしれないというもので、はっきり言って(少なくとも俺には)どうでもいい。そんなものを今更特定したところで一体なにになるのだろう? というか、誰がそんなものに関心を持つのだろう? これがケネディ暗殺犯の正体ならそこにニュースバリューもあろうがアンネ・フランクは単なる一般市民なわけで、その密告者が特定されたところで書き換わる歴史はない。端的に言ってこんなものはゴシップであり、アンネ・フランクはいよいよ象徴から井戸端コンテンツにまで堕ちたのか、となにやらガックリ来てしまう。日記を読んだこともないのに!

という風にアンネ・フランクの名前だけが一人歩きして日記の方はと言えば顧みられることのない薄情現代ですからそんな扱いをされたら日記も怒ります。バリバリー! 怒ったぞー! 稲妻を浴びたアンネの日記からはびっくりなんと日記に書かれたアンネの架空フレンドちゃんキティが生まれ出たではありませんか! アンネ記念館の外で日記を持っている時だけ人に見えるという中途半端にして寓意ありありの特性を持つ特殊ゴーストのキティちゃんはお友達のアンネを探して現代アムステルダムの街へとさまよい出たものの…というのがこの映画のあらすじ。

まぁねぇ、そうねぇ、面白いイイ映画だったんですが難しいなと思ったよ、だってこれ自体ひとつのアンネの象徴化でありコンテンツ化だからさ。アンネ実は聖女じゃなくてこんな普通の女の子! っていうイメージの刷新だって象徴もしくはコンテンツの位置をずらしただけでアンネの実像を救い出したことにはならない。等身大の女の子というものがハリウッドのアニメ映画が最近よく題材にするようにむしろ人気商品となった現代なら尚更のこと。アンネの実像を救い出すにはただ一人一人がアンネの日記を読むしかないし、そうして読んだところで結局アンネの実像などいまさら誰にもわからない、という諦めの先にまぼろしのように、でも確かに存在しているのがアンネの実像なのではないか。俺はこの映画のラストをそんな風に受け取った。

映画のもうひとつのテーマは難民だがこれは啓発以上のものは俺には感じ取れなかった。あえて言えば象徴としてのアンネの物語を難民の肉体を使って現実問題に置き換えることに浅はかさを感じたぐらいで、アンネはアンネだしシリア難民はシリア難民で言うまでもなく両者はそう簡単に重ね合わせられるものではない。重ね合わせの発想が先にあってそのためにある種記号的にシリア難民が使われたのだとしたらセコイやり方だなぁと思うが、そうではなく仮に100%の善意でこうなったとしても感心できることではないよな。だって今度はシリア難民がその一人一人の実像を失って象徴化されてしまうわけですから。

面白い映画だとは思うがそんなわけでなんか微妙だったよ。いろいろ考えさせてくれるって意味ではよかったですけどね。

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