ラディフェミ一代記映画『グロリアス 世界を動かした女たち』感想文

《推定睡眠時間:35分》

監督がジュリー・テイモアで出てるのがジュリアン・ムーアとアリシア・ヴィキャンデルとかならもう少し公開規模が大きくてもいいような気がするが都内では立川の、少し足を伸ばしてもみなとみらいのそれぞれキノシネマ(木下グループの映画館でこれはその配給部門キノフィルムズの配給作品)でしかやってなくて、しかも2020年の映画ということだから内容的にこれだと売りにくいっすねぇみたいな(及び腰の)劇場判断もあったんだろうかとかなんとなく想像する。

内容というのはこれはグロリアさんという70年代から現在にかけて活躍中のラディカル・フェミニズムの活動家がいてその伝記映画なのだがラディカル・フェミニズムだから思想的にかなり尖っており、この人は家父長制っていうのをとりあえずの仮想敵に定めてこの世の「すべて」の不平等の根絶に邁進するんですが、すべてがカギ括弧に入ってるのが俺的なポイントで、要はそれってこの人が主観的にこれは不平等だって考えるものでしかない。

それがよく表れているのがジュリアン・ムーア期の主人公(年代ごとに四人ぐらいの俳優+本人の映像で演じ分けられてる)が現代のニューヨークでタクシー拾う終盤のシーンで、その運転手が粗野なオッサン外国人でえらい乱暴な運転をして車の前を横切ったロシア系住民(?)に毒づくんですね。でそれに対して主人公「ロシア系も同じ仲間だろ! 外国人差別をするな!」とか言う。すると運転手「俺はウクライナ移民だよ!」っつって、一悶着あった末に主人公は半狂乱で「おめーみたいな差別主義者はこの国から出てけ!」とか言ってタクシー降りちゃうんですよ。

俺はこのシーンを見てこいつひでぇなって思った。どっちがってもちろん主人公の方で、だってあんたは食うに困らないだけの金があって楽とは言わないが安全かつ自己実現のできる仕事もしていて元々アメリカに住んでるから足場も安定してますけどウクライナ移民のタクシー運転手オッサンなんてどう考えてもあんたより苦しい生活をしてるじゃないって思うし、このシーンが具体的にいつのことだかは描かれないんですけど2014年のクリミア併合以降のエピソードなら運転手に与しろとまでは言わなくともその「憎悪」にもそうならざるを得ない状況があることぐらいは思いを馳せてもいい。というか倫理的にはそうすべき。

でも主人公はそうできないんですよね。そこには厳然たる不平等があって、少なくともその場においてはアメリカ白人女性の主人公の方がウクライナ移民のタクシー運転手より優越的な立場にあるのに、主人公は相手が男だからっていうだけの理由でそれを認められない。だから尖ってるっていうか独善的なんですよ、端的に言えば。

だけどそういう独善性を主人公の弱さとしてむしろ積極的に描いているように見えるところがこの映画の面白いところで、たとえば、主人公と活動家仲間の女性たちがオッサンの出てくるテレビの論評とかトーク番組を見ながらそれが不愉快だと「消していいな!」「おう!」って感じで消すシーンが何度も繰り返される。それをちゃんと見据えようとかそれに反論しようとかしないでタクシー運転手と同じように単に視界の外に追い出しちゃうんですよね。

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ほんの些細なシーンなんですけどその素っ気なさが逆に印象的だったのが2016年のアメリカ大統領選の結果を受けて主人公が「この敗北を将来の勝利のための痛みとして受け入れよう。改革には痛みが伴うものだ」みたいなたぶんスピーチ原稿を一人でタイプしてるシーンで、そこで主人公は自分たちの輝かしい将来は見ているんですけど何が現在のトランプ勝利を生んだのかっていうことは見ようとしない。この映画はアメリカ公開が2020年だから同年の大統領選に向けてのエールとか反撃の狼煙みたいな側面があって、様々な国のフェミニストのデモを捉えたラストシーンからすればトランプ勝利に触れたたったワンシーンにそれ以上の意味はないのかもしれないんですけど、でも主人公の盲目的な態度が結果的にはよく表れていたんじゃないかって俺には見えた。

ジュリー・テイモア流の面白い趣向は主人公の心象風景っていうのが折々で入ってきて、現在にあたるジュリアン・ムーア期では主人公の過去たちが今の主人公にそれで良かったのって問いを投げかけたりする。少女期の主人公は男と結婚して子供を二人ぐらい産んで庭にプールのある家を持ってアメリカっぽい車を買ってみたいな、現実にはすべてそうはならなかった将来を夢見ていて、それがオブセッションのようにジュリアン・ムーア期の主人公につきまとう。

その緊張関係。こういうシーンの後にはすぐにまた仲間との活動の中で活き活きしている主人公が描かれて「これでよかった」と過去の自分を打ち消すんですけど、打ち消したかと思ったらタクシー運転手のシーンのような現在の主人公の正しさを揺るがすエピソードが入ってきて、でそれもまた活動に入ることで忘却される。主人公はそんな風にして前に進んでいて、だからこの人は正義のヒーローとしてはここで描かれていなくて、そのようにしか生きられない不器用で孤独を背負った人って風に捉えられてる。

ラディカル・フェミニストの伝記映画でこれは攻めてるよね。だって運動の原動力を家父長制とか不平等じゃなくてこの人の個人史とかパーソナリティの方に置いてるわけですから。主人公は比較的恵まれたところにいて、主にマイノリティの彼女の運動仲間たちの方が遙かにリアルで切実な不平等の経験とその解消の要求を持っている。インド留学の際のフィールドワークで女性差別の実相を知ったことが主人公の活動の出発点となったこと、幸福な幼少期が父親の蒸発(死んだのかもしれない)で終わりを告げたことは示唆的で、なんでもよかったということは無いにしても、自分の居場所を探していたときにたまたま反差別運動やフェミニズム思想に出会ったというところがある。

題材の持つ思想とそれを扱う作り手の思想のそうしたズレのどこまでを作り手の側が意図しているかはわからないし(でもジュリー・テイモアはインテリだからかなり意図的にやってるんじゃないかなぁと思うんですが)、観客にどの程度意識されるかもわからないんですけど(ネットの感想を見ると意識はしてないけどなんとなく引っかかりを感じてるような人はわりといた)、そういうところが俺は面白かったな。なんか三池崇史のヤクザ映画みたいなんだよ、表面的な荒々しさをペロッとめくると一転どうしようもなくうら寂しい世界が広がってる感じが。

※あと主人公が華々しく活動するのは70年代なので時代に合わせて音楽がファンキーでよかったです。

【ママー!これ買ってー!】


『タイタス』[DVD]

シェイクスピア全然知らんと前に別の映画の感想文で書いたら『タイタス』から入るといいとコメント教わり観てみたところこれがびっくりバリバリの前衛映画、しかも残酷描写とかがすげぇ。三池崇史とジュリー・テイモアは映画監督デビューがほぼ同時期なんですけど三池もこの手の前衛映画をゼロ年代に撮っていたし同じような場面が『13人の刺客』に出てくるので影響与えてるんじゃないだろうか(『タイタス』は1999年の作)

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