自由と恐怖の産業革命映画『ノスフェラトゥ』(2024) 感想文

《推定睡眠時間:50分》

吸血鬼といえば今ではなにやら貴族的なイメージがまとわりついているっぽいがこれはわりと現代的な、具体的に言えば1897年に刊行されたブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』以降のイメージのようで、昔の吸血鬼小説っていうか民話? とかを読んでいると元来吸血鬼というのは蘇った死体のようで、今で言うゾンビと幽霊の中間ぐらいな存在らしい。小説版『吸血鬼ドラキュラ』とその映像化権が取れなかったから内容をパクって別タイトルで映画化した(ヒドいな!)F・W・ムルナウによるオリジナル版の『ノスフェラトゥ』では吸血鬼が貨物船で街まで運ばれてきてしまうわけだが、元々の吸血鬼というのは民間伝承であるから地域密着型であり、たまたま吸血鬼の住まう村を訪れてしまった都会の人が吸血鬼に魅入られて夜な夜な恐ろしい目に遭うというのがベター。そう考えると『吸血鬼ドラキュラ』が吸血鬼業界にもたらした影響というのは革命的なものがあるのかもしれん。

だいたいそんな意味で『吸血鬼ドラキュラ』の序盤およびそれを映画化した『ノスフェラトゥ』が間接的に描いていたものは進歩の意味と言えるんじゃないだろうかというのはこのリメイク版(『吸血鬼ドラキュラ』を無許諾映画化した『ノスフェラトゥ』のリメイクとは? と思ったらちゃんと『吸血鬼ドラキュラ』の方の権利も取っているらしい。じゃあ単に『吸血鬼ドラキュラ』の再映画化で良くない…?)が性的に抑圧された、といっても別にヒドい待遇ではないのだが19世紀前半の産業革命後期という時代背景ゆえ今の時代ほど自由にエロを愉しむことはできなかった主人公のリリー=ローズ・デップが、吸血鬼との邂逅に快楽を感じる夢を見る場面から始まっていたからであった。ハマー映画版の『吸血鬼ドラキュラ』とかにはそんな感じの描写もあるが、これはオリジナル版の『ノスフェラトゥ』にはなかった視点なんである。

文明の進歩は少なくとも表面的には人々を生まれたその場所や生まれ持った属性から切り離す作用がある。原始時代なら山奥の洞窟で生まれた人は一生その周辺で暮らすしかなかったかもしれないが、文明の進歩した今の世ならまぁカネさえあれば飛行機で世界中行きたい放題、というわけでその恩恵は基本的に万人にあるが近年の欧米+周辺国はフェミニズムがブームなので進歩はとくにその女性解放的な側面がクロースアップされがちである。しかし進歩が生まれたその場所や生まれ持った属性から切り離すのはなにも人間だけではない。田舎のお城から都会の街まで船で輸送されてくる吸血鬼はオリジナル版では疫病の象徴であったが、元来は地域密着型で田舎にしかいなかった妖怪のたぐいも現代では世界中に船とかで運ばれてきてしまうのである。先のコロナ禍というのも技術の進歩があってこそ生じた現象なわけで、新型コロナウイルスさんも原始時代ならばたとえ生まれてもどっかの山奥とかで自然消滅してぜんぜん大事にはならなかっただろう。

『ウィッチ』でアメリカの魔女恐怖の根源を考察したロバート・エガースによるこのリメイク版『ノスフェラトゥ』で描かれるのはそんな進歩の両面であったように思う。一方でそれは人々に自由と喜びをもたらしながら、もう一方でそれは人々に死と恐怖をもたらす。決して分離することのできない進歩のその両義性は、『ウィッチ』において少女の解放が同時に恐怖としても表象されていたことと共通する。だから『ノスフェラトゥ』においては最終的に、その二つがコインの裏表のように重なり合うのである。山奥の城に束縛された吸血鬼を不動産業者の主人公の夫(ニコラス・ホルト)が解放して都市まで運んできてしまう展開には産業革命のもたらした不可逆的な進歩の爪痕が刻印されているわけで、人類はこの進歩のもたらした自由を謳歌し賞賛しながらも、そのダークサイドたる二酸化炭素の爆発的増大と地球温暖化という吸血鬼に、現に超たいへん苦しめられているのだ。

というテーマ的な話しかできないのは大部分寝ていたためでなんだかやたらと登場人物が悪夢を見てびっくりして目覚めるシーンの出てくる映画だったが俺の方も寝ては大きな音に目覚め寝ては大きな音に目覚めを繰り返したのであった。しかしそんな悪夢的まどろみ鑑賞はこんなゴシックホラーにはふさわしいかもしれない。オリジナルの『ノスフェラトゥ』は別にゴシックではないのだが(というか船でやってくる疫病の恐怖なのだからどちらかといえば当時のモダンホラーだろう)、こちらリメイク版は監督がゴス派ビジュアリストのロバート・エガースだから多くのシーンで照明は自然光のみ、スモークも多用、西洋人形のように着飾ったリリー=ローズ・デップも美しくゴスな雰囲気満点である。恐怖演出がほぼジャンプスケアというのはどうかと思うが、オープンセットで再現されたおそらくオーストリアの街並みを存分に見せるカメラワークはハリウッド黄金期の大作映画を思わせて耽溺、華やかであったりひたすら汚かったりする衣装の数々は目に楽しく、不動産屋が訪れるハンガリーの貧村での汚らしいカーニバル的狂騒も前作『ノースマン 導かれし復讐者』に続いて猥雑なヨーロッパの民衆世界の見事な描写で、まるでピーテル・ブリューゲルの絵画が動いているようだった。

イイ映画だと思うが悔やまれるのは全裸で邪悪系儀式を行っていたオッサンが股間を魔道書的なもので隠す『オースティン・パワーズ』のオープニングみたいなことをやっていたところ。R指定を避けるためにチンコを映すわけにはいかなかったのかもしれないが、リリー=ローズ・デップはきれいなおっぱいも出すし性的抑圧の表現で『ポゼッション』のイザベル・アジャーニぐらい乱れて頑張ってたので、そうであればオッサンの方にもちゃんとチンコを出させるのが礼儀ではないかと思う。そこらへんロバート・エガース、日和ったな! て感じですよね。そうか?

※文明の進歩によって地域密着型のヨーロッパ怪異が外の世界に飛び出してしまうホラー映画といえば忘れがたいのが『エル・ゾンビ 落ち武者のえじき』。どこかで触れたかったが本文中にうまくはまる箇所が見つけられなかったのでここに書いておこう。

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