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1930年代南部の黒人クラブに吸血鬼が乱入してくる『フロム・ダスク・ティル・ドーン』みたいな展開だが音楽映画として優れているというようなネットの評判的なものをよく見かけていたので冒頭「真実の音楽を奏でる者は生と死の境界を決壊し未来と共に死者をも引き寄せるであろう…」と英雄伝承風の語りが入ってあれこれそういうやつなの? とハシゴを外されたような気がしたが、そこから始まるのはマイケル・B・ジョーダン演じる双子ギャングがクラブを開くための南部仲間捜し旅。インドのファンタジー系ヒーロー映画みたいにならないで一安心である。
この仲間捜し旅が面白い。舞台は南部だが1930年代のためまだまだ開発が進んでおらずまるで西部劇の風景。奴隷制の名残りが至るところ残るデンジャラス南部を眺めつつクセが強めでバラエティに富んだ仲間たちを次々とピックアップしていく過程は『荒野の七人』のようだ。黒人による西部劇の語り直しは黒人スターの先駆者シドニー・ポワチエが監督・出演した『ブラック・ライダー』がその嚆矢だろうが、これは興行的にはコケてしまいポワチエのキャリアを実質的に終わらせた曰く付きの一品、その後かなり間を開けてジェイミー・フォックスがガンマンを演じた『ジャンゴ 繋がれざる者』やデンゼル・ワシントンがガンマンを演じた『荒野の七人』リメイク作『マグニフィセント・セブン』でようやく、といった感じでしょうが、この『罪人たち』もマイケル・B・ジョーダンが実はあまり意味がなかったことが後に判明するのだが仲間捜し旅の中で銃の腕前を披露する場面があるから、そうした黒人西部劇の系譜に連なる作品といえるのではないだろうか。
もっともこのあたりはプロローグとしてはいささか長く、あくまでも吸血鬼との攻防をこの映画のメインとするなら、いやそんなのバッサリ編集で切ったらええじゃろと思わなくもない。群像劇とまではいかないがゴチャゴチャと雑多な人間が結集してクラブオープンにこぎ着ける展開は猥雑なエネルギーがあって面白いのだが、そこで立ち上がった様々な人間ドラマはどれも大した意味を持たないことがこれまた後々判明し、ラストでは急に『ランボー 怒りのアフガン』みたいになるので、シナリオが巧い映画とは言い難い。脚本も監督のライアン・クーグラー。最近のハリウッドで大予算をかけたブラックスプロイテーション映画みたいのをよく作ってるヒットメーカーだがシナリオの才能はあんまり無いかもしれない。
ともあれ序盤が面白いのはたしか。これは序盤が面白いと既にこの感想中で3回も書いていることからして間違いがないと思われ、そしてその猥雑が頂点に達したところに登場するのがインターネット俺観測によると評判になっていたアメリカ黒人音楽の過去と未来の入り乱れるジャムセッションなのであった。うむ、これが噂のシーンか! 登場人物の一人である天才若手ブルースマンがクラブでギターを奏で身の上を吟じ始めると、興奮のるつぼと化したクラブ内にはいつの間にかサン・ラみたいな仮装をしてエレキギターを弾く人やレコードをいじってチェケラしているDJなども来ているではないか。時空を超えた音楽夢幻場と化したクラブをカメラはワンカット長回しで捉えていく。なるほど話題になるのもわかる技巧的なシーンである。
がしかし俺の心は結構無風。っていうかなんだこんなもんかいとか思ってしまった。たしかこれIMAXシアターでかかってたと思うのでこのシーンはIMAXシアターで見るとアスペクト比が変わって画的な迫力があるのかもしれないが、いかんせん音楽面の魅力が薄くない? 黒人音楽の過去と未来のジャムセションといえばなにか壮大なものを期待してしまうのは当然だと思うが、実際の劇判はちょっと今風にアレンジしたブルースが流れる程度なんである。ラップもなくソウルもなくジャズもなくこれで黒人音楽の過去と未来ジャムセッションと言われても…と思うし、南部の黒人音楽といえば黒人霊歌はブルースと双璧を成す存在だと思うが、黒人霊歌は出てくることさえないっていうか、最序盤でブルースの敵みたいなポジションとしてちょっとだけ出てくるので、むしろ積極的にこのジャムセッションからは排除されているのであった。
俺は黒人音楽に明るくはまったくないのだが、それでも無尽蔵にパワフルなゴスペル歌手マヘリア・ジャクソンが公民権運動の時代の合衆国で巨大な影響力を誇った偉大なるシンガーであることは知っているし、アレサ・フランクリンが「アメイジング・グレイス」に魂を込めたことも知ってる。だから普通はアメリカ黒人音楽の過去と未来などといったらゴスペルや黒人霊歌が外せないわけで、それが見事に外されているということはこの映画の監督であるところのライアン・クーグラーは実はあんまり黒人音楽に興味がなかったんじゃないだろうか。そうと思えばあのジャムセッションの劇判の意外なショボさもわりと腑に落ちるのだが。
ブルースの主要な担い手は男だと思うがゴスペルの主要な担い手は商業的には女であったから、ゴスペルを外してブルースだけを持ち上げるというのは黒人音楽を男の音楽として強調することでもある。考えてみれば、この映画に出てくる黒人(男)たちのすることと言ったら酒を飲むか銃を撃つかブルースを吟じるかもしくはセックスをするかぐらいでしかない。神に祈る黒人とか勉強をする黒人とかなよなよした黒人とかそういうのは少なくとも肯定的な形では出てこないしだいたい主人公がカネと暴力に物を言わせるギャングである。もちろんセックスにも強い。してみれば、どうもこの映画にはギャングスタ・ラップにも通ずるような、いささか時代錯誤な「マッチョでワルい黒人男」イメージが横溢しているように思える。マイケル・B・ジョーダンが急にランボーになってしまうラストには唖然とさせられたが、それも「マッチョでワルい黒人男」を見せたかったのではないだろうか。
アメリカにおける黒人と白人の経済格差はよく知られているし、こういうわかりやすく信頼も置ける記事もある→(「4つのグラフから見る 米国の黒人と白人の格差」CNN)。以前見た別の記事によればニューヨークの犯罪統計では黒人の犯罪率は白人の何倍にもなるらしいのだが、日本の犯罪白書によれば貧困と犯罪は相関関係にあり貧困層ほど犯罪率は高くなるらしいから、これらを総合すればアメリカの黒人層に必要なのは経済格差是正であり、そのための平等な教育機会・環境の提供であるといえる(大卒者と高卒者だと高卒者の方が犯罪率がやや高いとなんかで見た)
ライアン・クーグラーは『フルートベール駅で』という無抵抗の黒人男性が白人警官に撃ち殺された事件を題材とした映画で注目を集めた人である。だからさぞやアメリカ国内の人種間格差是正に関心のある人なのだろうと思いきや、やってることは「マッチョでワルい黒人男」というこの落差。そりゃ別に面白いならなんでもいいすけど、「マッチョでワルい黒人男」を半ば理想化してして描くとかいう格差是正の反対を行く表現をやりながら黒人差別の歴史が云々みたいなことをやっても説得力がないのではないだろうか。とかまぁそんな感じでなんか結局いろいろと雑で底の浅い映画だったな。吸血鬼との攻防戦もあんま面白くなかったし。