《推定ながら見時間:40分》
YouTubeで観たので三話目が終わった後に関連動画みたいのが出てそこに「魔法少女山田 完全考察」みたいなタイトルの動画があったんですけど考察もなにも…と思うのはまぁ今回が初めてではなく最近は考察の必要ないものまで考察しすぎ。考察というのは妥当な解釈が定まっていないものとか「みんなはこう読んでいるが俺はこう読んだぜ!」みたいなのを許すキャパシティのある作品に対してされたらよいもんで、このTXQシリーズなら『イシナガキクエを探しています』は明確な答えが提示されないので考察の余地があると言えるが、この『魔法少女山田』の方は解釈の余地がないというか、最初に提示された「ネットに流通する「唄うと死ぬ歌」をなぜか自分は知っている、だがどこで聞いたかは思い出せない。いったい自分はこの歌をどこで聴いたのか?」ということの答えを主人公格のユーチューバーが探っていくミステリーの構成を取っているので、その答えは最終的にきっちり明かされ、観ているこちらとしては「なるほどそういうことだったのか~」で終わりである。まったくなんでもかんでも考察考察考察と…そんなに無駄な考察ばかりしているとそのうち絞殺されるぞ! な~んちゃって!!!!
暗い話である。フェイクドキュメンタリー・ホラーのシリーズTXQ FICTIONの最新作は歌うと死ぬ歌もの。歌うもしくは聞くと死ぬ歌というのは都市伝説の中でもかなり歴史の古いものではないだろうか。探せば他にもあるのかもしれないが有名なものではやはり映画化もされたハンガリーのシャンソン曲『暗い日曜日』。聞くと死ぬと言いつつ各国の有名歌手に歌いまくられ日本でも加藤登紀子と美輪明宏が持ち曲としているので人間の聴きたい欲とか歌いたい欲とは因果なもんやなと思う。『魔法少女山田』の中では表現したい欲もひとつのテーマであった。
物語はネットで流通している「唄うと死ぬ歌」の歌詞やメロディをなぜか知っていることを疑問に思ったユーチューバーの電話で録音された告白音声から始まる。ユーチューバーらしくこの謎を解明し動画にしてアップしようと思い立ったユーチューバーがまず発見したのはテレビのバラエティ番組であった。某『探偵ナイトスクープ』風のその番組にはピエロ恐怖症ならぬ魔法少女恐怖症の若い女の人が出てくるのだが、番組の中で催眠術をかけられたこの女の人が無意識に口ずさんでいたのが例の「唄うと死ぬ歌」であった。
次いでユーチューバーが辿り着いたのが『魔法少女山田』というタイトルだったはずのインディーズのドキュメンタリー映画。それは魔法少女のコスチュームと仮面という異様な出で立ちでボランティア授業を行う元教員のオッサンを若手監督が捉えたもので、例の歌をこのオッサンが劇中で作曲していることから、どうも歌の呪いの震源はこのオッサンらしいとわかる。歌詞もなんかZARDみたいだし(それが不吉だが)一聴して呪い感のないこの歌がどうして唄うと死ぬ歌としてネットで流通することになったのか? そしてその歌をどうして自分は知っているのか? とそんなわけでユーチューバーは知らない方がいい領域にユーチューバーらしい無神経な好奇心と承認欲求によって踏み込んでいくのであった。
基本的な元ネタはまぁおそらく「自分が観たことのないはずの映像を、なぜか観たことがある」の映画である『女優霊』。こちらは幽霊ものではなく厭な話ものだが、『女優霊』の脚本家である高橋洋が『リング』などフィルムやビデオやテープレコーダーといった複製技術メディアによって生成・拡散される呪いを今に至るまで描き続けていることを思えば、『女優霊』の影響は強いように思われる。そもそも元祖・聴くと死ぬ曲である『暗い日曜日』もその呪いが拡散したのは1930年代のことであり、ラジオやレコードといった新メディアが「歌」をこれまでにない速度と規模で人々に運ぶようになった時代のことであった。この『魔法少女山田』もインターネットという現代の新メディアで拡散する呪いを(これ自体がネット配信されることによって)メタ的に描いた作品といえる。呪い、というか、呪詛というか。
でどうだったかというと怖かった。直接的に怖い場面は劇中劇で山田さんの家の中に入っていく場面とごっつキモい山田さんの魔法少女コスプレぐらいだが、ストーリーがかなり厭でゾッとする。事の真相はサイコホラーに近く、呪いといっても超自然的なものではないのだが、その呪いを発した人間の表情と心境を想像するとグワー怖い! 前作の『飯沼一家に謝罪します』は観ていないので知らないが、怖さで言えば最終的にイイ話と解釈できる余地も一応あった『イシナガキクエ』よりも救いがない分だけ怖かったので、ホラー作品としての完成度はこちらの方が高いんじゃないだろうか。
ただそうした怖さに強度を与えているのはおそらくZARDこと坂井泉水の死という現実の出来事であることを考えるとなんだかそれはズルいんじゃないかという気もしてくる。なにもそう明言されているわけではないのでこれは俺の推測(考察か?)になってしまうのだが、「負けちゃだめだよ~逃げちゃダメだよ~」という例の「唄うと死ぬ歌」の歌詞から連想されるのはZARD『負けないで』の「負けないで、もう少し。最後まで走り抜けて」という歌詞である。それを唄った坂井泉水は子宮頸がん闘病中に若くして転落死しているわけで、俺の場合はそれが頭をよぎったからイヤァな気分が観終わってしばらくしても続いているし、あー怖かったで済ませられない感じになってしまう。
『魔法少女山田』の後半はこいつもこいつでユーチューバーに負けず劣らず無神経なところのあるドキュメンタリー映画監督が主要な登場人物として物語の前面にせり出してくるのだが、90年代サブカルが今も息づく新宿ロフトプラスワンでこの監督がイベントをやるあるあるな場面からは、たとえば『FAKE』で佐村河内守を撮った森達也や90年代には奥崎謙三などの因果者をネタにしていた根本敬らロフトプラスワン御用達のサブカル系ドキュメンタリストの撮影を通した被写体への介入性、もしくは加害性に対する批判が見える。そういうことを上から目線でやっておきつつ、しかしこの『魔法少女山田』も坂井泉水のさまざまな憶測を呼ぶ死を作品のベースとして利用している(ように見える)点で、なんやあんたらも所詮は同じ穴のムジナやないか、という気になり、それを怖い見世物としてネットで消費するこっちの方も、なんだか悪いことをしている感じがしてくるんである。そうした視聴者の罪悪感をどうもこの作り手は利用しているフシがあるので、尚のこと厭さがあると言えようか。
仮に同じ物語でもこれがフィクションとしてきっちり構築された一本の映画であったならこう厭な気分にはならなんじゃないだろうか。というかこれは、通常なら一本の映画として構築される物語を解体し、一般的な映画であれば数十秒程度のフッテージで処理される劇中劇の映像をもっとずっと長く引き延ばして、ほとんどそれだけを繋げて見せる作品である。バラエティ番組、インディーズのドキュメンタリー映画、監視カメラの映像、ユーチューバー撮影映像など、こうした劇中劇を長々と見せることは一般のホラー映画ではまずしない。そうしたある意味で素人臭い(もちろん意図的な)作りは現実と虚構の境界を曖昧にするわけで、それがまさにこの手のフェイク・ドキュメンタリーの作り手が狙っていることだが、その際に現実に起きた事件や事故をモチーフとして利用してしまうと倫理的な問題が生じてしまう。
たとえばの話だが、「これはオウム真理教のサティアン内で起きた殺人事件を隠し撮りした映像です」という体でフェイクドキュメンタリー作品が公開されたら、それはめちゃくちゃ面白そうだし怖そうだが、フェイクとわかっていてもというか、フェイクだからこそ観ることに躊躇いを感じてしまう。なかなか言葉にしにくいがなんというか、それをアリにしちゃったらもうなんでもアリになるんじゃない? という気がして、案外これはディープフェイクの問題とも繋がってくるところなんである。俺の場合はそうした問題をこの作品が(俺の目から見れば)多少なりとも含んでいるとは考えずにこれを観たので、それがイヤァな気分の根源なわけ。やっぱりホラーの作り手はそういう倫理性に敏感であってほしいと思ってしまうのは俺が昭和の人間だからだろうか。だってホラーの作り手が倫理性を失ったら極論、「普通に人殺してスマホで撮ったら怖くね?」みたいな発想になっちゃうわけだからさ…。
しかしこのように約3000字の感想として吐き出したらイヤァな気分はだいたい消えたのでもう大丈夫。相変わらず山田さんの魔法少女コスプレはキモ怖いが、とにかく作品と自分の間に一線は引けた感じである。『魔法少女山田』、怖くてイヤァな気分になるフェイクドキュメンタリーでした!
※なぜフェイクドキュメンタリーはフェイクとわかっていても安心ができないのかということを考えると、もしかすると成仏という考え方に辿り着くのかもしれない。よくある幽霊映画は非業の死を遂げた幽霊が主人公になにかを伝え、その死の真相を主人公が解明することで幽霊が成仏してメデタシメデタシとなる。この物語構造が示唆するのは事実を物語に昇華することでの鎮魂作用ではないだろうか。どんなに悲惨な出来事も物語=フィクションにすればどういうわけか一区切りついた感じになって冷静に受け取れるようになったりする。何の物語性もそれ自体に宿してはいない現実の悲惨な出来事を起承転結ある物語にするという作業は、ひとつの喪の作業で、死者に対する責任を果たすことで自分自身の重荷を下ろすことなのかもしれない。たとえ人間の実際の死をベースにしていてもそれをフィクション映画とする場合、その作り手には死者に対する敬意や同情が感じられる。フィクションを編むというのはそのベースになった出来事を深く知り自分なりの解釈を示す行為だからだ。フェイクドキュメンタリーという形式には、たとえ実際には作り込まれたフィクションだとしても、こうした死者に対する生ける人間の責務からの回避の姿勢が透けて見える気がするんである。まぁ俺の場合はだが。