面白いけど実証性がほしい本『男と女とチェーンソー 現代ホラー映画におけるジェンダー』感想文

《推定読書時間:4週間》

もう20年ぐらい前のことだと思うが『恐怖の詩学 ジョン・カーペンター 人は悪魔にも聖人にもなるんだ』という本を読んだ時に、これはインタビュー本なのだが、カーペンター監督作『要塞警察』の最序盤に用意されたギャングがアイスクリームを買いに来た少女を撃つ主観ショットについて「このショットであなたは観客をギャングと同一化させようとしていますか?」みたいな質問があって、質問の意図が汲めず不思議に思ったことがあった。当該ショットは作品の中で殊更に強調されたものではなく、それを観た俺の印象としては、というか印象も何もなく、ただ単にギャングが少女を撃ったな、こいつは悪いヤツだな、ぐらいにしか思わなかったものだから、なぜこのどうでもいいとしか思えないショットをそんなに気にするのだろうと疑問だったのだが、その謎が解けたのがキャスリン・J・クローヴァーによるこの『男と女とチェーンソー 現代ホラー映画におけるジェンダー』であった。

なんでもアメリカ合衆国という魔界では映画の観客はカメラの視点と自己の視点を同一視するという2026年現在の(俺の)感覚でいえば素っ頓狂としか言いようがない言説がかつて映画批評家や映画研究者の間で大真面目に信奉されていたらしく、驚くべきことにそれは『列車の到着』を観た観客がホンモノの列車だと思って客席から逃げ出したという伝説(あくまでも伝説である)の語られる映画草創期の話ではなく1980年代という比較的最近の話なのだという。アメリカはホラー映画大国であると同時にホラー映画に対する風当たりがとりわけ強いという奇妙に分裂した国なのだが、そうしたホラーに対する風当たりの強さはこの「観客はカメラの視点と自己の視点を同一視する」という仮説に立脚しており、たとえば「殺人鬼が人を殺す残酷な映画は有害だ」という保守的なホラー映画批判は、映画に映し出される行為を自分の行為と同じものとして扱う=観客はその行為を模倣するかもしれないしその行為を悪いことではないと考えるようになるかもしれない、という理屈なのである。

端的に言うならこの本はそうした安直なホラー映画批判を批判する本とひとまず言えるだろう。クローヴァーの主張はこうである。観客がカメラの視点と自己の視点を同一視したり、主人公に感情移入をするのだとすれば、男性観客が多いスラッシャー映画などのホラー映画において主人公が多くの場合若い女性であり、殺人鬼の凶行が恐ろしいものとして演出され、そしてその恐ろしい殺人鬼(多くは男)を最終的には主人公が打ち倒す構造になっていることは、どのように理解すればいいというのか? 古典的な「観客はカメラの視点と自己の視点を同一視する」に従えば、たとえば男性観客の多いホラーの主人公は常に男性であるはずだが(その方が観客が感情移入しやすいため)、スラッシャー映画では逆に女性が大多数であり、殺人鬼の凶行シーンには主観カメラもよく用いられるが、もしこの主観カメラに観客が自己の視点を同一視しているのであれば、その主観カメラによる凶行が観客に「怖いもの」として感じられるのはおかしいことになる(残酷な殺人ホラーなどは「男性観客が殺人の疑似体験に快楽を感じている」として非難されるのである)

ここからクローヴァーはホラーに関するアメリカの映画理論の修正を試みる。具体的に言えば、従来ホラー映画を観客(男性)が好むのは男性のサディズムの表れだとアメリカでは言われてきたが、そこには逆にマゾヒズムの傾向も見られるのかもしれず、少なくとも一義的なものではなく両義的なものであるかもしれないし、たとえば『発情アニマル』のようなレイプ・リベンジ・ホラーは単純に女性蔑視の映画だとアメリカでは非難されてきたが、それはレイプ被害の痛みをオブラートに包まず生々しく描く点で、むしろメインストリームの上品なレイプ題材映画よりもしっかりとレイプと向き合っているのかもしれず、そして同時に、それが「ホラー」として提示され観客(男性)に消費されているのであれば、こうした映画は犯罪を助長するという俗説に反して反ー犯罪的な傾向を持ってさえいるのではないか。

おおむねこんなような主張を軸としてクローヴァーはアメリカの1970~80年代ホラーの分析を行うというわけでその時代のホラーの好む身としては面白く読むことができた。ただもちろんこれはおかしくはないかと思うところはあるわけで、第一に指摘しておきたいのは「ホラー映画の主な観客層は思春期の男性」(25頁)という本書の前提となる認識で、ビデオ屋に聞き込みを行った結果という記述はあるものの、これは学術的な統計調査とは呼べない。参考として提示したいのが1994年に総務庁によって実施された「青少年とアダルトビデオ等の映像メディアに関する調査研究報告書」である。アダルトビデオ、成人ゲーム(報告書中の表記は「エッチなゲーム」)、ホラービデオの3カテゴリーにおける青少年の視聴実態や悪影響の度合いをアンケート調査したこの報告書はおそらく日本で行われた初めての(そしてたぶん以降ほとんど続かなかった)ホラー映画に関する公的な調査なのだが、北海道、滋賀、大分、神奈川の4地区の公立中学・高校からそれぞれ3校、1校につき2クラスを抽出して調査対象としたこの調査報告書の40頁には、ホラービデオを見たいと思うか、ホラービデオを見たことがあるか、という設問、およびその中高・男女別の回答比率が掲載されている。

それを見ると次のような結果であった。

「ホラービデオを見たいと思う」
中学男子:42.3%
高校男子:30.3%
中学女子:36.7%
高校女子:37.5%

男子中央値:36.3%
女子中央値:37.1%

「ホラービデオを見たことがある」
中学男子:65.9%
高校男子:70.4%
中学女子:56.0%
高校女子:68.2%

男子中央値:68.1%
女子中央値:62.1%

ここではホラービデオを見たいと回答した高校生女子の比率は男子と変わらないどころかむしろ男子を上回っており、実際に観たことがある人の数では中学では男子が女子を10ポイント近く上回っているものの、高校では男女で2.2ポイント差に縮減している。この統計から言えばホラー映画の主な観客が男性であるとは言えないので、クローヴァーの分析はそもそも前提に根拠がないように思える。時代が違うと思われるかもしれないがクローヴァーが『男と女とチェーンソー』の原著を上梓したのは1992年であり、調査時期は1~2年しか変わらない。国が違うじゃないかと言われればその通りであり、上の調査結果はあくまでも日本国内のものである。アメリカにおけるホラー観客の統計調査は見つけられていないのだが、アメリカではホラー映画の主な観客は男性であり、女性はあまりホラー映画を観ないのかもしれない。

その点はどうやらこの本を読むに当たって重要なところらしい。というのも、日本版の副題では単に「現代ホラー映画における」としか書かれていないし、本文中にも単に現代ホラーとか新世代ホラーとしか書かれていないのだが、この本で分析されている作品はほとんどすべてがアメリカ合衆国のものであり、ごくわずかな例外として『血を吸うカメラ』も分析対象となっているが、それにしてもアメリカと親類関係にあるイギリスの英語作品である。アメリカ以外、英語以外のホラー映画となると言及されているのは『デモンズ』だけであったはずで、これをもって「現代ホラー映画における」と称するのは無理があるだろう。副題を付けるなら「1970~80年代のアメリカン・ホラーにおける」が適切である……と言いたいところだがそれもまた問題含みであり、なぜかというに、この本では同時代のアメリカン・ホラーの重要なサブジャンルであった『悪魔の棲む家』のようなオカルトホラーは著者が「憑依ホラー」と呼ぶ『エンティティ/霊体』のようなごく一部しか取り上げられておらず、エイリアン・ホラーは『エイリアン』に軽く触れられる程度、クリーチャー映画やゾンビ映画に至っては一切言及されていない。

その釈明のように序文には「本書では、女性の表象やジェンダーの問題が特に大きく関わるサブジャンルに限り考察を進める」(24頁)と書かれているのだが、先に述べたように、そうだとしてもアメリカ合衆国・英語以外のホラー映画を俎上に上げていないのだから、正確には「女性の表象やジェンダーの問題が特に大きく関わるアメリカ合衆国のホラー映画のサブジャンルに限り考察を進める」と書くべきだし、それを現代のホラー映画一般に該当する理論ないし批評であるかのように論述するのは、率直に言って著者の怠慢であると同時に傲慢でもあるのではないだろうか。たとえば、この本では観客のカメラとの同一化というアメリカの映画批評において主流であった(過去形であってほしい)コンセプトをサディズムとマゾヒズムの両面があり得るという形で修正しているが、同一化の作用そのものは否定されていない。しかし、80年代ゾンビ映画の金字塔であるイタリア映画『サンゲリア』における地面から起き上がるゾンビの主観ショットにいったいどのような同一化が働く余地があるのかと考えれば、同一化というコンセプトがいかに観客の映画鑑賞の実態から乖離しているかが容易にわかるのではないだろうか。そしてそれは「主人公兼被害者は若い女性」とか他の記述についても言えることなんである(こんなのはほとんどアメリカン・ホラーだけの特殊な事情なのであって、同時代のイタリアン・ホラーや香港ホラー、日本ホラーなどを見れば、そんな主人公は一握りといってよい)

あくまでも俺個人の映画鑑賞の経験から言えばだが、観客は別にカメラに自己を同一化したりしないし、主人公に感情移入することもよほど自分と似た属性のキャラクターでもなければあまりなく、そしてホラー映画を観て恐怖を感じることは稀であって、なぜホラー映画を観に行くかといえば恐怖を味わいたいからではなく非現実のファンタジーを楽しみたいからなのである。そのように考えれば、クローヴァーの分析対象は結論ありきで恣意的に選定されていると言わねばならないし、スラッシャー映画の元祖は『サイコ』であるという指摘はスラッシャー映画に先行する殺人鬼ホラーであるジャッロ映画を視野に入れていない(スラッシャー映画の元祖である『ハロウィン』を監督したカーペンターが製作と脚本でクレジットされている『ハロウィンⅡ』においてジャッロの傑作『サスペリア PART2』にオマージュを捧げている事実は無視できないものがある)点でホラー映画の歴史認識に大きな欠落があるのも問題で、また80年代ホラーにおいてはSFXによる残酷描写が見世物的スペクタクルとして機能し、そのためにファンゴリアなどのホラー雑誌やホラーコンでトム・サヴィーニやディック・スミスなどのSFXアーティストが監督に次ぐスタートしてスポットライトを浴びると同時にSFXのメイキングが盛んに特集され、そうした情報に触れているホラーファンたちはホラー映画における技術を観るというメタ的な視点をある程度持っていた可能性があることが考慮されていない点も問題であるように思える。なぜなら、そうしたメタ的な視点を持つホラー映画ファンたちは、ホラー映画に同一化も感情移入もしないばかりか、真剣な恐怖を感じることもあまりないと考えられるからだ。

総じて言えば、理論としては面白いとしても、その理論に客観的な論拠や統計的な裏付けがあるかといえば無いし、ホラー映画を観る男性観客の反応を考察しているにも関わらず、実際の男性観客は一人としてこの本に登場しないのだから、研究の手法と深度の両面で問題があると言わざるを得ないのがこの本なのではないだろうか。もちろん問題点はそれだけではなく、フロイトの夢分析理論に用いられる「尖ったもの=男性器」の等式をそのまま「映画に登場する尖ったもの=男性器」として流用している点は安直というか「1992年にもなってまだそんなこと言ってんの?」という話であって、当の精神分析業界でそんなことを言おうものなら、その精神分析家は学識がないとして信頼を失うだけだろう。もっとも、こうしたフロイトの杜撰な援用はこの著者だけでなくアメリカの映画理論家・批評家に広く見られるものなので、この人だけの問題ではないでしょうが。

最後に、この本には訳者による解説が付されているのだが、「クローヴァーの理論が明らかにしたのは、ファイナル・ガールだけでなく、彼女たちを見ている「私たち」もまた、ある制度の中に囚われていたということだ。観客として、私たちは無自覚に「male gaze」を内面化し、それを通じて映画を消費してきた」(459頁-460頁)という記述は、クローヴァーではなく、むしろクローヴァーが理論修正を試みるローラ・マルヴィの映画理論に依拠しており、この本に適切な解説とは思えない。翻訳者に必要とされる能力とテクストを読解する能力は別なのだから、こうした場合、訳者ではなく本業の映画研究者に解説を一任したほうがよかったのではないだろうか。というか学術書なら普通はそうするはずで、そうされていないということはこの本が学術書だと思われていないのかもしれず、この出版不況の時代に昔の本を訳して出版してくれたことには頭が下がるけれども、もう少し真面目に映画研究というものを、そしてホラー映画というものを考えて欲しいと思うのだが……。

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