違いの分かる日本の映画ファンなら避けては通れないカナザワ映画祭に行くようになって何年が経つだろうか。映画祭を知ってからも毎年参加できたわけではないのだが、それでもこれまで10回ぐらいは行っていると思う。一番最初はいつかなぁ、おそらく当時はまだ幻の映画だった『シエラ・デ・コブレの幽霊』を野外上映した年だったと思うが定かではない。まぁそんなことはいいとして2025年の話である。ちなみに今それなりに疲れているのでこれから書くことはすべて読んでいる人がカナザワ映画祭を知っている前提。説明文章書く気力ないのよごめんちゃいね。
先に言いたいことを端的に書いとくとカナザワ映画祭がつまらなくなった。なぜかっつーと俺が行き始めた頃のカナザワ映画祭はいろんな娯楽映画をたくさん上映する映画祭だったんですが、今年の特集が「聖なる映画」ということでタルコフスキーやらカール・ドライヤーやら石井岳龍やらを流していたことからもわかるように、最近のカナザワ映画祭は娯楽映画をあまり上映しなくなった。おそらくそれは一昨年からカナザワ国際映画祭化を目指して(?)従来の日本の新人インディーズ監督の映画を対象とした期待の新人グランプリに加えて海外コンペティション部門を設けたことも関係してて、去年と今年なんかは特集よりも海外コンペ上映作の方が多いくらいなんですが、これはジャンルの指定などはないらしいのでドキュメンタリーや前衛映画も入ってくる。それで相対的に娯楽映画の上映枠がかなり減ったわけです。
娯楽映画とかジャンル映画じゃなくても面白い映画たくさんあるよねなんてのは言われるまでもなくわかってて、俺が今回観た作品の中だと原田浩監督の『極彩色肉筆絵巻 座敷牢』と元ジャンキー監督が自身の経験を元にドラッグ離脱体験を描いた『渇望』あたりは大変おもしろかったし見応え合った。ただトータルでは(といっても最初の3日しか参加してませんが)つまらないとまでは言わなくても、単純に楽しめるような映画はかなり少なかったと思う。新しい世界やまだ見ぬ表現を見せてくれるのも映画であって、そうした体験ができる映画祭としてカナザワ映画祭は刺激的であるけれども、ものすごくバカっぽく言えば、なんか啓蒙的になったというか、高踏的になって、娯楽映画しか流さなかった昔のカナザワ映画祭はみんなでわいわい映画を楽しもうみたいな感じの文字通りお祭りだったのに、ここ何年かは分かる人だけ分かれば良いという政治集会のような集まりになってしまったように見える。
邪推も邪推なので違うと言われたら別にそれでいいです。そうか、違うのか、すいませんと謝るが、こうした路線変更にオカルト活動家の武田崇元が無関係とは思えない。武田崇元は五六年前からカナザワ映画祭のトークゲストや審査員として映画祭に関わるようになったと思うのだが、そのポジションは年々重要度を増して、今年はついに武田崇元が開発したインチキな変成意識体験マシーンを宣伝するイベントまで用意されてしまった。どこかで本人が話していたと思うが話していなかったらこれもごめんなさい俺の間違いでしたと謝るが、武田崇元は68年学生運動の敗北を受けてニューエイジ方面に入った人であり、人間の霊性革命によって68年の挫折を乗り越え闘争を継続しようとしていたはずの人である。
その指向性は今回のメインゲストであった石井岳龍とも重なるところがあり、ポスト学生運動世代の石井岳龍もまた初期には学生運動のモチーフや思想を引きずったパンク映画を撮りつつ、浅田彰や中沢新一などがニューアカデミズムを掲げて1970年代後半の日本思想界に新風を吹き込むと、足並みを合わせるようにパンク=世界への直接攻撃から、個人のインナーユニバースの探究、そしてその自己啓発的革命による世界の見え方の刷新へと向かった。武田崇元と石井岳龍に共通するのは革命に対する意志と、そのためには体制であるよりも内面の変化がまず必要なのだという思考に思える。このような革命論は1990年代にはオウム真理教として爆発することになる。
こう見れば、どうも今のカナザワ映画祭は、武田崇元の霊性革命論の宣伝と実践の場となってきているように俺には思える。流行り言葉で言えばスピった感じである。いや、そりゃ俺もUFOとかUMAとか超能力とか大好きだけど、それはあくまでも見世物としてであって、本気で信じてるわけじゃないのよ。だからこうガチ気味にスピられると、俺にはついていけないところがある。みんなで楽しく娯楽映画を見るカナザワ映画祭はもう帰って来ないのか。ウィリアム・キャッスルの『ティングラー』を観ながら観客全員で大絶叫したカナザワ映画祭は。『ロッキー・ホラー・ショー』の振り付けあり上映で観客が踊っていたカナザワ映画祭は。比較的最近だが、『首だけ女の恐怖』を笑いながら見て、衝撃的な幕切れに観客たちが「えええ!?」と困惑の悲鳴を上げていたあのカナザワ映画祭は。
それとは別の問題として、武田崇元は審査員として適格かという疑問もある。今年の審査員は武田崇元と脚本家の佐藤佐吉の二人しかいない。なんでこんなに減っちゃったんだろうか。前はもっと多くて五人とかいたような気がするのだが。この二人におそらくは小野寺主催が加わって海外コンペ部門と国内部門(期待の新人グランプリ)の受賞作を決める。それで、今年の海外コンペの受賞作は『ニンゲン失格』という映画らしい。これはニンゲンが死ななくなった世界を舞台にそこで生きる若者たちの倦怠と絶望に支配された日常を、膨大なデジタルエフェクトによるアシッドな映像(大半は色相をいじってるだけだが)で描いたもの。俺はこれを観たのだが、たしかに面白いところはあるものの、数ある応募作の中で特段光るものがある映画とは思えなかった。
というのも、死の消滅した世界の絶望的な日常のスケッチというと、たとえば90年代インディーズ・ゾンビ映画の比較的知られた作品である『SHATTER DEAD』が同じようなことをやっていたし、アシッドな画面作りは更に古く『白昼の幻想』を引き合いに出してもいい。『ニンゲン失格』の評価ポイントはおそらく新鮮味だと思うのだが、審査員の念頭にこうした先行作品があれば、『ニンゲン失格』がさほど新味のある映画ではないことがわかるんじゃないだろうか。映画の審査員として当然行うべきそうした比較を武田崇元は行っていたのか。これは昨年の海外コンペの受賞作が後に『狗神の業』のタイトルで一般公開された『犬神の血族』だったときにも思ったことで、この映画もなかなか面白いホラーではあるものの、受賞作に足るオリジナリティがあるとは思えなかった。武田崇元は犬食文化を扱っていることを受賞理由の一つに挙げていたが、そんなことならポン・ジュノが『ほえる犬は噛まない』において遙かに独創的な形で表現していたので。
とこのように文句をグチグチ書いてきたが、昔から今まで続くカナザワ映画祭の精神があるとすれば、それはDIYの精神であろうから、文句があるならテメェが自分でやれ、と小野寺主催には言われそうであるし、それもたしかにそうだなと思う。全然違うイベントだが、去年からは東京国際サメ映画祭や、Z級映画を笑いながら観る底抜け映画祭といった、みんなでわいわい型の娯楽映画の上映企画も東京では始まった。カナザワがダメなら自分で何かやってみよう、という気持ちにはちょっとなっているので、何か出来ないか、自分なりに模索してみようとおもう。おわり。