愛すべき香り高い小品怪談映画『視える』感想文

《推定睡眠時間:0分》

ポスターに半魚人みたいのが載ってたからコイツが視えてしまう人のお話かなあと思いながら観ていた一回目はなんと上映時間の85%ほどの睡眠という好成績を記録してしまった。したがって半魚人の正体などもちろん不明である。まぁこの日は寒かったし頭も痛かったからねぇ……しかし、それだけ寝ているにもかかわらず「これは良い映画だ、良い怪談話だ」という印象は残ったのだからこれは良い映画、良い怪談話に違いない、どこがどうとか説明を要求されてもゼロ回答だが、良いものはほとんど寝ていても良いとなんとなくわかるものなのだ。睡眠鑑賞歴十年以上の俺の言葉なら説得力があるだろう(もしくは逆にまったくない)

ということで2度目の鑑賞、今度は一睡もせずに観てしまったがいやぁやはり良い映画、良い怪談話でしたね。ここ何年か創元文庫がこれまで未翻訳だった主にヴィクトリア朝期に書かれた英国怪談のアンソロジーを何冊も出してて出るたびに買ってるのだが、アイルランド発のこの映画、舞台は現代ながらもそれらと通底する空気をまとっていた。映画は田舎の古くてでけぇお城みたいな屋敷に引っ越してきた女の人がここをDIY改装している場面からはじまるが、この人は主人公ではない。DIY改装中に殺されてしまったこの人の妹、呪われた品々のみを扱う『死霊館』みたいな物騒骨董屋を営んでいる盲目の霊能力者が主人公。霊視によって姉の死の謎を解き、下手人に報復しようとするってなわけで、実はこれは幽霊よりも幽霊の背後にいる人が怖い系の映画、幽霊を通して人の業のおそろしさを描くあたりが古典的な怪談話っぽいのだ。

謎を解くといってもミステリーではないので姉の死の真相は(「そんな理由で殺すの!?」みたいな驚きは多少あるものの)かなり単純で読める範囲。そのシンプルさもまた古典怪談を思わせるところだが、そんなわけで見所は謎解きではなく見事な恐怖ムードの醸成。軋る床の音や吠え猛る風の音といった環境音、体温の下がるダークなアンビエント音楽、自然光を生かした光と闇の対比を効果的に用いて、舞台となる古城の如しお屋敷はなんとも不気味、ただなんでもない空間を撮っているだけでそこに霊が映り込みそうな気がしてくる。こういう恐怖空間の見せ方は英国怪談の古典『ねじの回転』を映画化した『回転』を思わせるところで、その点でも古典怪談の衣鉢を継ぐ『視える』である。

ところで『視える』と言うがこの映画の特徴は雰囲気で恐怖を感じさせて恐怖の対象そのものは「見せない」演出にある。霊が映りそうだなー映りそうだなーと稲川淳二の気分にさせつつ何も映らない。このあと怖いことあるぞー怖いことあるぞーと思わせつつ何も起こらない。とにかく引っ張って引っ張って引っ張るのでなんでもないような会話シーンでさえ異様な緊張感を帯びるのだが、そうして何度も肩透かしを食らったところで突然ドンと出てくるオバケやなんやの怖いこと。この視線のコントロールはストーリーの面でも存分に生かされて、登場人物の目に見えているものをあえて観客に隠すことによって謎や引っかかりをいくつも作り、それを後々一気に見せることでなるほどそういうことだったのか、と思わせるんである。これはかなり原始的で安上がりなテクニックだと思うが上手く使ってるから安っぽさは感じなかったな(でも屋敷の一部と精神科病院ぐらいしか出てこないからかなり製作費は安いとおもう)

ちなみに俺がオバケだと思っていた半魚人はオバケではなく主人公が屋敷に持ち込む呪いの人形。そんなものを持ち込むなよと思う禍々しすぎる見た目なので、居間のテーブルに鎮座しているコイツの存在感はなかなか強烈、噛みつこうとしているようにも叫んでいるようにも見えるその大きく開いた口にある登場人物が手を入れようとするシーンなんかドッキドキであった。そうそうあとラストね、とてもスカッとする映画には思えないでしょうが、落語的とも言える因果応報のラスト、パズルのピースがピタッとハマったようなカタルシスがありましたよ。これはよい映画、よい小品、よい怪談です。

※こういう映画作りを行う最近の監督にオズグッド・パーキンスという人がいて、その名を一躍全米に知らしめた『ロングレッグス』という映画とは、シンメトリックな整った構図であるとか基本静かだがいざという時にはジャンプスケアという点も含めて結構似ていて面白かったのだが、『視える』の主人公の呪物特化骨董屋にはシンバルを鳴らすヤバい目つきのオモチャの猿も置いてあって、パーキンスの最新作は目つきのヤバいシンバル猿が不幸を撒き散らしていく『ザ・モンキー』ということで、妙なシンクロニシティが発生していた。

Subscribe
Notify of
guest

0 Comments
Inline Feedbacks
View all comments