オタクの人生こんなもん映画『ボディビルダー』感想文

《推定睡眠時間:0分》

むかし黒沢清が『マッドボンバー』のDVDが初めて日本で出たときの座談会で主演で爆弾魔役のチャック・コナーズはガタイもデカいしそれまでタフガイ的な役柄ばかりやっていたのにこの映画では病的な爆弾魔を演じていてそこにまで気持ちが持ってかれたみたいなことを言っててこの『ボディビルダー』もまさにそんな感じ。主人公のジョナサン・メジャースはアマチュアのボディビルダーなのだがアマチュアといってもステロイド入れてるしムッキムキのムッキムキで呼吸から精子が放出されていそうなテストステロン過剰っぷりなのであるが、その性格および行動はどうでしょうこれはみなさんに伝わるでしょうか、『マニアック』および『新マニアック』のハゲデブ陰キャ中年ジョー・スピネルにそっくりというこの意外性。

まず友達が一人もいない。要介護のおじいちゃんと二人暮らしという『ジョーカー』を思わせる設定なのだがその中でやることといったら友達がいないし仕事も近所のスーパーで週4日のバイトをしてるだけだからひたすら筋トレ、毎日苦悶の叫びを上げながら筋トレに勤しんではプロテインを飲みながらエロ動画を見て寝るだけ。オタクの部屋にはホラー映画やSF映画のポスターが壁を覆い尽くさんとベタベタ貼られているのがベタだがこの主人公はホラーとSFの代わりにボディビルダーのポスターや雑誌の表紙を壁一面に貼り尽くしている、ということで要はオタクなんだな。

同僚とは基本的に一言も話さないというか話せないが最近入ってきたのか前から好きだったのかかなり可愛いレジ担当の女の人(ヘイリー・ベネット)に超ドキドキしちゃってデートに誘おうとするもののその誘いの途中で「あ、てか彼氏いるよね。あ、そうだったそうだったうそうそ今のなかったことにしてごめんね」とレジ担当の女の人が何も言っていないのに自分から諦めてしまい瞬足でその場から逃げてしまうし、なんとか会話の機会に恵まれたと思ったら友達のいない期間が長すぎる上に筋トレ以外の興味関心および人生経験がまったくないので日常会話のネタがなく興奮気味にボディビルトリビアを一方的に喋り散らしそのうえ「え! あのブラッド・ヴァンダーホーンを知らないの!? 超有名ボディビルダーだよ! ○○ちゃんはもっと世間を知った方がいいなデュフフ」とか最高にウザキモい無邪気なオタクマウンティングをかけてしまい(うわ、こいつヤバくない……?)と思われるとかあまりにもオタクだ。オタク過ぎる。

おまえは俺か。スーパームキムキマッチョマンといっても中身はオタクだしそして内向的な中学生で止まっているというのがこの主人公であるが、こんなに容赦なく「おまえら」を見せつけられたら泣いていないが泣いてしまう。しかもこのスーパームキムキマッチョマンは弱い。ボディビルの筋肉はあくまでも鑑賞用筋肉なわけで、もちろん格闘の鍛練を積めばきっちり筋肉はそれに応じてくれると思われるが、そんなことに興味は無い主人公なのでキレやすいわりにはケンカになったらすぐ負けるし人にぶたれたりぞんざいに扱われたり怒られたりするとちょっと泣く。いやこんな悲しい映画を作るなよ! これではがんばってつけた筋肉にまったく意味がないとでも言わんばかりではないか!

そのへんがでも作ってる側の狙いなんでしょうな。アメリカといえば無駄にマッチョ思想の強い国。男たるものマッチョムキムキタフガイであるべしの強迫観念は国民レベルで浸透してしまっているが、これはそんなアメリカのマチズモがぶっちゃけ何の役にも立たない現実を暴露する映画なんである。だが暴露されるのは筋肉だけではない。アメリカ映画において黒人男性は強い者や正しい者、あるいは気高い者といった感じでなにかこう生活感の感じられない理想化された、または逆に偏見に凝り固まったイメージで造型されることは非常に多く感じられるが、そんなものがリアルであるわけないだろうということで、この映画の主人公は外見こそムキムキマッチョ黒人だが中身は超オタクでかつめっちゃ弱いという強くも正しくも気高くもない普通の下流の人なんである。こうしてアメリカ映画における現実離れした黒人イメージというものもまた暴露されるわけだ。

というよりも、もっとデカくアメリカ映画のウソを暴露する映画、と言ってもいいかもしれない。主人公はヘナチョコ風味の白人男性オッサンと揉めたりするのでそこで黒人差別の描写も見られるのだが、通例こういう場合には映画のテーマが人種差別にスライドして主人公がこんなにダメな人になってしまったのは人種差別のせいであるとか、主人公が悲劇的な末路を辿るとすればそれは人種差別のせいであるとかそんな風に社会派っぽくなりがちなところ、この映画では人種差別の扱いは単なるアメリカの一風景でしかなく、決して前景化しないばかりか、その差別もう~んそういう態度は失礼だからやめた方がいいんじゃないすかねぇ程度の軽微なもので、そして誰もがそうという感じではなくごく一部そういう人もいるという程度。

これはこの映画の何気ないがもっとも挑戦的なところだったかもしれない。被差別の経験が黒人の性格や行動のすべてを決定するという差別決定論とでもいうべき観点はアメリカ映画では一般的なものだが、人間はそんな単純ではないし、だいたいそれは黒人の人を重層的で内部に無数の矛盾を抱えた複雑極まりない一人の生きた人間として見ないという意味で、反差別の反転した差別に他ならない。良くも悪くもかもしれないがこうした反転した差別の眼差しが一見すれば良識的で反差別を標榜するような映画にも広く見られるアメリカ映画界において、差別の経験がとくに性格にも行動にも影響しない(それは主人公が憧れる人気ボディビルダーがアングロサクソンの白人であることからわかる)黒人男性を、しかもこう言ってよければ醜悪なオタクとして描いたという点で、これはアメリカ映画の虚構を容赦なく暴くものとなっているように俺には思われた。

虚構を暴けば残るのは大抵みじめでつまらない現実でしかない。いつ終わるとも知れない孤独の苦しみから逃れるためにあたかもアメリカの虚構を象徴するようなボディビルダーというアイドルに憧れ(有名ボディビルダーになればきっとみんな俺のことを好いてくれ尊敬してくれるに違いない!)、成就することは決してないだろうと傍目には見えるのに脇目も振らず邁進する主人公の姿は、まったくもって痛ましくも憐れというほかない。でもその痛ましさと憐れを映画的なウソに逃げずにしっかりと描いているからこそ、この映画にはおためごかしではないホンモノの救いがある。しょせん人生こんなもん。素直にそう言ってくれる映画はアナタにだってビューティフルな人生の可能性があるのですと見え透いたウソを白い歯の笑顔で撒き散らす映画よりもどんなに救いになることか。まぁ少なくとも俺とかこの主人公みたいなダメ人間にとっては。

日本の配給会社が付けた惹句はボディビルダー版『ジョーカー』というようなものだったが、まぁアメコミ映画だしなんだかんだ映画的なウソを用意せざるを得なかった、それによって観客がカタルシスを得ることのできた『ジョーカー』に比べると、この『ボディビルダー』は不完全燃焼もいいところで、カタルシスなんか(俺は感動したが)まるでない。けれどもそのことによって『ジョーカー』が、そしてその元ネタである『タクシードライバー』『キング・オブ・コメディ』(『ボディビルダー』もこの映画の影響は大きいのでは)が到達できなかった現実に触れることができたのがアメリカ映画のウソからの脱却に果敢に挑んだ『ボディビルダー』だったんじゃないだろうか。う~んこれは実にマッスルな映画です!

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