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まー恋愛経験が一度も無い俺が言っても説得力がないかもしれませんが恋愛ゆーのは難儀なもので映画のはじまりに出てくる女佐藤さん(岸井ゆきの)と男佐藤さん(宮沢氷魚)の出逢いの場面、これは共に大学のコーヒー研究会所属ということで面識はあったがそれまであまり面と向かって話したことがなかった二人が偶然同じコーヒー屋で買い物をしてきた帰りのことなのだが、男佐藤さんはコーヒー通でくどくどと今日買ったコーヒーはどこどこのこれこれで焙煎はいつが良くてと語るが女佐藤さんはセールで安かったコーヒーを買っただけだしとくに深く考えず焙煎ももう済ませてしまったと語る。同じ名前、同じサークル、同じコーヒー店に通っていても二人の見ている世界はまったく違うことがわかるわけだが、ところがどっこいこのすれ違いこそが二人の出逢いなんである。
どういう仕組みか知らないが(やはり遺伝子がどうのこうのなのだろうか)どうも人間は自分と同じものを持っている人間であるよりは自分の持っていないものを持っている人間にこそ恋愛感情を抱いてしまったりするらしい。たしかに似たもの同士だと楽と言えば楽かもしれないが苦痛といえば苦痛かもしれず、もしも掃除のできない人同士がカップルになって同棲したらどちらも掃除ができないから家は荒れていって生活も崩れ、その共同生活はたぶん長続きしないだろう。その点で違う者ふたりのカップルはお互いの欠点をお互いに補うことで一人ではできないことができる可能性があるわけで、結局、一人でもできることしかしないのならば誰かと恋愛関係を結び必要性はないわけだから、恋愛というのは本来的に自分とは異なる他者と行う、そのことで自分一人ではできないことをしたり、見られない世界を見るためのものなのかもしれない。
だが、それは上手くいけば、という話。もしもそれぞれ違った性質を持つ二人がその恋愛関係の中でお互いの欠点を補うことができないとすれば、欠点×欠点の倍加作用がはたらいて、その関係や共同生活はストレスフルなものになるだろうし、最悪の場合ストレス源である相手の殺害なんて物騒なことにもなりかねない。お互いを開放したり高め合ったりする可能性とお互いに足を引っ張って不幸を招く可能性が重なり合っているのが恋愛というものなのである、と、そのようなことを一組の夫婦の15年を点描することで見せていくのがこの『佐藤さんと佐藤さん』であった。
面白いですねぇ。そういう観点に立つ映画なので妻と夫のどっちが悪いとかその恋愛が成功だったのか失敗だったのかという単純化をしないところが良い。監督は天野千尋という人なのだがこの人は『ミセス・ノイズィ』という映画で注目された人。で『ミセス・ノイズィ』というのは某引っ越せおばさんを着想源とした隣人トラブル題材の風刺喜劇なのだが、これはある出来事を一方から見ればこう見える、でももう一方から見れば実はこう見える、と隣人トラブルの加害者と被害者のどちらに肩入れするでもなく出来事を客観視する、そしてその中に敵対する二人の和解の契機を探ろうとするという最近ではわりと珍しい知性を持った映画だったので、『佐藤さんと佐藤さん』も恋愛や結婚の単純化はやんわりと(しかし水面下では断固として)拒み、あくまで客観的に二人の15年を見つめる。
その模様はなかなか苦いのだけれども、一方で恋愛と結婚をすることで夫婦のそれぞれに開かれた予想外の、ということはつまり自分一人だったらたどり着けなかった人生の局面を見せることで、恋愛や結婚の面白さもさり気なく取り出しているのが上手いというか、成熟しているというか。たとえばベンガル演じる妻から勘当されたパワハラ気質の親父が出てくる。この人は夫佐藤さんの影響で弁護士となった妻佐藤さんのクライアントなのだが、最初はいかにもイヤなやつ、こんなヤツなら妻から三行半を突きつけられて当たり前だ、妻の人かわいそう! とか思うのだが、物語が進むにつれてこの人はこの人なりに妻を愛していて、妻のために頑張ってきたという意識があって、だからこそ妻との離婚調停に苛立っていたのだなぁと、そしてその苛立ちは悲しみの表現だったのだなぁと、最初に出てきた時とは見え方が変わってくるわけ。
この見え方の反転よね。これが佐藤さん夫婦の15年間に穏やかな波のように引いては押し寄せ引いては押し寄せる。あるときは妻佐藤さんが悪く見える。あるときは夫佐藤さんが悪く見える。あるときは不幸な結婚生活に見える。でもあるときは幸せな結婚生活に見える。だから観ているこちらとしてはどちらにも肩入れできず視座を落ち着けることができずずっと不安なままだ。何も大した出来事なんか起きやしない。小さなすれ違いとかケンカはあってもドラマティックに高まることはない。なのだけれども、見え方の小さな反転をひたすら繰り返すものだから、なんでもないような夫婦生活がサスペンスフルに見えてくるし、そしてそうであるからこそ、束の間緊張が緩和して二人が幸せを分かち合ったり、その関係の中でなんらかの成長を遂げたときに、それはひときわ輝くものと映るのだ。
そうそう、もうひとつこの映画の見逃せないポイントとして挙げておきたいのは佐藤さん夫婦のすれ違いの背景として都会と田舎の価値観の対立が描かれているところ。対立といっても正面からぶつかるようなことはないのだが、二人の佐藤さんに忍び寄るズレとは何かと考えると、そこに都会の価値観と田舎の価値観が顔を出す。都会の価値観の中で生きているのは妻佐藤さん。この人は一見すればちょっと抜けたところのある田舎的な柔らかい人に見えるのだが、そのじつ個人主義的で他者に対する関心が薄く他責的、より大きな問題や課題のためにはその下に広がる多くの小さな問題や感情を無視してしまう都会的なドライさを持っている。一方で田舎の価値観の中で生きているのは福島出身の夫佐藤さん。この人はパッと見洗練されて都会的に見えるのだが、じつは妻佐藤さんのように自分や他人の感情を無視することで要領よくやっていくというような生き方ができず、他人の期待や要望に無理をしてでも応えようとするために自責的になって自分の殻に閉じこもってしまう。
15年の間には東日本大震災もあったことがちょっとした会話からわかるので、こうした都会と田舎の価値観の相違はサブテーマというには密かにして大きなものかもしれない。実際、主人公であるはずの妻佐藤さんの実家事情が描かれないのに対して夫佐藤さんの福島の農家の実家事情は少なからず描かれるし、『ミセス・ノイズィ』ではテレワークの小説家というようするに都会の人である主人公がその都会的偏見によって田舎的な隣人を誤解するのであった。都会の人は半ば無意識的に田舎をどうでもいいものだとは思っていないだろうか。都会の経済のためには田舎がある程度犠牲になることは仕方が無いとは思っていないだろうか。一組の夫婦の辛口ラブストーリーと思わせつつそんな社会派な問題提起も見え隠れするのが『佐藤さんと佐藤さん』というわけで、まぁ『アニーホール』とか『愛がなんだ』(こちらも岸井ゆきの主演)的なちいさな悲喜劇として観ても面白いけれども、しかしそれに留まらない鋭い眼差しを感じる映画でありましたねぇ。
※ファーストシーンに出てくる中島歩の感情のこもらない妻ディスりは妙に怖く、そこだけ黒沢清の世界。