《推定睡眠時間:40分》
主要なスタッフやキャストの名前が出るオープニング・クレジットは出たと思ったらなにやら揺らめく影のようなものでかき消されてしまう。この映画を観た劇場は映写窓の位置が低いので上映開始後に入ってきたお客さんが映写を遮ってしまってるのかな? とも思ったが、そうではなくそのような演出の施されたクレジットのようにも見える。どちらだったのか今でも判然としないのだが、いずれにしてもこの映画の内容を端的に表現するクレジットだったかもしれない。遮ること/遮られること。これがこの映画の中核的なモチーフであった。
主人公はアメリカからフランスに渡ってきてかれこれウン十年ぐらいは精神分析の開業医としてお仕事をしている中年女性(ジョディ・フォスター)。もはやベテランの精神分析医であるこの人にわからないものなどないと思われたがある日クライアント死亡。自殺? 事故死? ともかく痛ましいことではあるのでその葬儀に顔を出す主人公だったが遺族である夫(マチュー・アマルリック)からおめーのせいで女房は死んだんやと激詰めされてしまう。そんなことがあるもんかいな、と思いつつなんとなくの罪悪感は拭えない。やがて主人公は一つの仮説を思いつく。これ、もしかして夫が妻つまり自分のクライアントだった人を殺したんじゃないですか? かくして主人公は事件(?)解明にのめり込んでいくのであった。
便宜的にそんなあらすじを書いてみたはいいが実はこれはミスリード気味である。たしかに映画の中心的な出来事をあえて抜き出せば精神分析医が患者の死の真相を探る探偵映画と言えるのだが、むしろその中心から外れたところ、言わば中心の遮りにこそこの映画の面白味はあったからだ。たとえば主人公は謎のスピリチュアル暗示によってその日のうちに禁煙できちゃいましたよ! と興奮気味に語るクライアントにつられてスピリチュアル暗示師のもとを訪れ、自分の前世はナチスがなんとかかんとかユダヤ人がうんたらかんたらとか精神科医にもかかわらず(精神分析がどの程度科学的かというのは議論のあるところでしょうが……)随分非科学的なことを結構急に言いだしてしまう。クライアントの死の真相を追ったかと思えばそんなこととは全然関係ない息子との確執に物語は急に逸れて、それは物語のレベルの「遮り」だが、映像的には何の前触れも無く唐突にマチュー・アマルリックの全裸ファックと全裸中年来客対応が映し出されたりしてその素っ頓狂さに思わず笑ってしまったりする。
この一直線には進まず変なところに脱線してばかりのミステリーというのはアルノー・デプレシャンの『魂を救え!』や『キングス&クイーン』を思わせるところだが(とてもフランスっぽい)、こうした遮りのモチーフはクレジットに続く映画冒頭でも示されており、診療室兼自宅のアパルトマンにいる主人公は上の階から漏れ聞こえるラウド音楽がうっとおしくて仕方がない、ということで「すいません、うるさいんですけど」と文句を言いに行くのだが相手にされない。おそらくこのシーンの含意はこういうことじゃないだろうか。外から来る「遮るもの」を主人公はコントロールすることができない。しかし彼女はコントロールすることに執着するのである。
精神分析という分野はユング学派のように人間の外の世界を志向する流派であっても根本的には主知主義的であり、人間と人間の住む世界がどのようなメカニズムで動いているか、合理的に解明できると考える。精神分析家にとって患者の心に起こる出来事はすべて筋道立てて解釈可能なのであって、理解できない心の動きなどは一つも存在しないし、それを認めてしまえば精神分析という仕事を続けるのは困難になるだろう。だって自分の悩みだの夢だのを散々語った患者に「うーん、なんだかよくわかりませんねぇ……」とか分析家が言ったら怒られるもんな。おめーこっちは高い金払ってんだから何らかの解釈ぐらいはよこせや! って。
主人公が直面するのはそうした精神分析の限界であった。この人にとって人間世界に理解できないものは一つとしてなく、したがってコントロールできないものなど一つもない、はずだったのだが、クライアントの死という予想外の出来事によってその幻想は崩れていく。息子との関係がうまくいかないのはどうしてだろう。主人公はその答えを求めてスピリチュアル暗示師を訪れ例のナチスがどうのユダヤ人がどうのという前世の記憶を与えられるのであるが、それをコロッと信じてしまうのはこの人が世界のわからないもの、自分にコントロールできないこと(=息子との関係悪化)に耐えられず、合理的な解釈を喉から手が出るほど欲しがったからなんである。
このあちこち脱線してなんだかよくわからないような物語が何を描いていたかと言えば、そう単純化してしまうと身もフタもない感じではあるのだが、要するに人生の後半に差し掛かっていろいろ上手くいかなくなってきた中年女性の自分探しであった。若い頃はまぁ人にもよるだろうけど人生ぜんぶ自分の思いのままっていう謎の自信があったりするが、齢を重ねるとだんだん人生は自分の思い通りにはならないってことがわかってきて、自分ではどうしようもないこと、言うならば「遮り」こそがむしろ自分の人生の方向を決めてしまうことを思い知らされたりする。
元から自分に自信のない人はそうなっても比較的受け入れられるかもしれないが、この主人公のような世間的には成功者として見られている独立心の強いインテリ、しかも人間の心のすべてを自分は解明できると考える精神分析家なら、その挫折を乗り越えるのは容易ではないだろう。だから主人公はクライアントの死には隠された真実があるはずなんだと思い込むし、息子との関係悪化は前世の因果なのだとも思い込んでしまう。そう思えば、一見すれば脱線ばかりでなんのこっちゃよくわからんこの映画も、実は『アバウト・シュミット』のようなあるある系の中年の危機映画の系譜としてわりとすんなり腑に落ちるんじゃないだろうか。
人生は遮りの連続だ。自分の思い通りにいくことなんか全然ない。なにやら遮りが悪であるかのように言われがちな気がする昨今だが(映画館で隣の客がうるさい!とか)、あんまり遮りを敵視するとそれはそれで不健康なわけで、人によっては陰謀論のようなものに答えを見出してしまうのかもしれないのだから、自分ではコントロールできない遮りは、人生の主要な要素としてある程度は受け入れた方が結果として幸せに暮らせるんじゃないだろうか。そんなようなことを考えさせてくれる『プライベート・ケース』なのであった。おもしろかったです。