《推定睡眠時間:40分》
映画を観終わって帰り際に壁に貼ってあるポスターを見たら「ボディ・ホラー」との惹句が載っていたがこの映画をボディ・ホラーとして売るのはいささか無理があるだろ。たしかに人体は変形するがその度合いはせいぜい頭がハゲて爪が伸びるとかその程度の話であって、ストーリー的にも保守的な同級生と違って海外カルチャーに通じているちょっと大人びた12歳イスラム女子が同級生に先んじて初潮を経験、そのことで社会的・宗教的(イスラム教)な抑圧を受けると同時に同級生たちのイジメターゲットにされてしまい……という感じでモンスターに変身してしまうので、おそらくイメージソースは『キャリー』であろうし、終盤には怪物化した女子児童を治療するためにイスラム教のエクソシストが登場するので、『エクソシスト』の現代的翻案と言うこともできるかもしれない。いずれにしてもボディ・ホラーという感じではないだろう。
それにしても。映画の冒頭とラストにはスマホで撮影された主人公少女がヒジャブを脱ぎ捨てなんかヒップホップ的なダンスをする映像が入ってきて、これが意味するものは抑圧からの解放だろうと思われるが、近年の女性の抑圧テーマ・女性の権利向上テーマのフィクション映画は本当に踊ってばかりいる印象で、『ミス・マルクス』や『ザ・ブライド!』、観に行けないまま公開が終わってしまったが実在の宗教家を描いた『アン・リー/はじまりの物語』も踊りが重要なモチーフというか、この主人公の率いる教団の中核的な宗教実践になっていたらしい(ちなみに日本では戦後「踊る宗教」と呼ばれた天照皇大神宮教が一世を風靡したことがあるが、その教祖・北村サヨも女性であった)
抑圧というのは大なり小なり身体を拘束するものであるから、それに抗するものとして身体を自由に使う踊りがあるというのは感覚的にはわかるのだが、逆に言えば感覚的にしかわからず、こう右も左も踊り踊り踊りと来れば、なんだか前もこんなの見たなのデジャヴュばかり感じてしまう。そうしたデジャヴュを回避するためには身体感覚ではなく知恵を使ってあれこれ工夫を凝らしたらよいだろうと思うのだが、女性の抑圧をテーマとし、同時に女性の権利向上を主張する映画の場合、お客をどう面白がらせるかということよりも、そのテーマと主張を正確に伝えることが優先されてしまう傾向が強いような気配があり、結果、とりあえずダンスという凡庸な表現が横溢することになってしまうのではないだろうか。
率直に言って「抑圧が少女をモンスターに変えた」なんていうのは古今東西のホラー映画では散々やり尽くされたネタであり、スマホのダンス撮影も含めて、どうもこの映画は創意工夫に乏しく、ちょっとアピチャッポン・ウィーラセタクン風の寓話性はあるとはいえ、全体的によくあるアレ以上のものとは見えない。これがどこかのヨーロッパの映画祭でなんとなく立派そうな賞を獲ったというので審査員の目は節穴かと束の間思ってしまったが、おそらくそれはこの映画がホラー映画として出品されていなかったからかもしれない。女性の抑圧をテーマにした社会派映画にホラー的な要素を持ち込んだので新味があった、とかそんなところじゃないだろうか。その手の映画で言うとこのあいだもこのブログに書いたばかりなのだがマティ・ディオップの『アトランティックス』が秀作の部類であったし、大学カルチャーに馴染めない新入生女子が人肉の味を覚えるジュリア・デュクルノーの『RAW 少女のめざめ』もそうした文脈で批評筋に評価されたのかもしれない。
けれども、とくに誰かの言葉なんかを引用するまでもなく、大抵のホラー映画はその映画が制作された時と場所を大なり小なり反映しているもので、そのために仔細に作品分析をすればその映画が作られた社会が見えてくるという意味で、ホラー映画はどれ一つ取っても社会を描いたものなのである。そう考えれば社会派映画にホラー要素を取り込むことと、ホラー映画に社会の要素を取り込むことの間に、何か本質的な違いがあるようには思えないし、そうであれば前者と後者は優劣なく平等に論じられて然るべきではないだろうか。
決してつまらないとは思わないけれどもホラー映画としては凡庸としか言いようのない『タイガー・ストライプス』が、あくまでもホラー映画として見ればという前提付きではあるが、他のもっと優れた同種のホラー映画よりも批評的に価値あるものとされていることには、ヨーロッパの批評筋のジャンル映画蔑視が窺えて、ホラー映画好きとしてはあまり気持ちの良いものではない。社会派的であれば、政治的であれば、それは映画として面白くなくても、社会派的でも政治的でもないジャンル映画よりも偉いのだろうか? そんなことをつらつら考えてしまう『タイガー・ストライプス』なのであった。