《推定睡眠時間:70分(1回目)》
《推定睡眠時間:70分(2回目)》
《推定睡眠時間:0分(3回目)》
一昔前は兄弟監督の日本語表記は〇〇兄弟だったのだがいつからかブラザーズ・〇〇という表記が一般的になりなるほどー英語表記に合わせてるのかー別にそんな必要も感じないけどなーとなんとなく思っていたのだがアメリカが誇る兄弟監督クエイ兄弟の長編映画としてはなんと『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』以来19年ぶりの最新作にあたるこの『砂時計サナトリウム』のクレジットを見たら監督名表記はQuay Brothersだったのでじゃあクエイ兄弟でいいだろなんだよブラザーズ・クエイとかカッコつけようとして!
そんなことはどうでもいいがこの驚きの睡眠量。上映時間76分の映画で70分の睡眠は尋常ではなく、一度目はともかくリベンジ鑑賞の二度目も初回とまるで同じタイミング、すなわち問題の砂時計サナトリウムと思しきどこかしらの場所の壁に開いた穴からソフトフォーカスで幽霊のようにぼやけた男たちが出てくる不気味にして蠱惑的なこれはもうたまらない映像をバックにしたオープニング・クレジットが終わった段階で眠りの迷宮に足を踏み入れているのであるから、単に眠い映画というだけではないなにやら魔力のようなものを感じざるを得ないところである。
しかし本当に驚くのは今度こそはと臨んだ三度目の鑑賞の時であった。ついに無睡眠鑑賞を果たしたこの三度目でわかったのは登場人物寝てばっかということである。あらすじを説明しよう。クエイ兄弟が過去にも『ストリート・オブ・クロコダイル』などで映画化しているブルーノ・シュルツの原作に基づくこの映画はまずプロローグとしてサナトリウムに入院したなんとかという回復期の(なんの?)女の人の説明とその声を録音したレコードを再生するところからはじまる。「通りの向かいに誰かが立っている…その人は宇宙からの何かの声に耳を澄まし…目は衝撃にかすんでいる…」だいたいそんなことを言っていたはずだが意味不明である。しかもクレジットを挟んではじまる物語にその女の人は出てこない。このプロローグはいったいなんだったのか?
クレジットを挟んで始まる物語というのは競売人のお話である。ある競売人が奇妙なからくり箱を手に入れた。その中には以前の所有者の眼球が入っていて、からくり箱にいくつも取り付けられたのぞき穴を太陽の光が特定箇所に当たる時間にのぞくと、眼球に記憶されたいくつもの映像が見えるのだという。こうして競売人がのぞき穴をのぞいたところ見えたのがある青年が死んだ父の入院する異国のサナトリウムを訪れるお話で、映画はここからストップモーションアニメになる。
それにしても死んだ父がどうしてまだ生きている(?)のだろう。サナトリウムの医師が青年に説明するところによると、ここでは時間がものすごく遅く進むので、父の死んだ国では父は死んでいるのだが、このサナトリウムでは死の事実に時間がおいつかないために、死が延々引き延ばされて父はまだ死んでいないのだという。そうか、なるほど。納得できるわけがないのだが、そんなものかと納得した青年はサナトリウムの廊下で父の面会を待っている間に眠ってしまう。のぞき穴でその光景を見ていた競売人も眠ってしまった。その後青年は父と面会するのだが話の内容は省かれているので、あたかも夢のようにそれがあったという痕跡だけ残して、実際に何を話したかは不明である。しかしともかく青年はそれで目的は果たしたらしく、妙に満足げに夜行列車に乗って自国へと帰っていく。
これで物語は終わりなので一体なんなのかよくわからないのだが、前に進まなくなった時間と睡眠による物語の中断という主要モチーフが、二回観て二回ともオープニング・クレジットが終わった時点で寝てしまった俺の鑑賞体験と電撃的に謎のシンクロっぷりを見せ、さながら宇宙からの声に打たれたがごとく慄然である。すごい…これがクエイ兄弟の映画か! たとえ寝ていても、いやむしろ、観客を寝かせることで、目で観ることなく映画の世界に没入させる! ふざけて言っているのではない。いや、まぁ、半分ぐらいはふざけているが、もう半分は本気である。今回実写パートの歪んでセピアがかった映像の質感が『独裁者たちのとき』などロシア睡眠派の巨匠ソクーロフの作品を思わせたのだが、ソクーロフは現実世界の様々な二項対立を睡眠によって融解・越境しようと試みる(※解釈は個人的なものです)映画監督であった。よくわからない入れ子構造によって現実と幻想、実写とクレイアニメ、過去と現在、そしてあるいは映画と観客の垣根を無効化しようと目論んだのが『砂時計サナトリウム』だったとすれば、青年が夜行列車で国境や生死を超えたがごとく、アメリカのクエイ兄弟とロシアのソクーロフの世界も眠りと夢の中で接続されるのである。
痛み崩れた素材によって形作られた、なんの形をしたなんなのか不明瞭なオブジェに彩られ、眠りに誘う陰鬱なドローンサウンドが低く鳴り響く退廃的な夢世界の魅力はしょせん言葉にしようとしても虚しいだけなので素晴らしい夢だったとそれだけ書いておけば充分だ。よい夢だった、見事な悪夢だった、入れと言われても入りたくはないが、同時にいつまでも時間を引き延ばして滞留していたい極上のファンタジーであった。さぁ、眠りましょう…。
※東京のメイン上映館である渋谷のイメージフォーラムでは2週目のみクリストファー・ノーランが監督したクエイ兄弟のアトリエ探訪ドキュメンタリー『Quay』がオマケで一緒に上映されていた。これはせいぜい5分程度のごく慎ましいドキュメンタリーなので良いも悪いもないのだが、クエイ兄弟が人形の素材、とくに眼球をのみの市で買っていると話していたのが面白かった。記憶の刻まれた眼球は『砂時計サナトリウム』の入り口だったわけだが、そのような物質にこびりついた記憶を、どうもクエイ兄弟はのみの市の中古人形とか布なんかに求めているようなのだ。『Quay』は35ミリフィルムで撮影されているが、デジタルにほぼ完全移行した現在の商業映画界で頑なにフィルム撮影にこだわるノーランもまた、フィルムにこびりつく記憶に魅せられているのではないだろうか。