だいたいの人がそんな感じじゃないかと思うが俺が杉本博司の名前を知ったのは国立近代美術館の何かの企画展で代表作『海景』シリーズの一枚を見た時だった。ゼラチン・シルバー・プリントによる白と黒とその諧調の禍々しい美しさは筆舌に尽くしがたい。美術展に行くと俺はいつもふらふらと順路もあまり意識せずとりあえず全体を見て回ってそれからこれだけはじっくり眺めたいと思ったものをボーッと眺めているが、そのときは『海景』がそうだった。始めも終わりも中心もないようなあの風景を眺めていると思考が吸い取られて瞑想的な心地になる。芸術作品は心を無にしてくれるから良いなと思う俺にとって『海景』は理想の写真の一つであった。
その杉本博司のこれまでの軌跡をざっくりまとめた展覧会が国立近代美術館でやっている『杉本博司 絶滅写真』とのこと。東京都写真美術館のリュニューアルオープン第一弾の企画展が杉本博司の『ロストヒューマン』というアトラクション型の(?)インスタレーションで、この展覧会はいろんな種類の終末が遺書のような形で綴られ(これを清書したのは批評家の浅田彰だったはず)、それぞれの終末を象徴する物品をそれぞれのセクションに展示するというとってもJ・G・バラードの終末SF(『終着の浜辺』的な)っぽい展覧会だったのだが、絶滅という主題はどうもそのへんから杉本博司の中で前景化したらしい。
ただ展覧会全体を通して見れば絶滅というよりも「幻像」といった概念の方が展示内容に即していたような気もする。3セクション13シリーズで構成される『絶滅写真』展は杉本が初期に手掛けていたジオラマ写真から始まる。このシリーズは写実的な精密ジオラマをキャラクター目線のカメラポジションで撮影することであたかもジオラマではなく実際の風景であるかのように見せる一種の騙し絵で、ここでは絶滅した動物たちの在りし日の風景として制作されたジオラマ写真が展示されているのだが(その掉尾を飾るのは現生人類である)、絶滅した動物たちの在りし日というのは、当たり前の話なのだが現代を生きている人類には決して到達できないものである。
その現実には到達できない風景を人間は科学的知見を手掛かりに想像によって作り出すのだが、恐竜のイメージイラストのように、こうして一度作り出された想像上の産物は、それが社会に流通する中でそれがどこまで行っても実際の姿からは切り離された人間の想像でしかないという原則が忘れ去られて、「実際にこうであったもの」として認識されがち、な気がする。俺は基本的にキャプションを読まない人間であるから(自慢することではない)最初このジオラマ写真がジオラマであると気付ず、ふぅんガラパゴス諸島とかで絶滅危惧種の動物を撮ったのかなぁ、それにしてもなんてドラマティックな光景なんだ、スゴイ写真だ、とかアホなことを考えてしまった。その勘違いはさすがに何枚か見ていくうちに解けるのだが、ホンモノであるかのように作り物を見せるというジオラマ写真は、想像されたものが「実際にこうであったもの」と認識される錯覚を、それはあくまでも錯覚であると教えてくれる。
展示作品の中でもうひとつ俺が騙されたものを挙げよう。「昭和天皇の肖像写真」である。ほぉ、昭和天皇の肖像写真なんて撮ってたのか、杉本博司ってそんなに当時からネームバリューのある人だったのかなぁ? とこちらもアホ丸出しであるが、写真の中の昭和天皇は背筋がピンと張って病気とは思えない姿だったので、いったいいつ撮ったのだろうと不思議に思ってキャプションを見ると制作が1999年である。事実は、これは蠟人形写真シリーズの一作で、このシリーズでは世界の様々な有名人の蠟人形を真っ黒な背景によって浮かび上がらせ、ホンモノの肖像写真のように見せているのであった。このシリーズの蠟人形とはとても見えない蠟人形たちはみんな実に立派で偉い人間に見える。ところがそれはホンモノではないのだ。ホンモノではないものが、写真の「演出」効果によって立派で偉くて平民が見上げるのも畏れ多い人間に見えてしまうのだ。
ジオラマ写真と同様、肖像写真(偽)シリーズもまた想像されたものが「実際にこうであったもの」と認識される錯覚を解いてくれる。ジオラマ写真で想像されたものが人類以前の過去なら、ここで想像されるものは権威なわけで、こう書けばこの作品『昭和天皇』がまったくラディカルな天皇(制)批判として機能していることがわかる。世間ではやれ皇室典範がやれ女性天皇がとアレコレ意見が交わされているが、そうした意見なり議論なりの前提としてみんなこの写真一枚ぐらいは見ておいた方がいいのかもしれない。
ジオラマ写真や肖像写真のシリーズに強く表れているように、杉本博司の作家的関心はそう見えるもの、そう思われているものが、本当にそうなのか? と騙し絵的な写真を通して問うことにあるように思われる。無人の映画館で映画を上映しその全編を長時間露光で撮影した劇場シリーズもまたその一つ、スクリーンに映写された映画全編を長時間露光で写真に撮るとどうなるかというと……スクリーンが真っ白になって何も見えない。人が映画館で映画を観るときに「これはスクリーンに映写された光の集合体でしかない」なんて考えたりしないものだ(もちろん俺だって一ミリも考えない)。しかし事実は、映画とは光の集合体でしかないし、更にその動きは静止画を1秒間24コマの速度で連続投影(現在のデジタルシネマなら連続再生か)した結果そう見えているに過ぎない。人がいつも見ている映画とは本当は劇場シリーズに映し出された真っ白な光なのだ。そのことに人は普段、気付くことができない。
『杉本博司 絶滅写真』の会場は映画館のように照明が落とされ、一点一点の作品にスポットライトが当てられることで、なにやら作品に厳かな雰囲気が漂い、いかにも立派な芸術作品という印象を受ける。一つ一つの作品の横には杉本本人によるエッセイ的な解説文と川柳が添えられている。その川柳は正確には覚えていないがイメージとしてはこんなような感じである。「はれたひに たのしいデート やったぜべいびぃ」。狂歌と名付けられたこの川柳もまた、虚像が社会に流通するうちに実像として認識されてしまう錯覚の暴露が意図されているんじゃないだろうか。こんな川柳を読めばたいていの人はなんじゃそりゃアホか、と思うかもしれず、そんなものをいかにも芸術品でございといった感じでスポットライトを当てて作品の横に添えることにバカバカしさを感じるかもしれない。
その通りなのだ。あの川柳は決して「ホンモノ」ではない単なる戯れに過ぎない。そしてそれは展示されている作品にも言えるかもしれず、杉本博司その人に対しても言えることかもしれない。ここに展示されている作品は会場の演出効果によってどれも偉大なる芸術作品といった印象を受けるが、本当にそうなのだろうか? それは会場の演出効果がそう見せているだけのまやかしではないのだろうか? 展覧会の鑑賞を通してそのような問いを鑑賞者に生じさせることができたなら、それはなかなか立派なことだ。だってそれはラディカルな美術館批判なわけですから。そしてそれを超えて、世の中に流通するいろんな「そう思われていること」に疑問を持たせることまでできるなら、それはまったく立派なことだ。それこそが今の世に蔓延る権威主義や反知性主義、暴力と分断に対する根源的な抵抗だからだ。
しかしそうだとしても、この世のすべてが実は人間の作り出したまぼろしかもしれないと考えるのはなかなかしんどい。だから幻像だらけのこの展覧会を巡って結局「これだけは」と還ってしまうのはやはりあの海景なのであった。あの吸い込まれるような風景だけは、これは人間の幻像ではないと感じさせる強い何かが宿っているように思われるし、というよりも、あの圧倒的な風景の前では、幻像だの実像だの絶滅だの生存だのと、そんな人間尺度の区別はどうでもよくなってしまうのである。