《推定睡眠時間:20分》
第二次世界大戦末期に疎開先の島で都会の少年が経験するアレコレという感じのこのドイツ映画、舞台となる島は満潮時は孤立しているが潮が引くと干潟が現れ隣の島まで歩いていけるようになるのだが、満潮を甘く見てうっかり隣の島で時間を潰してしまった少年が疎開ハウスのある島に戻ろうとすると潮が満ちてきて……という場面がある。疎開ハウスに戻らないとどこで寝泊まりしたらいいかもわからないので少年は上げ潮のなか干潟を渡り始めるのだが、辺りはあっと言う間に海と化して少年は溺れかけてしまう。
海はおそろしい。そのむかし自主映画の撮影で夏の海に行った俺は連絡ミスによりスマホも財布もない海パン一丁の状態でクルーから離れて浜辺待機を余儀なくされてしまい、暑いし水もないしやることもないので何の気なしに海へと入った。しかしそこはちょっと沖の方へ進むと急に底が深くなる遊泳禁止のサーファーゾーン。すぐに足場を失いほんの数秒のことに思われたが見渡せば浜辺は既に十数メートル先である。めちゃくちゃ焦った俺は水泳部だった中学時代を思い出し、いやホントはそんな余裕もなかったのだが、とにかく何も考えずに必死で浜辺に向かって泳いだ。遊泳禁止ゾーンなので周囲には誰も居ない。まったく幸いにもその時は自力で浜辺に戻ることができたが、もし離岸流に呑まれていたら死んでいただろう。
それ以来というもの海めっちゃこわい。だからこの映画で少年が溺れかけるシーンはドキドキしてしまった。最初はせいぜい靴が埋まる程度のごくごく浅瀬でしかないのだが、上げ潮の勢いは強く数秒後には膝上まで海水が来ている、これはマズいと焦って歩を早めると急に推進が深くなってズボン! である。そこへきて少年ようやくいやこれはマジで死ぬとわかって今までは自転車だの砂糖だのなんかいろいろ持っていたのだがこのままではマジで死ぬので諸々手放して、しかし助けてくれーと叫ぶこともこういう時には案外できず(俺も海で死にかけた時は声が出なかった、というかまず叫んで助けを呼ぶという冷静な思考ができなかった)とにかくもう無言の真顔でめちゃくちゃ焦りながら前へ前へどうにか進もうとする。誠に戦慄すべき海のおそろしさをよく捉えた場面である。
大戦末期といっても疎開先の辺鄙な島なので空襲があるわけでもなく物資が満足に調達できないといっても毎日の食い物はとりあえずある(大戦末期の日帝とは雲泥の差)。ジャンル的には戦争映画ということに一応はなるのだろうが、この映画に戦争を感じさせるものはほとんどない。そんな中で確かに今は戦時下なんだと強く感じさせたのがこの上げ潮の海で溺れかける場面だった。もちろん上げ潮自体は戦争となんの関係もない自然現象でしかないのだが、この、大丈夫だなと思って歩いていたらいつの間にか死の危険に取り囲まれていて、しかももう引き返すこともできないという怖さは、単に海が怖いというのではなく戦争の怖さの詩的な表現ではないだろうか。
戦争の恐怖はどうやら遅れてやってくるらしい。しかし遅れてやってくるのは恐怖だけではない。ドイツが降伏して数日後、降伏といっても急に何かが変わるわけでもないし主人公の少年とそのナチシンパの母親としては戦争が終わった実感などないのだが、配給券を手に近所の肉屋にソーセージを買いに行ったら店主が戦争が終わったからもう配給券は使えないと言う。「買いたいならドルかポンドで払ってくれ」。これはナチシンパでヒトラーの勝利を信じて疑わない母親にはこれまで信じてきたものがガラガラと崩れ落ちるショッキングな出来事であった。こうして少年と母親は戦争終結から数日経ってようやく戦争の終わりを実感するのだが、そういえば半藤一利もたしか『昭和史 1926-1945』に玉音放送を聞いてからも数日間は家の窓に空襲の標的にならないように張っていた遮蔽幕を張り続け、何日か経って誰が言うともなく遮蔽幕を外したときに戦争が終わったことを実感したというようなことを書いていた。半藤家はとくに天皇陛下万歳みたいな感じではなかったというが、どんな思想的立場の人であれ、戦争が終わった実感というのはすぐに生じるものではないらしい。
率直に言って広大な干潟を少年が一人で歩く場面など目を引くところはあるものの全体として言えば戦争というテーマの重さに反してなんだか妙に力の入らない、普段はもっとドライであったりショッキングであったりするファティ・アキン監督作にしてはゆるい映画という印象の方が強いのだが、たとえばあれほど綿密な時代考証を行った『この世界の片隅に』のような作品でも戦争の終わりは歴史が変わった瞬間としてドラマティックに描写されていたことを思えば、戦時下の遅れてくる死の恐怖、遅れてくる敗戦の実感、遅れてくる無力感と、遅れてくるちょっとした疎開先での友情を描く『白パンと独裁者』は、銃後の日常の感覚を(おそらく)リアルに捉えた映画として立派なものなのではないだろうか。
戦争をしていないときの日常と同じようにきっと銃後の日常というのも大抵はつまらないものなんだろう。戦争は絶望の連続であり恐怖の連続であるというドラマティックで非日常的な見立ては実のところ戦争にエキサイティングな価値を見出す右翼思想と根本においては違ったものではないのかもしれない。そうだとすれば、とくに面白くもなくドラマティックな出来事も別に起きない戦争を映画で描くことは、戦争を特別な時間として切り離すことで結果としてある種の美化を行ってしまうことに対する、ラディカルな拒絶になるんじゃないだろうか。そんなことを思わされる『白パンと独裁者』だったなぁ。とりあえず、みなさんも海難事故にはガチでお気を付け下さい。