世界の名作映画『おばあちゃんの家 デジタル・リマスター版』感想文

《推定睡眠時間:0分》

その超牧歌的な内容に観ながらなんだかしんみりとしてしまったのは韓国社会も韓国映画もここ20年程度ですっかり様変わりしたんだなぁと思ったからなのだったがこの映画が最初に公開された2003年の韓国映画をGoogle先生に訊ねたところ真っ先にGoogle先生の大頭脳が弾き出したのは世界の映画祭を席巻した『殺人の追憶』だった。『JSA』は2000年、『シュリ』は1999年、『アタック・ザ・ガスステーション』も1999年。全然今と変わってねぇじゃねぇかっていうかむしろ『殺人の追憶』とか『JSA』なんかと比べると『おばあちゃんの家』の場違い感すごいな。韓国映画史はまったく知らないがこれは公開当時も「今の時代に!?」みたいな驚きを持って韓国の観客たちに受け入れられたんじゃないだろうか。

とにかくこの映画に出てくるディープ・コリアときたらすさまじく主人公はソウル育ちのシティボーイだいたい6歳なのだがこのキッズがシングルマザーのお母ちゃんが失職して仕事探さないといけないからってんで2ヶ月間だけコリアン田舎のおばあちゃん宅に預けられる。それがもうそんじょそこらの田舎ではない。まず水道が通ってない。生活水は毎日毎日おばあちゃんが近くの湧水を水桶に入れて天秤棒で運んでくるのだがその長年の習慣のおかげでおばあちゃんの腰は誇張でなしに90度まで折れ曲がってしまった。

水道が通っていないのだからトイレはもちろん母屋の外に建てられたぼっとん便所。続けてラジオもねぇテレビもねぇと言いたいところだが電気は通っているのでテレビはある。しかし田舎過ぎて電波が入ってこないので映るのはどのチャンネルも80%ぐらい砂嵐、電気があるといってもほとんど使っている形跡はなく冷蔵庫や炊飯器なども当然のように置かれていないが、それどころではなくガスもないので料理はかまどで作るというストロングスタイルである。もちろん電話だってない。俺も主人公キッズ同様にシティボーイなのでそこは家なの? なんか遊牧民のゲルとかじゃなくて? ぐらい思ってしまう。っていうか現代のゲルだったらたぶんこの家より全然ハイテクじゃないだろうか。

おらこんな村イヤだ…とはしかしおばあちゃんは決して言わない。まぁ思っていても話す人がいなさそうだしそもそもおばあちゃん耳は聞こえるらしいが言葉が喋れない。薪拾いが日課の近所の子供たちに人気の遊びはリアル暴れ牛から逃げるごっこというワイルドデンジャラスにも程があるディープ・コリアでおばあちゃんは一人静かに逞しく暮らしていましとさ…と思わず感想が終わってしまいそうになったが、2003年の韓国にはまだあったんですよこんな秘境的ディープ・コリアが! 撮影のために村一個作ったのでなければ!

そう思ったらやっぱジーンときちゃうよね。はい無理ですよ俺はここでは暮らせませんよ一日も無理ですねだって虫とか出るし普通にめっちゃ普通に。でおばあちゃんにしたってねここが暮らしやすいかっていったら全然もう全然暮らしやすいわけないんです。だからここは理想郷では超完全に全然ない。でもその風景はやはり心の琴線に触れるところがある。それは村人たちの温かさがどうとか自然の豊かさがどうとかそんなテンプレ的なことが言いたいんじゃなくて、事実そんなものはこの映画にはほとんど出てこないのだが、もう、感動的なのですよ。このような暮らし、風景、人々がカメラに映っている、そのこと自体が。

映画の面白さにも色々あるだろうけれどもその一つにはやはり自分が日頃見ている世界を超え出でる圧倒的な光景がスクリーンに広がっている、というのがあると思う。『おばあちゃんの家』にはすごい特撮とかCGとかが出てくるわけではないしエベレストのてっぺんの映像みたいな自然のスペクタクルが出てくるわけでもない。でも腰が90度に曲がったおばあちゃんが半分けもの道と見える山道を生活水背負ってゆっくりゆっくり歩く姿なんてあなた見たことありますか? テレビもねぇラジオもねぇ水道もガスも何もねぇハイパーオールドスクール民家でそんなおばあちゃんが暮らす姿を。それはやっぱり圧倒的な光景なんですよ。全体的に自然体のユーモアの漂う作りだがこれはもうショッキングでさえあると思うね。

と映画の外面の話ばかりついつい書いてしまったがストーリーも素晴らしいの一言で、このディープ・コリアが主人公のシティボーイは当然気に入らない。もうなんか大都会ソウルと比べて全部が全部きったねぇし非文明的だし無理ですよ無理無理っていうのをまぁキッズだからね、隠そうともしないばかりかそんなところで2ヶ月もサバイブしなければならない理不尽に憤りおばあちゃんに当たり散らします。おばあちゃんがせっかくチジミみたいなのを作ってくれてもそんなの食えるかと突き返す。おばあちゃんがせっかく赤ちゃん向けの知育玩具みたいなのを押し入れの奥から引っ張り出してきてくれてもそんなの遊べるかとガン無視してゲームボーイみたいなのやる。ケンタッキーが食べたいケンタッキーが食べたいとわめくキッズのためにケンタッキーが何か知らないおばあちゃんが雨の中近所から生きたニワトリを買ってきて丸ごとボイルにするというダイナミックなご馳走を作ってくれてもこんなのケンタッキーじゃないやいとちゃぶ台ガシャーン…こんのガキャええかげんにせぇよおばあちゃんになんてことすんだお前!

そのほかにも尿瓶を割ったりおばあちゃんの唯一の靴を隠したり(そのせいでおばあちゃんは裸足で水を汲みに行くことになってしまった!)おばあちゃんのかんざしを寝ている隙に盗んでゲームボーイ的なやつの電池を買おうとするなどやりたい放題でもう許しがたい狼藉っぷりなのだがおばあちゃんはちぃとも怒らない。ただただ悲しげな表情を浮かべながら朝になればキッズのご飯を作りキッズの服を川で洗濯し(桃太郎か!?)夜になればキッズの寝床をこしらえとキッズと一緒に寝てキッズがせがめば眠い目をこすってぼっとん便所までついて行ってやる。自分が全身雨に濡れていてもキッズが布団もかけずに昼寝をしているのを見つければ体を拭くよりも先にキッズに布団をかけて枕をあてがってやる。そこには何の迷いも浮かぶことはない。おばあちゃんなら自分がどうなろうが孫に尽くすのは当たり前という圧倒的なこの献身。許すまじ暴れん坊キッズもさすがに段々と「おばあちゃんに悪いことしちゃったな…」って感じでおばあちゃんのために色々してあげるようになる。

一切泣かなかったがインマイマインド大号泣である。どこかの大量放火殺人犯が犯行後に全身火傷の治療を受けながらこんな風に人に優しく接してもらったことはなかったといささか遅すぎる改心(?)をしたとかしないとかという話もあるが、ガチな愛情や親切に触れれば野獣のような人間も変われるものです。良いんだよナァ、その過程を淡々と撮っててさ。わざとらしさが本当にないんだこの映画は。嘘くさいドラマもなければドキュメンタリー調の過剰なリアルもない。ただそこにあるものを撮っているだけ、という風に見える。映画で重要なのはどう撮るかではなく何を撮るかなのだとでも言わんばかり。その映像の力強さは黄金時代のサイレント映画に匹敵するんじゃないだろうか。物語にしても映像にしても、ここには時代や国を超える普遍的なものがある。

映画の最終盤、おばあちゃんがいつもやっていた手話の意味がわかる感動のシーンでエンドロールにしてしまえばいいのに、その後におばあちゃんがまた一人で山道を歩く風景と、おばあちゃんが描いた微笑ましい絵が入ってくる。それを観た時にこの映画は本物なんだと思った。なにが本物なんだと言われても困るが…なんというか表面的な感動とか格好良さとか面白さとかじゃなくて、その下にあるものを作り手が懸命に取り出そうとしているように見えたっていうか、まぁとにかくね、心から素晴らしい作品だったよこれは。こんな素晴らしいのに俺が観た回限定という可能性もゼロではないが少なくとも俺が観た回は客が6人ぐらいしかいなかったので、これを読んだ人は全員観に行け。いつまでもあると思うなババァと上映!

【ママー!これ買ってー!】


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『おばあちゃんの家』のおばあちゃんみたいな生活を実際に送ってる農村の人にカメラを向けたディープ・コリア・ドキュメンタリー。こちらも傑作。

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匿名さん
匿名さん
2023年1月18日 8:56 PM

読んだので見てきました。これは号泣するやつだろうな…と思いながら見てたら案の定やられました。こういう不便でも丁寧に暮らしている人たちの日常って、見てるだけでジーンと来てしまいます。とにかく主演のおばあちゃんの「本物」感が凄いと思ったら、やっぱり実際にあの村で暮らしていた方なようです。というか孫以外は現地の方らしくて、ある意味納得しました。ラストの…おばあちゃんが家に帰る場面。本当に一人でああいう暮らしをしてて、物語が終わってからも本当に続けていくんだっていう。なんというか、あの場面でフィクションとノンフィクションの線を越えてこちら側に迫ってくるような感覚を受けてゾワッとしましたね。あまり上手く言えませんが、とにかく凄い映画でした。