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考えてみれば中島哲也の監督作なんかこれの他には『来る』ぐらいしか観た覚えがないので近作2本だけでもってこの監督の特徴は~などと語ろうとするのはまったくいいかげんなのだが、とはいえこの2本に限れば中島哲也という人のテーマのようなものはおそらくは軽薄なものの可能性にあるのではないかと言うことができるかもしれない。軽薄なものというのは、『来る』の場合はなんか悪霊っぽいやつを追い払うために色んな伝統的なお祓いが試されるのだがこれは未遂に終わってしまい、最終的に松たか子演じるインチキ臭い霊能者が古今東西のいろんなお祓い的なものをチャンポンにしたお祓いフェスのようなものを行うことでどうにか悪霊を退治するわけだが、これは伝統では解決できなかった問題を新しくて薄っぺらいもの=お祓いフェスによって解決しているわけである。では『時には懺悔を』における軽薄なものの可能性とは何か。
時代は1990年代前半、ぐらい。死んで当然とまで言われる業界では悪名高い探偵(佐藤二朗)が何者かによって刺殺され、そんなことをやって何の足しになるのかよくわからないが、役所広司や片岡鶴太郎など錚々たる顔ぶれが並ぶ同業者たちは事件を警察任せにせず自分たちで真相究明に乗り出す。でその言わば捜査官に任命されたのが障害を持つ息子を亡くしてからというもの抜け殻のようになって酒浸りの日々を過ごしている粗野な中年男(中島哲也映画でありがちな設定)西島秀俊と前科持ちの新米探偵・満島ひかり。事件を追う内に二人が辿り着いたのは水頭症等々複合的な障害を抱える息子を一人で世話する小汚い酒飲みの無職男・宮藤官九郎。はたしてコイツがどう事件にかかわってくるのだろうか。
映画の冒頭は中島哲也らしい激しいクロスカッティングが冴えて実に混沌。90年代前半という時代の空気を表現するためかカメラの彩度は浅く抑えられてノイズ乗りまくりのザラザラ映像。残念ながらこれがカッコよくてクセ強役者たちの劇画的台詞回しも合わさり実に引き込まれてしまうわけだが(残念である!)、しかしこうしたノワール/ハードボイルド的な世界観や映像表現はあくまでも物語の導入部、中盤以降は重度障害児の育児が映画の中心となって、その生を巡るヒューマンドラマとなってくる。ここで浮上してくるのが血縁家族と非血縁家族の対比と、そこから導き出される軽薄なものの可能性であった。
あくまでも一般論として言えば血の繋がった親子は血の繋がってない親子よりも「ホンモノ」として多くの人に感じられるんじゃないだろうか。血の繋がっていない親子は血の繋がった親子に対して人工的・社会構築的であり、そのためにニセモノとまでは言わないまでも、血の繋がった親子よりも何か絆のようなものが弱いと思われがちである(しかしそうだとすれば普通は血縁関係にない夫婦の絆もまた薄っぺらいものとなってしまうだろうし、だいたいその薄っぺらい絆から血の繋がった親子という「ホンモノ」の絆が誕生することは矛盾だろう)。それは本当なのだろうか、というのが『時には懺悔を』の問いかけである。
まぁここらへんはミステリーなのだしネタバレはよくない、よくない。ということであまり具体的には書けないが、そうだねぇ、最大限ボヤかして書くとですねぇ、育児というのはとても大変なことだと育児をしたことのない俺が言っても説得力に欠けるがそう思います。なぜ大変かというに、そりゃ単純に作業が多いし死なせてはいけないというプレッシャーも多大だけれども、おそらくそうしたことの根幹に横たわっているのが育児を通して子供は親にその像を返すということだから。育児をする時に親は子供そのものは案外見ていない、というか見せられていない。とくに幼少の頃は親との関係が世界の全てなわけで、親があーといえば子供もあーというし、親が歩けば子供も後ろをついてくる。子供はこうして自身を通して親に親の姿を見せることになる。
ラカン派の精神分析理論では子供は鏡を通して自己を確立するということになっているらしいが、育児もまた親にとって自身を映し出す鏡となるとすれば、育児の大変さはかなり深刻な自己否定のリスクをそこに含むことにあるんじゃないだろうか。親の行為を子供が喜んでくれたら親は自分の行いや存在は間違いではなかったのだと強い自己肯定を得ることができるけれども、一方で親の行いを子供が喜ばなかったり拒絶したら、親は自分という存在そのものの危機に直面することになるのではないだろうか。そしてそうした残酷なジャッジは健常児に比べて親のコミットが多く必要な重度障害児の場合にはとりわけ強くなると仮定すれば、劇中で度々描かれる重度障害児の育児に対する血の繋がった親たちの拒否感もよくわかるかもしれない。
たいていの人は強い自己否定のリスクなど取りたくない。それなら重度障害児は生まれるべきではないのだろうか? 決してそうではないのだとこの映画の中で示してくれるのが軽薄な親であった。この軽薄な親はもともと自己肯定感がかなり低くそのために暴力的であったり反社会的な傾向を持っている人である。もちろんお金もないしということで、傍目にも本人的にもこの人の人生というのはぶっちゃけ希望がなさそう。ところが、というよりもだからこそ、この人は重度障害児の育児を通して、その鏡を通して、そこに自分でも気付いていなかった善良なる自分を、生きる価値のある自分を発見するのだ。世界の誰からもその存在を肯定されなかったかに見えるこの人を唯一肯定してくれたのが重度障害を持つ子供だったんである。
育児をする親がもともと自分に自信があって自分の価値を疑っていない「ホンモノ」なら自己肯定の機会としての育児はあまり魅力的なものには映らないかもしれない。どころか逆に、往々にして子供は自分の思い通りにならないわけだから、そのことによる自己否定の機会の方がこうした場合には大きくなるんじゃないだろうか。でもそうした自信や価値を持たない軽薄な人は違う。軽薄な人は育児によって自分の存在意義を発見することができる。それがこの映画に描かれる軽薄なものの可能性で、軽薄だからこそ、決して立派じゃない人だからこそ、自らの存在を肯定してくれる重度障害時児の生を強く肯定することができるのだ。
原作刊行は1994年というからそんな昔のとくに有名でもない(と思うが世間的にはどうか知りません)小説をなぜ今になって映画化するのかといえば、まぁ大人の事情はいろいろあるのかもしれないが、綺麗事を素直に信じて言えば、未曾有の大量殺人であった相模原障害者施設殺傷事件に対するアンサーとして、という側面が強かったんじゃないだろうか。相模原に対するアンサーとしては、重度障害児の育児の大変さを美談的に誤魔化さずにハッキリ描きつつ、けれども立派な大人たちから軽蔑されるような軽薄なものを通して重度障害児の生を肯定しているのだから、とても好感の持てる真摯な映画と見える。そのために序盤にあった破天荒な勢いが中盤以降は大きく削がれることになっているわけだが、映画的な面白味を犠牲にしてでも、という判断だとすれば逆にえらいえらいポイントだろう。
そういうところは『12人の死にたい子供たち』とか『人魚の眠る家』あたりの近年の堤幸彦映画とちょっと似ている気がするのだが、そういえば堤幸彦はテレビバラエティの演出家からドラマ演出家を経て映画監督になった「軽薄な人」であり、中島哲也もCF・MV出身の監督ということで映画以外の映像仕事から映画監督に転身したこちらも「軽薄な人」であった。中島哲也が軽薄なものの可能性をテーマに据えるかのように見えるのはそうした出自とまったく無関係ではないかもしれない。それをポストモダン的な感性とかなんとかいささかの蔑視を込めて呼ぶことは簡単かもしれないが、おそらくは資本主義の浸透による秩序の解体と社会の流動化が進行する中でナショナリズムやフェミニズムなど広義のアイデンティティ・ポリティクスが人々の依って立つものとして強い求心力を持ち、その内と外、ホンモノとニセモノを峻別しようとする思考が地続きの世界に亀裂を入れ、必要なものと不要なものの二分法に人間を投げ込んでしまう中で、外にいるものとしての、ニセモノとしての、不要なものとしての軽薄なものに、世界を修復する可能性を見ようとする(かのような)姿勢は、俺のような何者にもなれなかったダメ人間にはいたく響くものなのである。