そんな花束捨てちまえ映画『花束みたいな恋をした』感想文

《推定睡眠時間:0分》

菅田将暉が演じる男の方の主人公・麦くんは5万の仕送りと恐らくプラスの生活費補助で5.8万の1K風呂トイレ付きアパートに暮らしている大学生なのであったがそんな色々と十分すぎる住居に住んで持ってるPCは夢のMacBookAirとかのくせに「しょせん我々なんか下々の者ですからねぇ」的な下町卑屈マウントをそれとなく仕掛けてくるので風呂なし給湯なしエアコンなし換気扇なし日当たりなしインターネット回線なしトイレ和式共同ネズミが天井運動会家賃3万壁の穴から隣の部屋が見える築年数限界の木造アパートに住んでいた俺からすればテメェふざけんなよを通り越してちょっと泣いてしまう感じである。

この、「普通」の暴力。これはもう映画というより敵である。主に2015年ぐらいから2020年までに流行ったものの固有名詞出まくりの脚本であるからみなさんはあるある~的に共感して楽しんでいらっしゃるかもしれませんが俺が共感できるところなんかこの中にはミリ単位もなく唯一これはあるなと思ったのはある登場人物の死に方なのであったがこれは俺の知り合いもまるで同じ死に方をしたからですっておかしいだろう共感できるポイントが! それはお前の問題だろっていう君たち「普通」の人よ! あのね! それ「普通」じゃねぇから! まず自分用の風呂トイレがある部屋に住めてるのは普通じゃねぇから!

凹むわー。あるあるネタっていうのは要は普通の話っていうことじゃないですか、じゃないと客の方はあるあるできないわけですから。だからもうこういうの俺きついんですよ。あらゆるシーンで「これが普通でしょ?」って言われてるみたいで。家に風呂トイレがあるの、普通でしょ? 異性の恋人がいるの、普通でしょ? 男女のカップルは男の方がでかくて女の方が小さいの、普通でしょ? 普通でしょ? 普通でしょ? 普通でしょ? うるせぇバーカ普通じゃねぇよ!!! テメェらカップルの思い出あるある的な感じで焼きそばパンとか食ってるけどよ、俺は焼きそばパン好きだけど小麦アレルギーで食べるとお腹壊しちゃうから食いたくても焼きそばパン食えねぇんだよ!!!!! 俺だって近所のイイ感じのパン屋で売ってる焼きそばパン食いてぇんだよ!!!!!!!!!!!

しかしそういう苛立ちも含めて楽しめたことは確かであるしそこは明言しておきたいわけで、というのも当然ながら当然ながら言うまでもなく当然のことながらであるが共感だけが映画の面白さではないし、むしろ共感に依らない面白さこそが映画の良さであるかどうかはともかくとして、大事なのは共感だけではないよ、とでも言っておかないといけない気がするのである、こういう映画の場合は。

ストーリー。どうでもいいクソみたいな学生が5年付き合って別れる。以上。それ以外にストーリーに関して俺に言えることはない。まぁでも俺じゃなくても映画を観た人わりとそんな感じなんじゃないすか。あの二人がどうでもいいクソに見えるか見えないかは個人差だろうが、映画の主眼は捻った展開とか気の利いた伏線とか奇抜なキャラクターなんかには一切なく、とにかく全ての面において観客が「あるある」と感じられるように配慮されているのである。

その「あるある」を列挙することはあえてしない。だいたい二人で暮らすために引っ越そうという話になったら金を工面する場面なんか一切なく次のシーンでアッサリ引っ越してしまえるぐらいの経済的余裕のある連中の「あるある」なんかたとえ「あった」と感じたとしてもしても「あ」が頭に浮かんだ時点で「ねぇよ!!!」が感嘆符を三つ付けてかき消してしまう。ちくしょうテメェら俺が三万の貧民窟から抜け出すためにどれだけの時間を要したと思ってるんだよ…! 思ってもいねぇよ映画の中のキャラなんだから。

私憤はともかく「あるある」が売りの映画は内容的にも「あるある」なのであった。この主人公二人は「あるある」を共有することでしか繋がることができない。プレゼントを買ってきて交換するとなんと二つとも同じもの! …なーんてヤングカップルのスイートな思い出っぽく映りますが要はこいつらプレゼントの発想まで同じになっちゃうつまらない人間ってことじゃないですか。空虚だよね。こいつら他人と同じであることが、他人と思考を共有することが、無条件で楽しい種類の日本の「普通」の人なんですよ。

他者というものがこいつらの世界には存在しない。だから2015年から2020年の間に現実には世の中で様々なことが起こっていたとしてもそんなものは存在しない。貧困は存在しないし差別も存在しない、政治は存在しないし災害も存在しない、人種は存在しないし事件も存在しない。「他者」の世界は存在しないし、それは日本の普通の人たちが「あるある」することのできないつまらないものとして、仮にあったとしても視界の外へと追いやられてしまうのである。

二人が出会って別れるまでの5年間は言ってみれば二人がお互いの中にあるある不可能な他者を発見するまでの時間であった。これは映画の冒頭に結果が既に置かれているのでネタバレではないのだが、こうして二人は他人の中の他者と自分の中の他者を少しだけ肯定するのであった。これがよくある学生カップルの社会人になってからのすれ違いとして描かれているわけであるが、それにしても5年はちょっとかかりすぎじゃないかと思うし、その過程さえ「あるある」的に提示されることで、結局他者は無毒化され拡張された自己の世界に取り込まれることになるのである。

ま、今の日本の空気を捉えた映画といえばそーなんでしょーね。ポストモダン的といえば大変にポストモダン的な映画であって、よく知りませんが普通の人たちからとても人気のあるらしいこの脚本家の観察眼とか社会批評は確かなのではないですか。俺に言わせればこういうのは確かな批評しかない映画である。確かだが凡庸な批評であり、凡庸であるからこそ凡庸な奴らにとって「あるある」としての価値を持つ、つまらない映画である。

広告代理店の大人が主人公カップル(男)に同調圧力をかけてくる、というシーンがある。同調圧力というと何か嫌な大人の行使する権力のような響きもあるが、実際にはこいつらみたいなつまんねぇガキどもが楽しんでいる「あるある」も立派な同調圧力なのである。打てば響く反対意見なき空間こそ森喜朗のようなジジィどもが求めるものであり、下の世代にとっては圧力と生きづらさに転化するそのエコーチェンバーと、この主人公たちは対峙できないばかりか、そもそも対象化することすらできない。二人は別れた後も「あるある」を求めるだろうし、いつしか下の世代に「あるある」を押しつける広告代理店の大人と同じ老害になるのである。

ここにはまったく救いがないが、これだけ人気を集めているということは、ここに救いがないことに気付いている観客はそう多くはないんだろう。そのことがまた救いの無さに拍車をかけるが、そもそも他者の存在しない世界に救いの概念を持ち込んでもしょうがない。ふつう救いというのは金持ちと貧乏人とか健常者と障害者とか違ったものの比較の中で形作られるが、この映画の中には均質な人間しか存在しないので比較対象がないわけで、死んだ登場人物は一応主人公たちよりも不幸な他者として救いの指標と成り得るが、その死が対象化されることは結局ないのである。貧乏な世界しか見たことのないスラムの子供がどのようにして救いを思い描けるだろうか?

配送会社の営業職に就いたカップル(男)はそこである事件に遭遇する。そこには社会的な背景があるかもしれないし組織的な背景があるかもしれないしあるいは政治的な背景があるのかもしれない。だがカップル(男)はそうしたことには少しも興味を示さずに、ただ事件を「もう一人の俺がやったこと」としてしか理解できない。

主人公二人のヤング恋愛あるある的なある行為(とボカしてもしょうがないので書いてしまうがイヤホンを片耳ずつ分けて音楽を聞くやつです)は役者を変えて何度か反復される。あたかも「それがみんな通る道」とでも言うように。そしてその恋愛通過儀礼を既に通り過ぎた者として批評するカップル(男)の言葉は、以前どこかで聞かされた言葉をそのまま反復しているに過ぎないのである。他者の存在しない世界では自己もまた存在しないわけだ。

リチャード・ドーキンスの提唱したミーム(文化遺伝子)の概念を拡張して心理学者のスーザン・ブラックモアは人間をミーム・ビークルと呼んだ。人間は文化を運ぶ乗り物で云々という話だが、主人公カップルのひたすら固有名詞を交わすだけの自我を欠いた無味乾燥な会話を聞いているとこの呼び方が実にしっくりきてしまう。引用で映画を埋め尽くすことで知られる某有名監督のカメオ出演もその点から理解できるのではないだろうか。2021年1月現在、世界中の人間が新型コロナのビークルとして活動していることを思えば、その主たる感染経路がまさしく会話であることを思えば、なにやら皮肉でもある。

しょせんミーム(とウイルス)の運び屋でしかないつまらない人間たち。同調圧力で守られた安全な空間の中でしか呼吸のできない脆弱な人間たち。あぁ、なんて惨めな人生…でも君たちの人生は君たちにとってはかけがえのないもので、僕たちはそれを応援します。と、言うがごとし「普通」の人たちへのアンセム映画であったが、なんで俺より恵まれた生活をしているやつらを俺が応援してやらないかんのよとも思うので、俺としては精一杯の嫌味を込めて主人公二人にこう言いたい。

君たちはつまらないんだよ。徹底的につまらない。自分で自分の人生を生きようとしなかったし、そうして自分がいかに取るに足らない人間であるか、その悲しみに向き合おうともしなかった。苦痛の中で救いを求める孤独を恐れて救いなき「普通」の中に逃げ続けた。その「普通」の中で普通の輪に入ることのできない膨大な人間を排除し続けた。その罪を自覚する程度の強ささえ持たなかったし、持とうともしなかったし、持つ必要さえ考えられなかった。別に死ねとは思わないのでそのまま無様につまらない人生を生き続けて欲しいが、そんな非人間的な人生を肯定しても仕方がない。ミームを運べ。ウイルスを運べ。君たちは何も考えずにただ運び続けて社会を回せばいいんだよ、あの配送員にそうさせていたみたいに。

「花束みたいな恋」というのは、贈る相手のために運んでいる間は美しいけれど、いざ贈ってテーブルにでも置いてしまったら途端に陳腐化する、そんな空虚な恋のことなんじゃないだろうか。

※ところで菅田将暉の話すあるあるネタの一つに「ジャンケンで紙を意味するパーが石を意味するグーに勝つのはおかしい」というものがあるが、それはお前紙の質とか厚さにもよるだろうけれども紙の底力を舐めすぎだろって思うぞ。結構包めるだろ、紙。

※※『桐島、部活やめるってよ』で劇中最も泣かせるキャラだった野球部のキャプテンこと高橋周平が菅田将暉の上司役で出演しており、キャプテンの脳内スピンオフとして見ると涙腺がザバァと来てしまう。そうか、やっぱ、プロになれなかったんすね、キャプテン。主演二人はどうでもいいけど俺はキャプテンだけは応援しますよ。がんばれ。

【ママー!これ買ってー!】


ミーム・マシーンとしての私〈上〉

ページ数が多いだけで別に大した内容ではないが、純粋なミームとしてのSNSのハッシュタグで選挙が動くような時代なので、刊行当時よりは読む価値があるかもしれない。

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おなまえ
おなまえ
2021年3月6日 9:13 PM

かなり草

匿名さん
匿名さん
2021年3月7日 11:32 PM

今日見てきました。全く同感です。
主人公とその取り巻きの人間がことごとくつまらない上にその振る舞いがいちいち鼻につく。
個人的MVPは海にトラック捨てた配送員です。大胆な犯行、男の中の男ですわ。彼のマグショット見てる時が唯一愉快でした。

匿名さん
匿名さん
2021年3月8日 12:49 AM

拗らせてんなぁ…

匿名さん
匿名さん
2021年3月10日 9:16 PM

前半はそれは普通じゃねえ普通じゃねえってイキリ散らしてるくせに後半になるとこいつらは普通すぎてつまらない…wwww
矛盾してますよww

匿名さん
匿名さん
2021年3月10日 9:41 PM

普通じゃない自分をかっこいいとおもってます?
普通になることが大変だって人より分かってるような口聞いといて普通はつまらない。周りと同じはくそだっていうような意見なのは何故だろう

匿名さん
匿名さん
2022年3月1日 10:45 PM

今更読みましたが、本当にありがとう。
私が言いたいことをみんな言ってくれました。