壁の中の時間−俺の俺による俺のためのルチオ・フルチ覚書

東京都品川区にあるミニシアター兼名画座キネカ大森では毎年夏にホラー秘宝といって往年の名作から最新作のプレミア(的)までホラー映画を新旧問わず東西問わず上映しまくる特集上映をやっているが今年の目玉はイタリアン・ホラーの哲人ルチオ・フルチ13作品(※関連作含む)一挙上映ということで事件ですよこれは。事件です。姉さん通報してください。はいこちらホラー110番ですが? 大変ですフルチが…ふ、ふ、ふ…フルチがなんと13本! え、フルチが13本! はやく…はやくホラーお巡りさん来てください殺される、フルチの映画に殺されてしまう! どうか落ち着いて、今どちらから電話をかけてますか? …お前が電話をしている部屋の真上だッ! なんだこの茶番は。それフルチ関係ないし。『ベル鳴る』シリーズだし。あはは、ベル鳴るシリーズだって、なんか面白いね。突然のフルチ13本情報にシナプスの結合が乱れてます。

しかし13本と書けば多いように思えるかもしれないがフルチは監督デビューが48年と古く、その時期のイタリア映画の職人らしく短編ドキュメンタリーなども含めれば監督作は61本にも上るとIMDbには書いてある。おそらく日本にはその半分も入ってきていない。マカロニ・ウエスタンやイタリアン・ホラーのブームが訪れるとフルチの映画も日本に入ってくるようになったがゾンビ映画の金字塔的一本『サンゲリア』のヒットでカギカッコ付きの巨匠の地位を得てからもその作品が映画作家の映画として観られることは結局なかったので、ゾンビとかウエスタンとかジャーロとかあとエロとか要するにいろんな種類の汁が出るタイプのフルチ映画はゃんじゃかビデオ屋の薄汚れた一角に押し込まれたものの、フルチが汁ジャンルに到達する以前の初期~中期の汁なし作品群はガンに無視を食らったのだった。

別に今回の大森フルチまつりも初期~中期にスポットを当てているわけではないのだが、同じ監督の映画をこれだけまとめて観れば(観てくれるとして!)そこになんらかの一貫性を見出さないことの方が難しい。フルチを血と蛆とゾンビやたら出すだけの人と思っているオールドホラーファンも今回のまつりで多少フルチを見直してくれるんじゃないだろうかと期待が少しだけ膨らむ。つまり、主語がでかビッグになってしまうがわれわれはフルチを全然知らないのである。61本のフルチ映画のうち半分もまともに触れる機会がなかったのだから当然だが、これまで線で結ばれることのあまりなかったかもしれないフルチ映画の点と点が今回の特集でピカーンと結ばれれば自ずと線の根っこにある汁なしフルチ映画にも目が向いて、そのときに、再び主語がでかビッグになってしまうがわれわれはフルチ作品を全然知らなかったことを知るのである。であってほしい。

というわけでフルチ名誉回復コーナー。あのですねみなさんですねフルチに思想とかないよwって思ってるでしょう。あるから思想。思想なしに何かを作ることはできないの意識的にせよ無意識的にせよ。それを汲むのだって映画を観るたのしみの一つじゃないですか…まぁいいけど、とにかくフルチ映画を観ていれば頻繁に出てくるモチーフとかイメージというのがあって、フルチの作家性と一口に言っても切り口は山ほどあるわけだが、とりあえずその点に着目すればフルチが少なくともその作品についてあーだこーだと講釈を垂れられる(すごい日本語!)べき映画作家であることは理解してもらえるんじゃないかと思う。

じゃあそれは何かというと静止です。えらい抽象的なところから入ったね。いやでも静止としか言いようがないんだよフルチ映画の中核にあるものは、俺からすれば。それがフルチ作品では様々な形で変奏され偽装されあるいは『ビヨンド』のようにダイレクトに攻めてくるものもある。『ビヨンド』のラスト、光に導かれて冥府に迷い込む男女二人。冥府に動くものはなにもない。冥府に囚われると永遠に同じ時間を彷徨うことになる。なぜならこれは絵画の世界だからです。映画の冒頭で画家はこの冥府の絵を描いている。その行為の罰として冥府を恐れる村人たちは画家をセメントで固めて壁に埋めてしまう。静止を描いた罰としての肉体の静止。

フルチにとっての冥府というのは静止した空間のことで、死は肉体の静止として捉えられている。『サンゲリア』や『ビヨンド』に出てくるゾンビの元気のなさを見よ。まるで終電がないから満喫でとりあえず四時間だけ寝てフリーのコーヒーとアイスを食欲がないからちょっとだけ食べてまた会社に向かう途中のサービス残業人間! 例を挙げれば、ロメロのゾンビは(『ランド・オブ・ザ・デッド』で生ける屍から屍の生へと変貌を遂げるにしても)死体といってもよく動く死体で、しばしばブードゥー・ゾンビ映画との断絶がロメロのゾンビ映画の特徴として語られるが、人間から意志を抜き取っただけで身体機能はわりとそのままというゾンビ・イメージはむしろブードゥー・ゾンビの延長線上にあり、言うならば奴隷主/妖術師を失った奴隷労働力としてのこのゾンビは目的はなくとも動くことは動くわけである。ここでのゾンビは機械化された人間であり、ロメロはその機械性を通して逆説的に人間性を肉体に付与しようとするわけだ。

『バタリアン』や『ナイトメア・シティ』などなどを嚆矢とする全力疾走ゾンビは世紀をまたいで『28日後…』『ドーン・オブ・ザ・デッド』でひとつの完成を見るが、全力疾走ゾンビがロメロのゾンビと異なるのは肉食いてぇとかそんな理由ではあっても行動の動機が明確なところで、ロメロのゾンビが機械/人間の対立軸を表現するとすれば、21世紀型の全力疾走ゾンビが体現する対立軸は動物/人間である。『28日後…』の物語の発端が動物実験であったことは示唆的だ。ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の原型になった『地球最後の男』と原作を同じくするウィル・スミス主演作『アイ・アム・レジェンド』では吸血ゾンビが社会的な動物として描写されていたことも思い出そう。

こうした主流派のゾンビはいずれも生に存在の基盤を置いている。機械と人間の間に位置するにしても動物と人間の間に位置するにしても、ともかくその曖昧な領域でどっちつかずのまま生きているのが主流派のゾンビであり、そこにゾンビ映画のドラマは生まれると言っていいほどだが、フルチのゾンビはそういうのではまったくない。その人の回りだけ時間が止まってしまったのでその人も静止している、というありえない状況を仮定するとして、それを観測する人は止まった人を生死の二分法では語れないハズである。時間が再び動き出せばその人はまた普通に動き始めるわけだから死んでいるわけではないし仮死ですらない。しかし生きているかと言われれば生命活動の停止したものを生きているとも言えない。そんな状況に置かれた人間に対しては生を問題にすることさえできないんじゃないだろうか。

『サンゲリア』以降たびたび(※純粋な監督作ではない『サンゲリア2』を除く)フルチの作品世界に現れるゾンビはこんなようなもので、『地獄の門』の幽霊ゾンビや『墓地裏の家』のフロイトシュタイン博士、『ビヨンド』の冥府の死者は生きているわけでもないが死んでいるわけでもない、ただどこか特定の呪われた場所で永遠に静止しているだけなのである。登場人物はその場に足を踏み入れたことで静止ゾンビを動かしてしまうが、それが止まった時間を外から動かすことではなく、自身も時間の止まった場に入り込むことでの見かけの静止の無効化であることは、ゾンビを見ると固まってしまって動けなくなる『サンゲリア』や『地獄の門』のゾンビ被害者の方々や『ビヨンド』の卓抜なラストシーンによく表れているように思う。時間が停止した場の中にいる人間は外から見れば静止していても、本人たちは自分が止まっているとは感じられないのだ。だから、フルチ映画の残酷描写はいかに華麗にして過剰であっても観る者に何の感情を喚起することもないような、被写体への冷めた視線を保っている。生が存在しないところに死は存在しないのだから、そこには肉体の破壊があるだけで、死の恐怖はないのである。

こう考えたときに浮かび上がるのがフルチのポーへの傾倒っぷりで、『恐怖! 黒猫』という直接の原作映画化(シナリオはそうでもない)もあるが、『地獄の門』では『早すぎた埋葬』をパク…オマージュしているし、『黒猫』の壁埋めネタは『ビヨンド』や超能力ジャーロの『ザ・サイキック』でも採用している。なぜポーのネタをそんなに使いたがるのか。『ザ・サイキック』主人公のジェニファー・オニールは予知能力を持っており、その予知夢の中で自分が壁の中に埋められる光景を目にするのだが、予知夢であるから物語は紆余曲折しながらもこの避けられない「埋葬」へと向かうことになる。ある意味、主人公は物語の最初の時点で既に死んでいるわけで、物語は始まった時点でもう終わっている。これは『マッキラー』と並んでフルチのジャーロ代表作である『幻想殺人』でも形を変えて登場するフルチ流の倒叙ミステリー手法で、観客は登場人物が生きるか死ぬかではなく、あらかじめ死や崩壊の決定づけられた、つまりは存在の静止した登場人物がいかにしてそこに至るかを観ることになる。どうもフルチのポー趣味の理由はそこにありそうである。

イタリア成人映画界のスピルバーグこと(誰も言ってない)ジョー・ダマトと組んだにも関わらずなにひとつおもしろくないフルチの遺作『ヘルクラッシュ! 地獄の霊柩車』はフルチ流の倒叙ミステリーとして観るなら確かに映画作家の遺作に相応しい作品と言える。これは超弩級のネタバレですが主人公死んでます。オチを隠す気がなさすぎて観れば誰でも開始3分でわかると思うのでネタバレの意味が無いネタバレですがこの主人公は自分が死んでいることに気付かずに延々退屈な自動車旅を続ける。度々挿入されるカーチェイスっぽい場面は毎度同じような…というか同じで同じフィルムを何回も使い回している。これぞまさに静止の空間! いや、俺はそこそこ本気で言ってるんだよ。

『ヘル・クラッシュ』はアメリカン・ニューシネマの極北『断絶』に似ている。もう終わっているのに、あるいは終わっているからこそ意味も無く無気力にどこか遠くへと車を走らせることしかできない無力な人々。どうせそのどこか遠くにだって何もないことは知ってる。そうしたニューシネマのニヒリズムは『バニシング・ポイント』や(これは邦題だが)『俺たちに明日はない』のタイトルが端的に言い表しており、それは観客がニューシネマに行き詰まりの無力感を、既に終わった人々の終わりへの過程を、そこからそれ以上先に進むことのない止まった時間の中で、走っても走っても静止しているように見える人物を、そのドラマなきドラマを求めたということでもあるだろう。ふつう「ドラマ」というのは時間と共に進行するものだが、ニューシネマには時間がない。だからドラマも生起しない。これは『ヘルクラッシュ』で頂点に達する後期フルチ映画の特徴とおんなじなのではないだろうか。

実際、フルチのマカロニ・ウエスタンはニューシネマの影響が端々から窺えて、とくに負け犬たちのロードムービー『荒野の処刑』はニューシネマ色が色濃い。社会からつまはじきにされた人間たちのあてどない逃避行はそれでもカトリックへのあてこすりも滲む微かな希望を残したものであるが、終わりへの旅という点ではいかにもニューシネマ的で、身も蓋もない現実の受け入れと現実の超克という相反する志向を挫折の出来事によって強引に接合したのがニューシネマという映画運動であるから(と、ひとまず言い切ってしまおう)、フィルモグラフィー上ではリアリズムのタッチでカトリックの欺瞞とジプシーの受難を描いた傑作ジャーロ『マッキラー』とリアリティとかどうでもよくなった傑作『サンゲリア』の間に位置する『荒野の処刑』は、フルチのフィルモグラフィーにおいて初期のドキュメンタリーや風刺劇、艶笑喜劇やジャーロの属するリアルな作品と、後期のホラーを中心にした非リアルな作品の橋渡しのように見ることもできる。とすれば『ヘルクラッシュ』と『断絶』が似ていてもそんなに意外なことではないのだ、実は。フルチの映画にはニューシネマの血がずっと通っていたんである、と例によってひとまず断言してしまおう。

ここで唐突に評判はそんなよろしくないが個人的には気に入っているフルチ映画のコーナー。その1は『マンハッタン・ベイビー』。これは何がよいかというとプロット的には安い『エクソシスト』でしかないので別におもしろくないですが映像的にはフルチとシュルレアリスムがおそらく最も接近した作品であり、ざっくり言えば砂漠に人間が呑まれる映画だが、砂漠はシュルレアリスムの主要なモチーフであると同時に現代思想家のジャン・ボードリヤールがその名もズバリ『アメリカ ―砂漠よ永遠に―』というアメリカ滞在エッセイを書いているように、アメリカの裏代名詞でもある。砂漠の中に蜃気楼のようにラスベガスが建っているアメリカの超現実的現実。

『マンハッタン・ベイビー』は呪われキッズの家の中が砂漠になったりそこに足を踏み入れたオッサンが突如砂漠にワープしたりと珍奇な恐怖(なのか?)描写が連打される映画だが、存在の静止を主題に据えているとしか思えないフルチがその描写の帯びるシュルレアリスム的な異化作用に無自覚であったとは考えにくい。砂漠には入り口もなければ出口もない、方向もなければ高さもないし、そこに人間の時間はない。砂漠は人間の存在を解体するどこでもないいつでもない場所であり、その無時間の空間に人間を閉じ込めるものである。ダリの『記憶の固執』で時計が溶けていたのは不詳の荒野なのだった。

『マンハッタン・ベイビー』がシュルレアリスム映画を目指した説を補強するお気に入りフルチ映画その2は『怒霊界エニグマ』です。というのもこちらは台詞にも出てくるのですがマニエリスムが映像面の主題になっており、恐怖描写もマニエリスムの特徴として数えられる旋回運動を意識した渦巻きカタツムリが人体にビチャーと張り付くとかマニエリスム絵画を眺めているうちに絵が動き出して襲ってくる(これは『マンハッタン・ベイビー』の剥製の鳥が人を襲うシーンに通じる)とかなのだが、これこれの怪異の原因はなんじゃろなと探ると浮上してきたのが事故で昏睡状態に陥ったいじめられ少女の見る夢。夢の中で少女は自分をいじめた奴らに復讐をしていてそれがなぜか現実化してしまったというわけで言わなくてもわかると思いますが『マンハッタン・ベイビー』がパチモノ『エクソシスト』なら『エニグマ』はパチモノ『キャリー』、しかしそんなことは重要ではなく眠りによる無意識への接近と夢の具現化というシュルレアリスムの手法がマニエリスム的混沌(これはフルチ映画全体にも言えることではないだろうか。要掘り下げ)の中で明確に認められる点が『エニグマ』の面白さ。フルチが知っているかどうかは知らないがカタツムリの上で戯れる天使の彫刻をダリも残しているのである。

徹夜して書いているうちに俺の脳内もフルチ的混沌と無時間性で満たされてきたのでとりあえずそれっぽくまとめるとすれば、フルチとは何者か、フルチ映画とは何か、それは…なんか結局わかんなくなっちゃったね。だからまぁあれだよ、それぐらいフルチの作品世界は広く深い。これまで静止を手がかりにフルチ世界を脳内探検してきたがそんなものに作品のすべてが収まるほどフルチは薄っぺらい映画作家ではないことがよくわかった。

忘れられたわけでは決してないが少なくとも日本では正当に評価されたわけでも決してないルチオ・フルチを今、再評価する時が来たんじゃないだろうか。というわけでみんなも大盛フルチまつり観に来てね。みんなが観れば初期作の発掘的今更輸入もあるかもしれないからね! まぁ、ほぼほぼありえないことぐらい俺は大人だから知ってはいるんだが!

【ママー!これ買ってー!】


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フルチを観たことがない人に人生で一本だけフルチ映画を観てもらうなら代表傑作『ビヨンド』以外の選択肢はないが、最初の一本として観てもらうなら『ザ・サイキック』をお勧めしたい。優美な映像、オルゴールのメロディが印象的な音楽、堅実で巧みなストーリーテリング、主演ジェニファー・オニールの物憂げな美貌、そしてラストの「白と黒」の切れ味! 見所の嵐でございます。なんか今観たらAmazonでDVDプレミア価格だったので観るならレンタルで…。

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