人生の取るに足らなさ映画『メグレと若い女の死』感想文

《推定睡眠時間:45分》

どうしよう、犯人わからない。ミステリー映画としてはたいへん肝心なところで寝てしまった。メグレは寡黙である。俺が目覚めたのはラスト直前、メグレが被害者女性の出演している映画を無言で観ている場面。それを見て何を思うのかメグレは語らない。誰かと事件について語り合うこともない。そしてメグレはひとり街に消えていく。探偵小説史上に残る名探偵のはずなのにあまりにも呆気ないというか、爪痕を残さないこの映画のメグレである。

犯人はわからないがおそらくこれはそんなような映画だったんじゃないだろうか。被害者はどこにでもいるようなどうでもいい人であり、事件そのものもどこにでもあるようなどうでもいい殺人に過ぎない。メグレが同僚と緊急司令室の電光地図を眺めるシーンが印象的だ。通報があれば地図のその箇所がピカッと光っては消え、そして次の通報があるとまた光っては消える。それがひっきりなしに繰り返されてあたかも遊園地のような印象を与えるのだが、メグレをそれを見てたしかこんな感じのことを言う。この一つ一つが事件なんだ。また別の箇所ではこんなことも。ある日突然、なんでもないような事件の些末な点が気になるようになる。

巨匠とまでは思わないが名匠ぐらいは言って良いと思われる映画職人パトリス・ルコント75歳の作は上映時間89分。89分で事件の発生から解決までを描くのだからその編集テンポはノワールな重厚ムードに比してあまりにも軽快だ。ただそこで事件が起こってただそれをメグレは仕事として解決する。それだけの話に2時間も3時間も割く理由はない。関係ない話だがそういえば最近ちょっぴりだけ話題になったある探偵映画は3時間近くあって映画開始から40分ぐらい経ってても最初の事件が発生しなかった。

その取るに足らなさを物足りなさと感じる人は映画の長尺化が著しい昨今それなりに多いんじゃないかと思うが、俺はこれでいいんじゃないかと思う。長い映画は不思議な満足感を与えてくれる。どんなに下らない脚本でも2時間以上引き延ばせばなんだかちゃんとした映画に見えてくるし、ちゃんとした話にも見えてくる。でもそれは錯覚なんである。たとえば、主人公が家に帰ってご飯を食べてお風呂に入ってテレビを見て寝る、という一連の日常行為をすべて描けば、それがどれほど平凡でもその主人公は他の登場人物とは区別される特別な人物に見えてくる。

『メグレと若い女の死』はそのようなことはしない。メグレの人となりを仔細に描写することはなく、だからメグレは一応主人公だが単なる警察の人以上には見えることがない。その物語も特別な何かには見えてこない。この映画に出てくるものはすべてありふれたもので、あらゆる虚飾を剥ぎ取られたナマのもの。それは被害者が身の丈に合わないドレスを着た、しがない映画女優だったことと無関係ではないんじゃないだろうか。無名の人間から飛躍して有名な、特別な何かに変身しようとした人の、新聞にも載らないような悲劇でさえない悲劇の悲劇性。単なる警察の人でしかないメグレはだからこそそれを嗅ぎ取る。その悲劇は自分の悲劇なのだ、とでもいうように。

取るに足らない事件を取るに足らない事件として描くことで見えてくるものもある。犯人なんかぶっちゃけどうでもいい。どうせどうでもいい犯人でしかないだろうから。しかし、そのどうでもよさから見えてくるものは決してどうでもよくはないのだ。わかるかなぁこれ。でも、そういうことなんだよ。

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偉い映画賞なども獲っていたかもしれないルコントの代表作も上映時間92分という潔さ。短ければいいというものでもないがこの一貫した短尺志向はやはり立派。

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2 Comments
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さるこ
さるこ
2023年3月24日 8:02 AM

おはようございます。
犯人はですね…フフフ…
フランスの張込み刑事の食すサンドイッチは美味しそう。(「もう飽きた」って言ってたけど)