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これは俺自身もそういうところがあるので苦笑交じりなんですけどあんまり美的センスのない人ほど形式にこだわりがちだよなみたいのがあってたとえば写真を撮る時に左右対称の構図を作ると何を撮ってもなんとなくキレイに撮れているような気がしてくる。でもそれってよく考えたらすごく安直ですよね。小説だったら叙述トリックとか円環構造とか。もちろんこれにしたって巧い人がやるととても効果的なのは間違いないのだが、俺のような下手な人がやると形式ばかりが目立ってしまって肝心のお話の内容で読んでいる人を惹きつけることができない。というよりも、本当は自分に才能がないことをわかっていて、ストレートにお話を語るだけでは見向きもされないと気付いているからこそ、形式で奇を衒って誤魔化そうとしてしまうのかもしれません。これは芸術分野なら音楽だろうが絵画だろうが何だって同じなんじゃないすかね。
そんな前置きから話を始めるということはまぁつまりは『8番出口』もそんな映画だった気がしたのでした。関係の終わりかけた恋人の妊娠という心理的負担を抱えながら一人の若い男(二宮和也)が地下鉄の出口に向かっていたらいつの間にか行けども行けども先に進まない無限ループの通路に入り込んでしまった。いったいここは何なのか? よくわからないがとにかく間違いがないらしいのは壁に貼られたこの無限通路のルール。異変を見逃さないこと。異変を見つけたら引き返すこと。異変がなければ進むこと。どうやらそれを守っていればいつかは外に出られるらしいってんで若い男はひとり通路の間違い探しに勤しむのだが、というこの映画はとにかく形式主義的であるところが最大の特徴じゃなかろうか。
おそらく全体の半分以上は疑似ワンカットの超長回し、カメラがずっと主人公(たち)の背中を追いかけるのでカット割りができず、人気短編ゲームの映画化だしゲーム的な雰囲気が出ていて面白くもあるのだが、そのために映像的な面白味をある程度犠牲にしてしまっているところはある。更に円環構造である。主人公は無限通路をあたかも8の字を描くように延々歩き続けるわけだが、その終着点は物語のスタート地点ということでシナリオがシンメトリーになっているわけだ。エンドロールはラヴェルのボレロに合わせて文字が一定間隔で出現する、フォントや表示位置まで細かくデザインされたもので、日本映画でこういう拘ったエンドロールというのは珍しい。
まそんな具合でこの映画、たとえば即興性や意外性といった形式破壊的なもの、生っぽいものとは無縁、最初から最後まで機械的に隅々までコントロールされた映画といえるかもしれない。そのへんは完璧主義者キューブリックの『シャイニング』に出てくる血の洪水のオマージュと考えられるシーンが含まれていることからも窺えるし、テーマ曲が意図はわかるがこんな不条理ホラーにはいささか不釣り合いに思えるボレロという点からも窺える。とにかく形式が大事。そこから逸脱することは許されない。そのために全体のトーンやテンポが一定で、和を乱すような浮いた演出はネズミパニックのシーンを除いて避けられているために、ホラーとしてはちょっと大人しめな感じである。まぁ上品なホラーとも言えるかもしれません。
これは原作ゲームもそうだろうと思うがネタ元はゲームの『サイレントヒル』シリーズと映画の『CUBE』でしょうね。地下鉄を歩いてる内に異常空間に紛れ込んでしまったという不条理性が『サイレントヒル』(と外伝的プレイアブルティーザーの『P.T.』)、同じ空間を何周もしながらいろんな仕掛けを食らうゲーム性や謎解き性は『CUBE』である。そういえば日本版『CUBE』なんていう関係者誰もが忘れたいと思っているであろうと想像してしまう黒歴史もありましたが、この『8番出口』は日本版『CUBE』よりも『CUBE』っぽかったので、日本版『CUBE』をなかったことにしたい人たちは関係ないところで記憶が上塗りされてホッとしてるかもしれません。じゃあ俺だけはいつまでも蒸し返していくか!
原作ゲームの雰囲気を忠実に再現しながら映画的なアダプテーションを施しているのでなかなかよくできた映画だとは思うが、しかしまぁこういうのを観るとやはり思うのは『CUBE』の面白さ。『CUBE』と『8番出口』を分かつ決定的な点は『CUBE』が形式よりも内容の充実を目指した映画であるのに対して、『8番出口』は内容を多少薄めても形式を維持することを選んだ、という点であるように思われる。『CUBE』はいつ観ても何度観ても面白いのだが、それはひとえに特殊な設定に甘えておらず、人間関係のサスペンスや徐々に謎が明らかになっていくミステリー、あるいは緊張感を醸成するカメラワークや編集といった、言わば娯楽映画として普通のことをしっかりとやっているからじゃないだろうか。『CUBE』はなによりもその普通のことのレベルがとても高い映画なんである。
映画に倣って冒頭の話に戻れば、たぶん『8番出口』の川村元気監督は普通のことを普通に面白くやる自信がなかったんじゃないすかね。普通のことを普通にやると埋没してしまうという恐れはプロデューサー出身の監督ゆえの感覚かもしれないが、普通のことを面白くやれないから形式の徹底で誤魔化す(かのような)姿勢というのは映画監督としてちょっとダサいんではないかねぇ。それに、形式を重視するあまり、これは詳細は省きますが、設定と物語が多少の齟齬を来してしまった。原作ゲームの『8番出口』というのは異変と対峙せず逃げることを推奨するゲームと言えるが、この映画版の物語は最終的に「異変を察知したら立ち向かえ」というメッセージを発する。と思いきや、別の箇所では「異変を察知したらすぐに逃げることの大切さ」をやや曖昧な形で提示してもいるわけで、おそらくこれは主人公の過去・未来・現在を混淆させているために生じている矛盾なのだが、そのSF的な背景ストーリーは上手く語り切れていない。
とかまぁそんなことをくどくどを言い募るような映画でもないのか。なんせ『8番出口』だしな。映画化の報を聞いた時にはジョークかと思ってしまったので、あの内容が90分の長編映画としてしっかり見られる形に仕上がっているというだけで充分な気もするよ。まぁ見るゲームっていうかゲームのプレイ動画でも見る感じで、主人公と一緒に異変探しを楽しめば吉。空虚は空虚だしさすがに同じ風景を何十分も見てると飽きてくるが、それなりに楽しい映画ではあったと思います。似たジャンルの映画でいうと、『きさらぎ駅』よりは真面目な内容でお金もしっかりかけて作っているが、そのぶん『きさらぎ駅』ほどの瞬間最大風速は出てないみたいな、そういう感じじゃないすかねぇ。