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最近は渋谷でホームレスを見かけることが少なくなったがその理由はホームレスが多く居住していた宮下公園を中心とする再開発で、宮下公園のすぐ近くにあった美竹公園もあたかもホームレス排除が目的ででもあるかのように取り壊されてしまったのだが、ダイバーシティだなんだと耳当たりの良いリベラルイメージを打ち出す一方でホームレス排除に余念がない渋谷区の姿勢に反感を覚えていた俺は美竹公園が取り壊される前にその惨状を記録しておこうとある日写真を撮りに行ったのであった。そうして肖像権侵害などは本意ではないので人は映らないように壁に貼られた美竹公園取り壊し反対ビラみたいなのにスマホのカメラを向けていると、そこに現役で住んでいるらしいホームレスの人から「撮らないでください」と警告がある。あ、いや、これはその、と言い訳する前にホームレスの人は家の中に入ってしまったのだが、代わりに美竹公園でホームレス支援を行っているボランティアの人がやってきて、曰く、美竹公園取り壊しが話題になってからというもの、YouTuberだのなんだのが興味本位で美竹公園を撮影しに来るようになって、そこに住んでいるホームレスの人たちは迷惑していたのだという。
こちらとしては悪意などなくどちらかと言えば「こんなヒドい状況ですよ」みたいな善意寄りで写真を撮っていたものだからちょっと驚きつつ、でもそれはまぁそうか、自分の住んでるところが勝手に写真に撮られたらムカつくし気持ち悪いか、と反省。こんなことを思い出したのは『オールド・オーク』の冒頭、どうやら住民との合意なく一方的な行政判断で舞台となる村に居住することとなったシリア難民を乗せたバスの中から、英語に堪能でカメラが趣味の若い難民の女の人がバスの外で俺たちに説明なしかと抗議する村人たちをカシャカシャと写真に撮り、それがきっかけで「お前なに勝手に写真撮ってるんだ!」と村人たちと揉め事になるからであった。
この写真は後に出てくる炭鉱夫のストライキを撮った輝かしい村の過去の写真と対比され、あの頃に比べて現在はこんなに経済的にも精神的にも文化的にも貧しくなってしまった……と察しの良い観客には印象付けるわけだが、それはそれとして、ここでの難民に対する村人の対立感情は、村人の不寛容にも原因はあるが、明らかに村人よりも知的に洗練された難民の女の人が「撮っていいですか?」の一言もなく勝手に村人を撮ったことがそれに拍車をかけており、そこで勝手に撮って悪かったが記念に撮っておきたかったんだ、良かったら自分と一緒に写真を撮ってくれないか、いやていうかお互いに撮り合おうじゃないですか、とかなんとか難民側と村人側でコミュニケーションができていればおそらく摩擦が生じることはなかったと思うのだが、そのようなコミュニケーションが行われなかったことで、難民たちは村人になんか悪いことされるんじゃないかと怯えることになり、村人は親難民と反難民に二分され、幸いにも破局的な事態には至らないとはいえ、理想的とも言えない状況になるのであった。
このカメラのエピソードには続きがある。カメラの件で難民の女の人と地元の粗野な男が揉めた結果、カメラは事故的に壊れてしまい、この女の人は大事なカメラだからと粗野な男に弁償を要求する。ところがその場に居合わせた親難民派で地元パブオーナーの主人公は意外にも粗野な男を逃がし弁償を諦めるよう難民の女の人に言い渡すのである。なぜか。それは粗野な男が稼いだ金は全部酒に溶かしてしまうお先真っ暗な貧乏人だと主人公が知っているからで、こいつには弁償するだけの経済力がないからなのであった。俺たちは金も学も将来もなく酒に逃避するだけのダメ人間で社会からなんの手助けもないのに何故シリア難民は特別扱いで家まで与えてもらえるのか? 思うに、最初にこの男が写真を撮られて突っかかったのも、そんな被害者意識があったからなのではないだろうか。
左翼を自認し社会の底辺で生きる貧乏人の苦しい生活をいくつも取り上げてきた監督ケン・ローチ&脚本ポール・ラヴァーティのコンビ作だけあって人が反難民ないし反移民の感情を持つに至る道筋の解像度は高く、その分析はマイケル・サンデルが『公共哲学』や『平等について、いま話したいこと』で書いた「なぜアメリカで反知性主義的右翼が伸長するのか?」ということとも、あるいは安田浩一が『ネットと愛国』で取り上げた「なぜ在特会はある種の人たちを惹きつけたのか?」ということとも通じる。要するにそれは社会の中に居場所を持てなかったり、貧困なのに公助からも共助から外れてしまったり、国家や大企業によって様々な新しいルールや状況を一方的に押しつけられる事に対するカウンターとしての意味合いを持っているのであって、誰からも救われなかった人たちのあまり利口とは言えない自衛行為とも言える。劇中のある人物の言葉はそうした心情や状況をよく説明するものであった。「難民を受け入れるんならなぜ都会に住ませない? 奴らは自分が難民と一緒に住むのが嫌だからさ。嫌なものはなんでもこの村に押しつける」。
都会人の方が難民許容度は高そうな気はするとはいえ、ここには一抹の真実がある。それは都会のリベラル的理想は大なり小なり田舎がヨゴレ役を引き受けることで成立している、ということである。人間の自由を拡大する大電力が必要とされるのは都会だが、その都会に電力を供給するための原発は田舎にしか建てられることはなく、決して東京などには置かれないし、原発を動かすことで生じる核廃棄物は大電力消費地が都会である以上は都会に埋めるべきなのに、現実には六ヶ所村のような田舎に押しつけられる。人口比からいって国政においては東京や大阪といった大都市圏の思想や主張が各自治体よりも大きな大きな影響力を持つために、個々の地域がそれぞれ抱える問題の解決は都会の利益が優先されることで後回しになるか悪ければバッティングして潰れてしまう。都会はリベラル的な理想を叶えるには良い場所で、田舎よりも明らかに人々は平等であるが、そうした平等を支える田舎の犠牲を、往々にして都会の人々は意識しないばかりか、田舎は不平等で保守的でうんざりするところ、という風に悪魔化することさえ珍しいものではないように思える。
村人と難民の軋轢(というよりも村人の方からの一方的な敵意)に集約され爆発するこうした諸問題は一言で言うならコミュニケーションの不足ということかもしれない。それは国家と国民のコミュニケーションの不足であり、都会と地方のコミュニケーションの不足であり、国民と国民のコミュニケーションの不足(SNSによって地域社会が分断される様相は『エディントンへようこそ』を思わせた)であり、そして住民と難民のコミュニケーションの不足であるが、個人間の競争を称揚する資本主義と個人の自由を最優先とするリベラリズムという都会の主流思想はいずれも社会よりも個人を重視するために他者とのコミュニケーションを軽視してしまうことを、コミュニケーションや公共性を重視する左翼=社会主義者の立場から、ケン・ローチ&ポール・ラヴァーティは批判しているように見えるし、それを象徴する台詞が主人公の「慈善じゃない、連帯だ」なのではないだろうか。
しかし、ここまで現状の問題点を析出していながら、なぜか映画はその問題点の解決策を提示できず、というか、こんなんどうですかと提示しながらも自らそれを放棄するかのようにまったく唐突な悲劇によって悲観的に終わってしまう。そのために生気を欠いて形式的な印象を受けるのだが、それは悲劇のための悲劇というような展開のためばかりでなく、生活者のリアルがこれまでのケン・ローチ映画に比べてあまり見えないためでもあるように思う。俺はケン・ローチの映画はさほど本数を観ていないのだが、たとえば『夜空に星のあるように』と比べると、そちらにはあったドキュメンタリーと見紛う鬼気迫るリアリズムで描かれた庶民の生活描写は『オールド・オーク』にはあまり無くて、難民に至ってはその具体的な生活がまったくわからない。
悲観的なエンディングはそれはそれでケン・ローチっぽいとはいえ、資本主義やリベラリズムに由来する構造的な問題は解決することが容易ではないとしても、地域レベルの村人と難民の軋轢ぐらいは解決することが不可能ではないと思えるし、人間の恐怖心や敵対心は多くの場合相手の正体がよく分からないことに由来するのだから、問題解決の一つの手は難民の新天地での生活を具体的に見せて、つまりコミュニケーションの回路を復活させて、お祭りなりなんなりの共同事業を村人も難民も一緒に行うことで難民を「敵じゃないよ」と村人に理解してもらうことだと思うのだが、どうしたことかこの映画はその発想にすごく至りそうで至らなかったらしい。
ケン・ローチはこの映画が自分の遺作と語っているとかなんとか。映画監督の引退宣言は撤回されるのが基本なので信じないでいいと思うが、遺作がこれならちょっとガッカリさせられるというか、あのラストもなんだか気力とやる気を失っての投げやりなものと見えてしまう。そりゃまぁ西側社会が右翼とリベラルに二極化されてコミュニケーションと公共性を志向する左翼=社会主義者の居場所がどんどん無くなっていく中では左翼の監督が希望を見出せないのもわかるのだが、だからといってこんな気の抜けたビールみたいな映画を作らないでもと思ったりしなくもない。難民は、左翼が自分の絶望を表現するための道具ではないだろう。
※昨今ではあまり考えなく優しいものは全部リベラルみたいな感じでこの言葉が使われているフシがあるが、リベラル(自由主義)といってもウイングは広く、広義のリベラルでは新自由主義のように右翼的な思想と結びつくものもあれば社会主義と結びつくものもある。社会や他者よりも自分個人の自由を優先するという考えを基本として、そこからどのように個人の自由を実現するかという方法論の違いで、さまざまに枝分かれしているようだ。リベラル思想についてはマイケル・フリーデンの『リベラリズムとは何か』という本が参考になるのでよろしければどーぞ(なおフリーデンは新自由主義をリベラリズムに含めていないが、個人の自由の尊重をリベラリズムの本義と見れば、いかによからぬものであろうと新自由主義をリベラリズムから除外するのは恣意的な操作だろう)