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戦災孤児テーマの映画なのだが戦災孤児といえばほんの数ヶ月前に清水宏の『大仏さまと子供たち』という映画を観たのであった。これが実に傑作で、なにしろ清水宏は実際の戦争孤児を使って『蜂の巣の子供たち』やこの映画を撮っているのであるし、1952年という敗戦7年後の映画なのだから戦災孤児のリアリティがハンパではない、とかはもちろんあるのだが、感動的なのはその物語に大袈裟なところがなく、ただ戦災孤児の生活を撮っているだけの、結構のほほんと笑える作りになっていることだった。主人公は奈良で野良観光ガイドをやって日銭を稼いでいる戦災孤児である。寝床とくればそこらの木の下。親も金も将来も何もないのだが、それを殊更悲惨には見せようとしていない。
単なるそこらへんの日常として戦災孤児を撮るというその題材や被写体との距離感は、おそらく日本国民全体の生活水準が少なくとも敗戦直後とは比べものにならないほど向上した現代では不可能なものだろう。敗戦国はすべてそうだが敗戦直後の日本は貧しかった。戦災孤児はその貧しさの中でも最底辺かもしれないが、だからといって大人にはお金があったというわけではない。その貧しさの共通意識は誰もが貧しいのだから戦災孤児などに構っていられないという『自転車泥棒』などのネオレアリズモ映画に見られるような酷薄さを生む一方で、誰もが貧しいのだから戦災孤児とて自分たちの仲間であるという同胞意識も育んだのではないだろうか。
清水宏が戦災孤児を拾って育てていたように『大仏さまと子供たち』にも売れない画家が主人公を引き取る展開がある。これはぜひ『大仏さまと子供たち』を観ていただきたいのだが驚くべきはその決断の重さではなく軽さなのであった。素性の知れないそこらへんの戦災孤児を引き取って育てるなどというのは現代のドラマや映画であればさぁみなさんハンカチをご用意くださいの爆涙クライマックスとなるに違いない。それは現代に暮らす人々が「見ず知らずの汚く可愛げのないガキを拾って育てる」なんていうことはしないからである。自分たちが決してできない、しようとしないことだからこそ、その行為はドラマや映画の中で劇的な色彩を帯びるのだ。けれども全国民レベルで貧しさの感覚が共有されていた敗戦後という時空間にあっては、少なくとも現代よりは、「見ず知らずの汚く可愛げのないガキを拾って育てる」ことが劇的には映らなかったんである。
もはや『わたしの知らない子どもたち』ではなく『大仏さまと子供たち』の感想なのだが、まぁなんというか、これはだいたいそんな感じの映画で、強く感じたのは豊かな現代人が敗戦直後を描くことは、少なくともリアルに描くという意味ではほとんど不可能なんだろうということだった。なにしろ戦災孤児を演じる子供たちの血色が良すぎる。敗戦直後ともなれば食うや食わずやの生活が当然であり、前に最初期の日本のテレビ放送のアーカイブ映像を見たら、最初期ということは1953年ぐらいだと思うのだが、レポーターが選挙に際しての街頭取材をしていて、「今の政治に望むことはなんですか」と聞けば街の人が「やはり食糧問題ですね」なんて言うのであった。1953年にもなってまだ食糧問題が喫緊の課題と市民に感じられていたわけで、そうとなれば敗戦直後の食糧事情など推して知るべしである。
けれども、その貧しさが『わたしの知らない子どもたち』の画面からはまるで感じられないのだ。戦災孤児たちの血色が良すぎる、だけではない。大人もまた血色が良く恰幅も良く、多数のエキストラを動員した敗戦直後の上野駅のシーンなどここは帝都か(ある意味そうだが)と一瞬思ってしまうほど「ゴージャス」なのである。これはある程度どうしようもないことではあるのかもしれない。戦災孤児を演じるんだからメシ食わないで体重20キロ減らせとは要求できないし、それなら最初から栄養失調気味のガリガリで頭だけが妙にでかい子供を使おうといっても、そんな子供を現代日本で探すのは困難だろう。それは大人にしても同じことで、敗戦直後の貧しさを肌で感じさせる大人の役者がはたして現代日本に何人いるだろうか、という話なのである。
たとえば『ゴジラ -0.1』みたいにもっと敗戦後日本のリアリティが薄い映画もあるのだし、貧困生活の作り出す体格とか肌質(深瀬昌久という写真家が60年代ぐらいに撮った生々しいポートレート写真を前に見たのだが、明らかにそこに写る昭和の貧しい人々と現代日本の一般的な人々では身体のつくりが違うのである)とかいう再現の難しいことを問題にしてもしょうがないといえばそうなのだが、主人公の12歳ぐらいの少女が売春で日銭を稼ぐ路上仲間を目にして「こうはなりたくない!」と髪を切り男児と偽り路上生活を送るというプロットからすれば、リアルな敗戦後日本とそこで暮らした人々に肉薄することにはあまり関心のない人たちが作った映画と判断せざるを得ないわけで、そういうコンセプチュアルな戦後映画というものには個人的にはあまり興味を惹かれない。
ジェンダー規範が今よりも遙かに強いだけでなくプライバシーという概念もなかった敗戦後日本で12歳ぐらいの少女が男児を偽装して路上生活を続ける物語をどう信じることができるだろうか。しかも主人公とその路上仲間たちは一度は戦災孤児男子の更生施設に入れられるのである。路上だけなら一言も喋らず仲間に手も触れさせない(触れたら石で殴るとか)などなどの方法でどうにか男児を偽装し続けられるかもしれないとしても、男児オンリーの施設に男児として入れられて、そこでは当然プライバシーなどないので芋洗いで体を洗ったり着替えをさせられたりすると思うのだが(そうしたシーンは描かれない)、にもかかわらず他の子供たちや教官たちの誰にもその性別がバレないというのは、いささか荒唐無稽に思える。
もちろんどんな荒唐無稽もファンタジーないし寓話として描くのであれば立派に優れた物語になり得るでしょうが、この映画の場合はリアルな物語が標榜されているわけで、わずかにブラックユーモアを漂わせるシーンもないわけではないとしても、基本的にはシリアスな人間ドラマである。シリアスな人間ドラマなのにその土台になるリアリティの醸成が出来ていない。更に言うなら戦後暴力団と在日朝鮮人愚連隊の対立(山口組三代目を題材にした『三代目襲名』で描かれたやつ)と両派の板挟みになる朝鮮人戦災孤児が添え物程度に出てくるのだが、それはたぶん添え物として雑に描ける題材ではないだろう。おそらく敗戦後の日本の抱える社会問題をパノラマ的に捉えたいというシナリオ意図があったのだろうとは想像できるが、リアリティの不足のためにそのコンセプトに血肉が通らず、こうなるとなんだかはいはい大卒の立派な人が頭の中だけで構想した映画なんでしょーねとかなんとか嫌味を言いたい気分にもなってしまうってなもんである。
面白いか面白くないかで言えば面白い映画ではあるんじゃないだろうか。なんかいろんな展開があって大河ドラマ的で。しかし同時に、現代日本で敗戦後の日本という時空間を想像することの困難をまざまざと見せつけられる映画でもあるのであった。