《推定睡眠時間:40分》
主人公の石油企業オーナー(だからタイトルは石油掘削人=ディガーなのだ)を演じるのはトム・クルーズなのでたぶん10月6日とかなのだろうが「トムの日」に舞台挨拶付きのプレミア上映が行われたそうで、『トップガン マーヴェリック』みたいなブロックバスターならともかくこれそんなプレミア上映するような映画なのか……? とか監督アレハンドロ・G・イニャリトゥの風刺喜劇という触れ込みを見て思ったのだが、映画の内容に関係なくトム・クルーズが主演というだけでプレミアが組まれるのだとすればこれは驚くべきことである。トム・クルーズの主演作を観るたびにこのブログに書いている気がするがいやまじでトム・クルーズの魅力はどこなのよ。さしてハンサムでもなくさして演技が上手いわけでもなくさして個性が強いわけでもなく、どうしてこの人がここまで日本で人気があるのか最初からずっとわからない。
この『ディガー』での演技も取り立てて優れたものとはまるで思えず、あのハンサムスタア(私はそうは思っておりませんが)のトムが汚いデブの中年オヤジを演じるというギャップの面白味を狙ったのだとしても、カメオ出演とはいえ既に『トロピック・サンダー』で同じネタをやってるのだから、それはなんか面白いんですか? と真顔で言いたくなる。人は良さそうなのでそのへんが人気の秘訣の可能性はあるだろうが、人が良いから人気があるというのもわかるようでなんだかよくわからない話である。だってそんなことを言ったら会社の同僚の何さんとか近所に住んでる何さんとかみなさんの近くにもおそらく1人ぐらいはいるであろうめっちゃイイ人たちがスタアとして脚光を浴びないのはおかしいではないか……そんなことはどうでもよし!
『ディガー』である。いやー始まって20分ぐらい果たしてどうなるものかと思ったよな。ほぼ面白くねぇ。そのシークエンスは石油キングのトムが宗教画みたいな風景の見える豪華な邸宅でひたすら色んな人と長話をするだけなのだ。全体的な印象で言うとウェス・アンダーソンの美術スタイルで撮られたロバート・アルトマン的喜劇、たとえば『突撃!O・Cとスティッグス/お笑い黙示録』とか『今宵、フィッツジェラルド劇場で』とか、なんかまぁ俺の感覚ではそんな感じなのだが、ウェス・アンダーソンなら撮影や編集が面白いとかアルトマンなら即興演出や全体の構成が面白いとか(あと音も面白いですよねアルトマンは)そういうところで長話も面白く見せてくれるのに、『ディガー』の場合は本当に何の芸もなくたっだ長話をしてるだけ、それも気の利いた面白い長話ならいいのだがこれが基本的にはずっと状況説明なんである。
石油キングの乱掘削が一助となって地球環境ピンチ、それなりに責任を感じた石油キングは合衆国大統領などに根回しして地球を救おうとする……というストーリーが面白いか面白くないかはひとまず置いておくとして、そのストーリーをアクションとか映像ではなく長い長い説明台詞の応酬で観客に見せるというのは何それ何なの? これが最初の20分ぐらいで、ここが面白くないので俺は寝てしまったが、起きて観ていた立派な人ならその後の展開に少しだけご褒美感があったかもしれない。実はみなさんがご覧になっていたこのつまらない長話は舞台のリハーサル、登場人物とかガジェットの描写からすると時は近未来で、実際にあった(という設定の)出来事を脚色した舞台らしい。ということでそこからは劇中劇とその舞台裏を交互に見せていくバックステージもの、なるほどイニャリトゥといえば全編ほぼ疑似1カットの実験的なバックステージもの映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の人だから、今回はそのSFバージョンといった感じ。
ただしバックステージものによくある「このシーンの裏で実は……」みたいな面白味は一切ないと言っても過言ではない。リハーサル中に主人公の耳に飛び込んできたのは娘の危機、ということで『ラヂオの時間』みたいなよくあるバックステージものならこの危機が舞台と絡んでくるところだと思われるが、とくにそういう劇的な展開にはならず、主人公が懊悩するようなこともなく、二つのドラマが交錯することで生じるドラマティックな盛り上がりは皆無であった。こちらとしてはせいぜい舞台役者さんも大変なんだなぁとかぼんやり感じるくらいのことで、『バードマン』もなんかそんな感じだったからイニャリトゥにとってのバックステージものというのはこういうものなのかもしれない。この人はなぜかわざわざ面白くないシナリオを書きたがるんである。
構成は単調だし社会風刺も凡庸、『バードマン』ではジャズドラムと超長回しの撮影という技巧の面白さがあったが『ディガー』の方にはそれに類するものはなく、こう書くとなんだか良いところが一個もない映画のようである。でもわりあい面白かった。面白かったっていうか好きだった。一つには明らかに失敗作だから。単なる失敗作ならそうハートをキャッチするところもないかもしれないが、『ディガー』の場合はラストを除いて全編劇場の中で、それもほとんどは舞台の上に設えられたセットの中だけで展開されるSF映画という野心作なわけで、実験的なSF映画というと最近ではコッポラの『メガロポリス』が挙げられるだろうが、こういう斬新なことをやろうとして全然面白くなくなってしまったSF映画の失敗作というのは、何かわからないが謎の引力のようなものがある。
それにこれは舞台賛歌、娯楽賛歌なのだ。上演される舞台の演出方針を巡って主人公と演出家が対立している時に、ある登場人物は「そんなことはどうでもいい」と言い放つ。なぜならこの人物にとって重要なのは舞台を上演してたくさんのお客さんにわいわいと楽しんでもらうことだからで、この舞台はどのような舞台であるべきかという作品論などどうでもいいことなんである。その意味でこれはSF版の『バロン』と言えないこともない。『バロン』もまたおとぎ話の劇から始まるが、その劇が上演されているのはトルコ軍が絶賛攻撃中の戦火の町、おとぎ話なんかやってる場合じゃないだろうという状況なのだが、逆にそんな状況だからこそおとぎ話が必要なのだというのが監督テリー・ギリアムの強いメッセージであった。
危機の時代だからこそみんなでわいわい楽しめる娯楽が必要なのだ。いくら世の中が不幸ばかりに見えるからといって、しかつめらしい顔ばかりしていたらヘトヘトになってしまうではないか。娯楽には悲惨な状況を変革するほどの力はないし、ましてや気候変動などという自然の運動に対しては完全無力である。それでも娯楽をみんなで楽しんでいる間、人は少しだけ現実の不幸を忘れることができるし、それに失われた人と人の幸福な関係を少しだけでも取り戻すことができるかもしれない。俺にとって『ディガー』はそんな映画であった。そうした思想が表現されている(はず)のにみんなでわいわいできるほど娯楽として面白くないというあたり実にこれは失敗作なのだが、ま、こういう映画はみんなで「つまんねー!」とか野次を飛ばしながらワイワイガヤガヤと観たらいいんじゃないでしょーか。そんな形でもお客さんが盛り上がってくれるのなら、作り手としては本望だろう。
※ずっと劇場の中で展開されるのでついに外の世界に出るラストシーンの悲惨と開放感の入り混じる独特の味わいはなかなか忘れがたい。