2017年を解毒する『ありがとう、トニ・エルドマン』(感想)

《推定睡眠時間:30分》

だいたいお前『殺人の追憶』のポン・ジュノがそんな単純なカタルシスくれるわけねぇじゃねぇかよというのも分かるがそれとは別に断じて別に鑑賞後にモヤモヤが立ちこめ今日まで滞留していた『オクジャ』だったのですがそのモヤモヤ、『ありがとうトニ・エルドマン』が一掃。
なにがモヤモヤか。言葉だよね言葉。『オクジャ』も『トニ・エルドマン』もグローバル世界の多言語状況というものが出てきてそれで…端的に言えば『オクジャ』は英語の力に屈するけれどもそれを認めきれない、だから見てる方も笑えない。『トニ・エルドマン』は英語に屈する自分たちをしぶしぶ認めてその姿を笑う、だから見てる方も笑える。

なにか端折りすぎている気がするが…わかるでしょなんとなく? 韓国時代のポン・ジュノの映画、もっと笑える感じだったじゃん。いや『母なる証明』みたいなハードコアもあるんだけど。
笑える感じだったのに、それで風刺コメディ仕立てだったのに、でも『オクジャ』全然笑えない。つまりそれがモヤモヤとわだかまっていた部分なわけで、なぜ笑えないのかっていうその原因が『トニ・エルドマン』の多言語状況を見てたらパッと氷解したのです。

ああスッキリした。ありがとう、トニ・エルドマン。まあ読んでる人は全然スッキリしてないと思いますが(しかし基本は独言ブログであるからこのトーンのままでいく)

ところで支配言語と周縁言語の権力関係あるいは言語的侵略の諸相はポン・ジュノと同じような時期にアメリカ資本で映画を撮る機会を得た盟友パク・チャヌクの今年の映画『お嬢さん』の主題とするところであったから縁というか因果というか仲いいなお前らっていう感じになる。
チャヌクの場合はもう少しクールというか言語とか権力を構造的に捉えるので抽象に向かう、なので言語の枠組みを超えて変態行為(※翻案翻訳)を繰り返しながらゆらゆらと世界を渡っていけるが、ジュノはたぶんそうではない。
この人の映画の推進力は基本的には情況にあるんじゃないか。『オクジャ』の場合は介入できるまたは介入すべき具体的な情況というかその場が見つけられなかったような印象を受けたし、目の前の世界に対する抽象的な問題意識に映像的な血肉を与えられないことの切実な空回りつーのもまた感じたのだ俺は。

…それのどこが『トニ・エルドマン』と関係するのか。すいませんまったく関係しません。だが建前のない真実で満たされた美しい正しい世界の幻想の蔓延には徹底抗戦したいのでそれぞれ別の立ち位置から描かれていた『オクジャ』と『お嬢さん』の多言語状況、それに越境、『オクジャ』は闘争のために『お嬢さん』は逃走のために越境するが、こういったものが上手い具合に重なっているつーのが『トニ・エルドマン』なのであると本当はそんなこと思っていないし今思いついたがそれでも建前的に言わなければいけないのである。
それなりに金と社会的地位のあるええ歳こいたおっさんがXVIDEOSを見ていることを暴露される社会的死刑宣告に対し堂々と仕事の資料であるのクソ建前を張って世間の失笑を買った猪瀬直樹を俺は全力で支持したい。そこで世間に媚びを売って実は庶民派なんですとポピュリスト丸出しの偽善に満ち満ちたキャラを売り出したりする方が卑劣な行為だろうこういう場合は! エロビデオは隠れて見るからエロビデオなんだよ!
『トニ・エルドマン』の感想書きます。

『ありがとう、トニ・エルドマン』。ドイツ映画。どういうお話かというとやたら変装して謎のキャラ(トニ・エルドマン)を演じたがるオッサンがいる。本人はそれが面白いと思っているが全然面白くない。つまり面倒くさい人である。
この面倒くさい人が愛犬の死をきっかけにフラッと娘のとこに転がり込んでくる。娘はコンサル企業で働くバリバリの仕事人間で今はブカレスト支店勤務。どういうことになるかというと寝ても覚めても仕事仕事で忙しい娘の傍らで猫サングラスを着けて変装したオッサンがニャーオニャーオ鳴いている(面白いと思っている)、手錠を手に逮捕しちゃうぞぉとか迫ってくる(面白いと思っている)、更にはトニ・エルドマンに変装して女子会の席に乱入してくる仕事場で上司と話しているところで視界に無理矢理入ってくる、どこに行ってもトニ・エルドマンがついてくる。娘の額に殺の字が浮かび上がる。

そういう話で約3時間です。長くない!?

娘が熱を上げてるお仕事というのは営業で俺は会社勤めの経験がないからもうまったくこういう会社事情というのはわからないがとにかくコンサル会社であるから(いやコンサル会社が何をする会社かもよくわかってないが…)なにかこうこうやったら貴社もっと合理化できますもっと儲かりますとか甘言垂れる。
詳しいことはわからないがオートメーションとかアウトソーシングとか促しているようである。おおグローバルっぽい。この映画は町山智宏がラジオで紹介していたが、そこで町山さんが着目していたのはこの点だったな。大企業の利潤の追求が地元経済やコミュニティの解体をもたらす、グローバリゼーションによるローカル秩序の侵略。
そしてローカル言語とグローバル志向の侵略言語の関係性という形でこれを表象したのが『オクジャ』と『お嬢さん』だったのだ(繋がった!)

『トニ・エルドマン』の中でその構図が鮮明になるのは石油採掘場の場面だったがここでトニ・エルドマンがなにをするかというと言葉の通じない現地の人と路線バスの旅の蛭子さんレベルの微妙な交流をして一言、「ユーモアを忘れないでね」。言葉は通じないので石油会社の人に翻訳してもらう皮肉。
帰りの車で娘めっちゃ怒るのである。搾取する側の人間がよくもそんなこと言えたもんだなというわけ。確かにそのとおりなのでトニ・エルドマンは明確に反論できない。この不明確と優柔不断がしかし『トニ・エルドマン』をもう終わってるが2017年上半期の締めくくりに相応しいデトックスムービーにしているように思われる。

本当にね本当に、みんな首尾一貫性を求めすぎなんじゃないですか。たとえばタラップおじさんこと木島さんの件とかですね、聖人か悪魔か、みたいな。つまり集団極性化。全面否定か全面肯定かっていうケース多すぎませんか、なんだか。
クリント・イーストウッドのPC嫌いに対する反応とか、ジャンプのエロ漫画の是非とか、政治スキャンダルの完全なる真実か完全なる虚偽かの二者択一の不毛とか…。
別にイーストウッドが差別主義者でかつ名監督であったとしても一向に構わないと思いますがしかし、世界がそのようにアバウトであることが我慢ならない人というのはいる。かなりめちゃくちゃいる。

ほんでエルドマンの娘というのもたぶんそういう一人なのである。自分はグローバリズムの権化のような仕事をしているから、そのような人間であらねばならぬと思っているのですよこの人は。
大事なのは首尾一貫性で。それが堅牢で効率的なシステムの条件てわけで。あるいは、私にあってはよりよく確実に生きるための条件てわけで。無駄を回収して矛盾を禁止して偶然を排除する、1か0かの内的グローバル革命を目論んでるわけですよこの人は。
それでそこにズケズケと入り込んで明証性の世界を何食わぬ顔で破壊していくのが神出鬼没のトニ・エルドマンてわけでだからもう娘としては父親がウザイとかそういうことじゃないんだ。
娘にしてみればトニ・エルドマンの侵犯は自分の信じる世界観とかイデオロギーに対する明確な攻撃として映るわけで、だからあんな豊田真由子議員的拒絶反応が生じるわけで、これはそういうことを描いた映画だと思いましたね俺は。

笑い論の古典『笑い』でベルクソンは「笑い」を集団の常識から外れるものを笑う、軽い懲罰を与えようとする行為として捉える。
ラディカルな改革を求める人間は笑いを嫌う。木島さんの行動をプロテストとして受け止めた人は笑う人に許しがたい怒りを感じただろうし、選挙戦で熱烈にトランプを支持した人は良識的なリベラルの笑い声に憎悪をかき立てられたに違いない、ジャンプのエロ漫画に憤るフェミニストは下品な笑いを浮かべる男性読者たちを仮想敵としていたでしょうきっと。

全然面白くないエルドマンの笑いはなにより上昇志向の塊のような娘を諫める笑いだったが、ただし諫めるだけで、会社を辞めさせるとか、グローバリゼーションの潮流に疑問を抱かせるとか、田舎に戻ってロハスな生活をさせるとか、なにか変化を促す類いのものではないし、そんな力はそもそも笑いにはない。
むしろ全般的変化をソフトランディングするための緩和ケアとしての笑いであり、変化の中で分離し鋭く対立していくものの間に入る緩衝材としての笑いなんである。
だからそれは搾取される一方の石油採掘場の周辺住民にこそ向けられなくてはならなかったし、笑いが状況を何ひとつ変えないことを知っているからこそ笑わなければならなかったのだ。諦めの笑いだこれは。

『トニ・エルドマン』はこの世界の変化が決して止められないことを知っているし止めるべきでないことも知っている。情報と流通のテクノロジーの不可逆的加速度的発達が世界の秒速の変化を可能にしたことも知っているしその波に乗った誰もが世界を少しでも自分に合ったように、あるいは自分を少しでも世界に合ったように加工して矛盾と不条理に満ちた苦痛だらけの自分と世界に首尾一貫性を与えることが可能になったことを知っているし、そうして誰もが少しでも楽しく平和に幸せに生きようとすることも、そのために個人レベルにまで細分化されカスタマイズされた体系的世界観が至るところで衝突している現実も知っているし、だから、世界から少しずつ笑いが消えていく現実も知っている。

ブニュエルのような『まぼろしの市街戦』のような笑うものと笑われるものが逆転して混じり合うクライマックスの祝祭、今年見た映画でたぶん一番笑ったし一番アナーキー。『笑い』とフロイトの『無気味なもの』を表裏一体のものとして接続した『不気味な笑い』とかいう小論があるが、なんかまさにそういう感じ。
だがそうとするならこのバカ騒ぎもしょせんは今あるグローバルな世界の活性化のための周到にコントロールされた計画的カオスでしかないわけだ。あのパーティの趣旨を考えれば作り手の意図するところは明白だろうとここでも顔を出す首尾一貫性の希求である。
『トニ・エルドマン』はそのことを自分で知っている。それが多くの人にとって幸せを意味することも知っている。だから、その枠から出られない自らの矮小さを『トニ・エルドマン』は笑わずにはいられない。人を笑う自分を笑っている映画なんである。

娘がホイットニー・ヒューストンを歌う場面、超大感動してしまったがよう考えたらこれは意地の悪い極めて意地の悪い選曲なんじゃないか。意地の悪い選曲なんじゃないかとも思うがスゥと体内の毒が排出されましたから解毒は痛いということです。
痛い解毒は解毒じゃないの代替医療的やさしい世界に血清とは名ばかりの猛毒を注入するこれは力への意志ならぬ笑いへの意志を感じる『トニ・エルドマン』だ。
たいへんよい映画でした。毒喰って、笑え!

(余談ながら、真面目/闘争/介入的な性質を持つのがポン・ジュノであるなら笑い/逃走/傍観の体系に属するのがパク・チャヌクだろうと思え、前者は町山智宏的世界観であり後者は菊池成孔的な世界観と言えるが、年甲斐もなく『セッション』で喧嘩していた町山菊池が共にわかりやすく異なる角度から絶賛するのが『トニ・エルドマン』であり、エルドマンの笑いはこうして二項対立を一時的に無効にするんであった)

【ママー!これ買ってー!】


ビジターQ [DVD]

血清が濃すぎて治る前に死んでしまう解毒映画です。

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2 Comments
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匿名さん
匿名さん
2017年7月19日 11:11 PM

一日の終わりに読んでよかったです
見に行きます