妄言だだ漏れ『サスペリア』(2018)感想文(基本観た人向け)

《推定睡眠時間:0分》

よくわからないが最終的には面白い良い映画だったとは思うが、が、ぶっちゃけ見ながらずっと『サスペリア』のリメイクで批評するなよとは思っていた。
批評なんである。オリジナル(及びそれに続く『インフェルノ』『サスペリア・テルザ』の魔女3部作)の諸要素をアレゴリーとアナロジーを駆使して読み解いた解釈映画なんである、このリメイク版は。

いやそんな無粋なことないだろって思うよ。だって『サスペリア』ですよ。あんなもんろくにストーリーもないじゃないですか。鮮血の美学があるだけで。
それが面白かったしカッコ良かった映画なのにさぁ…別に批評は批評で良いと思うんですけど、ちょっと考えてみてほしいですよ。
たとえばだいぶ長く話が逸れますが、俺は『サスペリア』のダリオ・アルジェントよりもアルジェントのライバル的ポジションだったルチオ・フルチの方が好きなんですが、フルチの代表作に『ビヨンド』という映画がある。

そのストーリー。画家が地獄絵を描いたら地獄の門パカァ。わけわからんことになって画家が絵を描いた家に近づいた人間と近づいた人間に関わった人間が理由もなくタランチュラに食い殺されたり窓の破片が襲いかかってきて死んだりゾンビの眼力にびっくりして死んだりする。高いところから謎配置の硫酸も落ちてくる。最後はなにがなんだかわからんまま主人公が画家の描いた冥界に迷い込んでエンド。投げやり感最強である。

諸外国での評価は知らないが、こんな無意味に人が死んで肉体を損壊するだけの悪趣味映画は我が国ではバカみたいだがなんかすごい的に受容されてきた。ようするにイロモノですね。『サスペリア』みたいな。
だがこの映画のエンドに曰く言い難い救いのトーンを感じ、涙さえ流す俺としてはまったくこれは遺憾であって、お前ら(誰?)バカみたいバカみたいと思うかもしれませんが俺に言わせれば『ビヨンド』からはある強靱な思想が取り出せるんである。

その思想というのは学生なら一度は手に取ったことがあるかもしれない(ぼくは中卒なので知りませんがね…)岩波文庫のメジャー本、思想家ヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』に見られる。
その中でベンヤミンは暴力の形態を三つに分類している。一つは神話的暴力/法措定暴力で、これは暴力の結果として法(ルール)を定めるものを言う。

もう一つは法維持暴力、これは法のための暴力と言うべきもので、暴力の結果として新しい法を打ち立てるのではなく、打ち立てられた法を守るために行使される暴力を言う。
法措定暴力が勝敗で領土が画定される戦争としてイメージされるなら、法維持暴力としてイメージされるものは領土の形を維持する警備だろう。

さて重要なのは三つ目だ。これは神的暴力と呼ばれるが、上二つよりも抽象的な暴力の形態であるから引用に頼る。

神的暴力は、生けるもののために行われる、あらゆる生に向けられた純粋な暴力である。(…)こういった神的暴力が現れていることは、神自身が奇跡を行って直接的に神的暴力を行使することで明らかにされるのではなく、あの血を流さず、有無を言わせず、罪から解き放つという要素によって示される。そして、最終的には、法措定がそこにはないということによって示されるのだ。
『暴力の批判的検討』山口裕之 訳(以下同じ)

引用したところでよくわからない。でもこれがオッサンの殴り合いのような暴力ではないことは確かである。
オッサンの殴り合いには法もなにもないだろうと思われるかもしれないが、勝ち負けによって(あるいは引き分けでも)二人の間にある関係性や約束事が打ち立てられるかもしれないし、たとえば「近づくと喧嘩になるから離れていよう」という法を破って殴り合いになってしまったなら、その有効性を確認して維持するための暴力でもあり得る。

我々が普段目にする暴力というのは大なり小なりそのような性格を持っているもので、性格というか社会的な意味とか結果というべきかもしれないが、とすれば「法措定がそこにはない」暴力というのは行為主体が仮に神的なものであれ人間が社会に生きる以上はなかなかありそうもない感じである。「罪から解き放つ」という文言も不可解極まりない。
ではどのような暴力が神的暴力としてイメージされるかというと、上の引用はこのように続く。

この暴力を「壊滅的」と呼ぶことも確かに正当なことである。しかし、この暴力が「壊滅的」であるとすれば、それは相対的な意味で、つまり財産・法・生命といったものに関してそうなのであって、決して、生ける者の魂に関して絶対的な意味で「壊滅的」というわけではない。

純粋な暴力がどういった特定の場合に存在したかということを決定するのは、人間にとって可能ではないし、また緊急のことでもない。というのも、暴力のもつ、罪から解き放つ力は人間にはわからないものであるため、とてつもない出来事となって現れるのでもない限り、神的暴力とはっきり認識できることはないからだ。

この引用の前後には色々と補足が付いているが、だとしてもえらい取り扱い注意な思想である。
これを都合よく援用すれば現状に不満のある人をテロに煽動することぐらい簡単だし、事実オウムなんかあくまで救済としてテロを行ったわけだから。

長々となんの話をしているのかといえば、俺が『ビヨンド』の破滅的ラストに感じる救いのトーンというのはこれなんである。
人間の尺度で言えば無意味な死ばかり出てくる『ビヨンド』で描かれていたもの、なんの脈絡もない暴力の嵐とその先にある現実からの離脱、あらゆる法から解き放たれた時間の静止した冥界(静止の終末というのがまたベンヤミン的である…)は、人間存在が帯びる罪からの解放なんである…と俺は思っている。

ハァ? って思いませんでしたか。ハァ? って。以上のヨタ話を読んでいて。それですよ! それなんですよ俺がリメイク版『サスペリア』に感じたのは!
こういうことを『サスペリア』をネタにして延々150分もやってたのがリメイク版なんですよ。

それは俺が『ビヨンド』について好き勝手解釈するのが自由なようにリメイク版の監督が『サスペリア』をどう解釈するのも自由だと思いますけど、そういうのはブログとかフェイスブックでやれよみたいな話で、どうしても映画でやりたかったらオリジナル作品としてやりゃいいんですよ。

それをさぁ、ねぇ? だって俺の解釈で『ビヨンド』を真面目にリメイクしたら全国フルチン…いやフルチマニアどう思いますか。
リメイク版『サスペリア』は主人公の一人が精神分析医だもんだから冒頭にユングの本が出てくる。『ビヨンド』の冒頭に出てくるのはH・P・ラヴクラフトの作品に出てくる魔道書「エイボンの書」ですが、俺が『ビヨンド』リメイクしてその本がベンヤミンの『暴力批判論』に変わってたらどうしますか。

絶対お前らツイッターでクソミソに貶すだろ。腐ったトマト投げまくるだろ。お前『ビヨンド』を勝手に高尚なものにするんじゃねぇよみたいな。
そういうことですよ。それをすげぇ思ったんですよ俺はリメイク版『サスペリア』観てて…。

閑話最初から休題。鬱憤が晴れたから軌道修正して『サスペリア』の話に戻す。むずかしい映画だった。意味不明といってもよい。換言すればなんじゃあこりゃあである。
確かに舞台は変わって登場人物も変わったが物語の骨子…遠路はるばるドイツの舞踏学校(オリジナル版はイタリアのバレエ学校ですが)にやってきた少女とその周辺人物を学校に潜む魔女が襲う…は同じ、オリジナル版よりスプラッター感とオカルト感は減ったが人が死ぬことはまぁ死ぬ。結構ダイナミックに死んでそこはすごい。

でもなんじゃこりゃあ。確かにオリジナルもなんじゃこりゃあ系ではあったからその意味ではオリジナル踏襲ではあるが、あちらが意味を求めないなんじゃこりゃあならこちらは観客の理解を要求するなんじゃこりゃあであるから質的に違うなんじゃこりゃあ。
映像的な快楽よりも理解できないことのもやもやが勝ってしまうのだった。

しかしテクノロジーの力というのは偉大なもので、検索すれば物事のアウトラインぐらいは大抵掴める時代である。
検索した結果どういう映画だか大まかにわかった気がしたので俺なりに整理してみると、なんか第三帝国の傷跡的なやつであった。

…それは観た人みんなわかっていたんじゃないだろうか。いや俺もそう思いましたが、そうなんですが、そうじゃなくて!
第三帝国の傷跡とその周辺テーマのアンソロジーみたいな映画っていうか。なんかそういうモチーフをあちこちから色々持ってきて、それでそれを『魔女3部作』の諸要素と重ねつつ最後のサバトでぐちゃあっと一つに溶かす映画だったんだなぁっていう。

たとえばロゴですよ、タイトルロゴとクレジットのフォント。なんかバウハウス系のポスターみたいな前衛的なデザインじゃないすか。
あれはナチ的には退廃芸術ですよね。ああいう先進的なもの、都会的なものにナチは退廃芸術の烙印を押して追放しちゃったじゃないですか。
例のベンヤミンだってナチに追われて自殺してるわけですが、そのベンヤミンが所持していたのがクレーの「新しい天使」で、クレーもまた退廃芸術作家の一人。

ここで再び脱線するがベンヤミン晩年のエッセイ『歴史の概念について』の第九テーゼはこの「新しい天使」をモチーフにしている。

「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。そこには一人の天使が描かれており、その天使は、彼がじっと見つめるものから、今まさに遠ざかろうとしているように見える。
(…)彼はその顔を過去に向けている。われわれには出来事の連鎖と見えるところに、彼はただ一つの破局(カタストロフ)を見る。
その破局は、次から次へと絶え間なく瓦礫を積み重ね、それらの瓦礫を彼の足元に投げる。彼はおそらくそこにしばらくとどまり、死者を呼び覚まし、打ち砕かれたものをつなぎ合わせたいと思っているのだろう。しかし、嵐が楽園のほうから吹きつけ、それが彼の翼にからまっている。
(…)われわれが進歩と呼んでいるのは、この嵐なのである。

ベンヤミンと「新しい天使」にインスパイアされたのがヴィム・ヴェンダースの『ベルリン 天使の詩』なのだと偉い人は言う。
そういえばオッサン天使が瓦礫を眺めるシーンがあったなぁ。あのオッサン天使は結局人間として進歩に与することを選ぶわけですが、リメイク版『サスペリア』のラスト、様々な記憶が破局の中で一斉に立ち上がるところを見るに、あれが天使だとしたらこちらの天使はあくまで天使として死者の声を蘇らせることを、神的暴力を行使することを選ぶんである。
そして、それは誰かにとっての罪からの解放を意味するのだ(ユダヤ神秘主義に根差したベンヤミンの救済や天使のイメージは、決して人間的なものではない)

そのラストに現れる様々な記憶。ドイツ赤軍のルフトハンザ機ハイジャックとその顛末は執拗にニュース映像としてインサートされるからわかりやすい。革命の挫折と死はあのシーンの基調になっているものだ。
これもまた破壊による救済、の人間的思い込み。「踊り続けろ!」の台詞が痛々しく切ない。

ホロコーストの記憶…は劇中で語られるから説明不要。その悲劇的イメージもあの場では接合される。
それにしてもなぜ魔女か? そしてダンスか。グーグル先生とコトバンク先生の答えはノイエ・タンツの創始者マリー・ウィグマンという女性舞踏家だった。

1914年処女作『魔女の踊り』を踊って注目され,ノイエ・タンツ (新舞踊) の旗手として活躍した。20年ドレスデンにウィグマン舞踊学校を設立。G.パルッカ、Y.ゲオルギ、H.クロイツベルクらの舞踊家を育て、最盛期には各地の分校を合せて2000人の生徒を集めた。36年のベルリン・オリンピックでは群舞を演出するが、ナチスの台頭により活動中断を余儀なくされた。第2次世界大戦後はライプチヒ、のちにベルリンで活躍。
https://kotobank.jp/word/ウィグマン-33362

第三帝国の傷跡である。ウィグマンは73年に没しているらしいが、映画の時代設定は77年だから、死んだウィグマンの魂がまだ生きているというイメージでやっているのかもしれない。
魔女の「器」探しは映画の表面的なストーリーだが、なぜ器が必要かの説明はほとんどない。けれども指導者ウィグマン(的な存在)が死んで動揺する舞踏団がその象徴的再誕を目論む話と捉え直せば、なるほど筋は通る感じである。
そのイメージはまた首謀者バーダー・マインホフの自殺でアイデンティティを失ったドイツ赤軍のアナロジーでもあるんだろう(※基本的にウィキ見て書いてます)

魔女のイメージにはもう一つの源があるようで、主人公の舞踏少女はアメリカのどっか田舎から来た人ですが、この人の家庭の属する宗派がバプテスト派のメノナイトというらしい。
信用できないウィキペデアが完全ソースなので甚だあやしいところだが、アメリカの少数宗教らしくこのメノナイトもやたらと分派を繰り返していてややこしいことこの上ない。
主人公がメノナイトの何派に属するか、劇中で仄めかす台詞はあったが忘れてしまった。しかしこれはという記述がある。

古い秩序メノナイトには多くの独特な集団がある。他の者が車を使い英語を話す傍らで、輸送用に馬車を用いたり、ドイツ語を話したりしている。多くの古い秩序の集団が共有するものは、保守的な教義、服装および伝統であり、19世紀と20世紀初期の分裂に起源がある。政治など「世界の罪」と呼ぶものへの参加を拒んでいる。多くの古い秩序の集団はメノナイトが運営する学校で子供達を教育している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/メノナイト#分散と変化
※2018年3月28日 (水) 18:42版

なんでドイツ語? というとアメリカに移住する前はスイス=ドイツに住むメノナイトがかなりいたらしい。
様々な集団に分かれているのでなにがなんだかわからないが、紆余曲折あった末にロシアに辿り着いた一派もいた。
最初はよかったがロシア革命後はユダヤ人とよく似た立場に追い込まれたと書いてある。その後向かった先は逆である。

1941年にドイツ軍がソ連に侵攻した(独ソ戦のバルバロッサ作戦)とき、メノナイト社会の多くの者がドイツ軍を多くの苦しみを味わわされた共産党政権からの解放者と見なした。戦争の行方が変わると、多くのメノナイトが撤退するドイツ軍とともにドイツに逃げ、ドイツ国民として受け入れられた。

このあたりはもう記事ソースもなにも当たってないので完全にデマの垂れ流しの可能性もある。
適当に読み流しつつ各自ちゃんとした紙の本に当たってくださいですが、ここに断片的にでも事実があるなら主人公の少女がドイツに興味を持ったこと、その興味を戒められ家族から異端児として疎まれたこともなるほど感がある。
それとは無関係に、主人公の少女にとっての母親の魔女的イメージが、舞踏学校の魔女に転写されていることも重要である。
とにかく、ラストの赤の部屋、赤の舞踏は映画に散りばめられた全ての痛みの記憶が天使的に、または魔術的に招集されるんである。

最後に、なぜこんなわけのわからん作りになったのかちょっと考えてみたいが、俺がその取っかかりになるんじゃないかと思ったのは舞踏講師ティルダ・スウィントンに主人公ダコタ・ジョンソンがいちゃもんを付ける場面だった。
「このダンスですけど、ちょいちょい跳ぶんじゃなくて最後に一回跳んだ方が作品の意図は明確になって完成度が高くなるんじゃ」「シャラップ! これは私たちが闘いながら守り抜いてきたものなんだぞ貴様!」いやそんなにティルダ・スウィントン口悪くないですが…。

ここに見えるのは直線的で合目的的な舞踏、言い換えれば見栄えが良くて人見せ用の商品的舞踏を良しとする主人公と、それこそが自由の敵だと言わんばかりの舞踏教師の志向の違いで、舞踏なんだから綺麗にやるなよみたいな話に過ぎないのかもしれないが…なにか、主人公の内にある統一の傾向そのものを全体主義を想起させるものとして忌避しているように見えなくもない。

そのフレーズを言っておけばなんとなく何か言った気になれるベンヤミンの盟友テオドール・アドルノの便利フレーズ「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」は「そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識を侵食する」と続く。
せっかくなのでその詩を舞踏に書くを踊るに置き換えさせてもらったうえで文脈から引っぺがしてフレーズだけ使わせてもらうと、なにか、主人公ら舞踏女子と舞踏学校の魔女たちの関係性を言い表している感じにならなくもない。

アドルノにおいては合理性の終着点が全体主義やナチズムになるが、こうした合理性と結びつく主人公の商品的な堕落した(魔女たちの目にはそう映ったんじゃないだろうか)舞踏を批判しつつ、そういうやつらを食って操ることでしか魔女たちは体制に抗う内発的な自由の舞踏を踊り続けられない矛盾がそこにはある。
俺にはその関係がオリジナル『サスペリア』とリメイク版にもいくぶん倒錯した形で見られるんじゃないかと思う。

オリジナル版の表面性の美学を否定して意味と深さで満たそうとするリメイク版は、その矛盾と断絶を、ストーリーの中で直線的に積み重ねてきた出来事の意味をラストの破局でぐしゃぐしゃにぶち壊して一枚のモザイク画にすることで、結局はオリジナル同様にどうとでも取れる表面的な映画として解消しようとしていたんじゃないか。
あの場面が誰の視点からの場面か、あるいは複合妄想かという問題はどうでもよく(どうせ誰もの視点、誰もの妄想なんである)、するとそこで描かれる主人公の決断もまた魔女たちとの否定的な連帯として、あるいは母親との和解として、様々な差異を保ったまま分断を乗り越えようとする行為だったのかもしれない。

あの魔女学校いや違った舞踏学校は分断されたベルリンにあったのだ。あれ、良い映画なんじゃない?

2019/1/27 後から多少書き直してます。

2020/11/27 追記:
このあいだ名画座でもう一回観たらなにもこんな臭い感想を書かなくても…と思ったので超一言でリメイク版『サスペリア』がどんな映画だったかとまとめ直してみると、「トラウマ的な過去を持つ老人と若い女が出会ってお互いの心の傷を癒やす映画」でした。めっちゃ簡単! めっちゃ簡単な映画じゃないかなにそれ!? 初めて観たときのこの混乱っぷりはなんだったの…。

だってね、もっかい観たらさ、冒頭の精神科医の部屋にユングの本置かれてるじゃんさ。ユング派のカウンセリングってフロイト=ラカン派と違ってカウンセラーと患者が対等な立場に立つんです。で、対話の中でお互いに今まで気付かなかったものの見方やイメージを発見していく、その気付かなかったものを通して患者は自分を癒やすし、カウンセラーは逆に自分の抱えていた問題を知るというような創造的な共同作業なわけです。

リメイク版の『サスペリア』でダブル主人公の老人とアメリカ少女がやってるのはまさしくこれで、アメリカ少女は厳格な母に虐待を受けて育ったトラウマがある、老人の方は自分のせいで妻を死なせてしまったというトラウマがある、二人とも妻=母の幻影に縛られていて、その恐怖の幻影が二人の周囲の人間の振りまく様々な妄念を取り込む形で「魔女」のイメージを生み出すわけです。

だからラスト近くのサバトの間のシーンでアメリカ女がすることは自身のトラウマを乗り越えるための象徴的な行為であると同時に、老人が願っているトラウマからの解放も意味する。この映画の監督は話題を呼んだ『君の名前で僕を呼んで』の人ですが、これはもうタイトルにしても内容にしてもリメイク版『サスペリア』の前振りのようなもので、接点皆無に思われた二人の人間が惹かれ合って、同じ名前で呼び合うことで同化して、その経験の中で自己を確立してやがて分離していく…というのが『君の名前で僕を呼んで』のあらすじですが、こうした物語の骨子はリメイク版『サスペリア』も上に書いたような理由で同じなわけです。ベンヤミンがどうとか別にいらんかったよ。

でも最後に出てくる柱の落書きというか彫りはあれ、やっぱベンヤミン的なものだったんじゃないか。古びた彫りから死んだ者たちの記憶が一斉に立ち上がってくるというイメージは。

【ママー!これ買ってー!】


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魔女的な女たちのイメージとか男の贖罪とか似てるなぁって思いましたので『サスペリア』ハマった人はこっち来てくれ。そして石井隆ブームを突如として巻き起こして新作撮れるようにしてくれ。

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