自由航海映画『500年の航海』感想文です

《推定睡眠時間:20分》

20分とか寝てますが上映始まったら俺の前の席に仙人ルックスのキドラット・タヒミック監督座って映画観てたからそれはもう申し訳ない気がしたよね。
イビキまでは行ってないと思いたいが寝息は自分でも朦朧意識の中で聞いたから…いや頑張ったんですよ!

いつもは頑張りませんけどさすがに作った本人目の前じゃないすか。それでしかもその作品というのが制作に35年とかかけた(常に撮り続けていたわけではないとしても)ライフワークっていうか監督の半生ベスト盤みたいなもんらしいじゃないすか。

それは頑張るよ。頑張る。俺映画のためにそんなに頑張ってる人の努力を無下にしたくないもの。でも生理現象には勝てないから。
ごめんキドラット監督。この場を借りて謝っておく。あと監督は上映中2回ケータイかスマホ落としてました。あまり風呂に入らない人の香気を漂わせていたが不快ではなかった(謝る気ないだろ)

それにしてもこの時点ですでにちょっと面白い監督であったが上映後、席を立とうとすると場内後方からターンタータターン! の生ボイスが。
何事かと思えば明かりがついてそこには角帽を被った監督、そのままスクリーン前に進み出てあぁみなさん観てくれてありがとう的な挨拶か、とくに劇場側から告知とかなかったが律儀な人だなぁと思っていると何の説明もなく一人寸劇が始まってしまった。

お母さんただいま! やっと故郷に帰ってこれたよ! 大学で経済の学位を取ったんだ! それだけじゃなくてハリウッドで映画制作の学位まで!
だからこれから映画を撮りまくるぞ! あの綺麗な棚田、ランボーにぴったりだ! バババババ! ダダダダダ! ハリウッドのケチャップで棚田を真っ赤に染めてやろう!
(ゴジラのフィギュアを取り出し)ゴジラだって撮ってやるぞ! どしーん! どしーん!
(8ミリカメラの手作り模型を取り出し)アリフレックスが無くたってソニーなんか無くたってこのカメラがあるんだから!

狭い劇場をちょこまか動き回りながらそんなことを間断なく喋り続けているのでちょっと息が切れている。なにかすごいものを見ている感だ。
ちなみにハリウッドの学位云々は冗談なのかと思ってましたが、IMDbのバイオグラフィーによるとサンフランシスコ州立大学の映画学部で教授だったらしい。
意外と偉い人だった、キドラット監督。なんだかますます寝たことが申し訳なくなるがそれはともかく寸劇は続く。

…どうしたのお母さん? なんで喜んでくれないんだい? こんなに立派になって帰ってきたというのに。え、ランボーなんて見たくない? ゴジラなんか興味ない? 俺は…俺は…。
(手持ちサイズの銅鑼のようなフィリピンの民族楽器を取り出し)これ、どういう風に使うんだっけ。おかしいな、昔は確かに使えたはずなのに今は忘れてしまった。お客さんの中に使える人は? (場内しーん)
叩こう…そうだ、きっと叩けば思い出すはずだ。叩こう! 叩くんだ!(どーんどーんどーん!)

スクリーン前を周回しながら一心不乱にミニ銅鑼みたいなやつを叩いているうちに角帽はどこかへ飛んでいってしまった。ゴジラフィギュアもどっかに投げ捨ててしまった。もう息が上がって台詞とかちょっとつっかえている。
狂乱だ…その狂乱のパフォーマンスはなんだか渡辺文樹や原田浩みたいなゲリラ系映画作家の地下興行のようであった…。

実際しかし、渡辺文樹なんかとは映画の作りに共通するものがあった。自分が出る(ことがある)というのもそうだし、ドキュメンタリーとフィクション、映画制作と私生活、思想と娯楽の間を自在に行き来するというのがそう。
キドラット・タヒミックと渡辺文樹を隔てるものはなにかといえばキドラットの方は前述の経歴からもわかるように基本的にたいへん優秀で頭のよいグローバルなアーティストなので、という身も蓋もない事実であった。

どうもこの人は領域横断的なアート実践をしているらしく、『500年の航海』は一本の前衛映画というよりも35年前に自主制作したマゼランとその奴隷エンリケの映画を軸に、現在に至るまでのキドラットの変遷…母親や子供を撮ったプライベートフィルムも織り交ぜ…と、帝国主義とグローバル経済に関する考察、それに基づく彫刻からパフォーマンスからと様々なアート実践の記録をユーモラスに接合した、ライブパフォーマンス込みのビデオ・アートとかいった方がたぶん内容を正確に言い表している。

現代美術専門の森美術館の常設シアターでは展覧会とは別にいつもなんか映像作品を上映しているが、あそこで流れているようなやつである。
つまり渡辺文樹みたいに半天然とかではなく、完全に作家の仕業。それも知的でしたたかな作家の仕業。

帝国主義とグローバリゼーションの波でフィリピン土着の文化が洗い流されたことを憂いつつ、その惨状が可視化されるのも、フィリピン土着の文化を発見できるのも、結局はフィリピンから離れた外部からでしかないことの皮肉を受け入れて、グローバリゼーションを逆に乗りこなす開放されたナショナリズムの可能性を提示したり、その営みを通して帝国主義の戯画を浮かび上がらせたり、マゼランと一緒に世界を旅した奴隷エンリケの逸話からそうした両義性を手工芸的に取り出していくのが『500年の航海』だった。

キドラットという作家の人はその批評性を刃として突きつけるのではなくて、その根っこには真剣なエコノミストの眼差しがあるとしても、あくまでユーモアと好奇心を燃料にした思考の冒険、精神の大航海として楽しんでいるように見える。
文化の略奪者への愛憎相半ばする感情をこんな風に飄々と表現できるというのはなんとしあわせなことだ。

面白かったですよ『500年の航海』。そうね、格差だ搾取だと深刻な顔で訴えていくのも大事なことだと思いますが、その状況で遊んでやるぐらいの余裕も人間の生活にはやっぱ必要。
そうでないと単なる経済の奴隷になってしまう。そうならないように遊ぶ方法が『500年の航海』には詰まってる。なんか前向きな気持ちになれましたよ。
あと劇中に出てくるマゼランの歌、あれ最強。超カラオケで歌いたいっすね。

【ママー!これ買ってー!】


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エンリケの如く世界各地に足を運んでアートをやってるキドラット師であるからヴェルナー・ヘルツォークの『カスパー・ハウザーの謎』に俳優として出ていたりする謎。ちなみに見世物小屋のシーンです。

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