あの頃ロシアは若かった映画『新生ロシア1991』感想文

《推定睡眠時間:0分》

現代ウクライナの最重要ドキュメンタリー映画監督かもしれないセルゲイ・ロズニツァの映画は基本的にどれも長く2時間超えだがこの『新生ロシア1991』は上映時間70分と題材のスケールのデカさに反してずいぶんこぢんまりとまとまっている。題材というのはソ連崩壊の直前にというかむしろそれによってソ連崩壊が決定づけられることになるソ連末期に勃発した保守勢力のクーデターなのだが、別荘で休養中のゴルバチョフがクーデター勢力に軟禁されたとかその間ゴルバチョフが持ってた核のブリーフケースが行方不明にとかそういう謎と陰謀そして妄想の渦巻くわくわくのポリティカル・サスペンス模様が描かれるわけではない。群衆をテーマにした作品を多数発表しているロズニツァらしくこの映画が切り取るのはクーデター勢力に対するモスクワ市民の抵抗であった。

いやーなんというか隔世の感がありますなぁ。寄せ集めの資材で主要道路にバリケードを作って徹底抗戦、自由を我らに! 今こそ民主主義を! と叫びながらモスクワのだだっ広い街路を占拠する数千数万いや下手したら十万ものロシア市民。それから半世紀も経っていないはずなのだが今とはあまりにも違うよねぇ。市民の側の心情も違うだろうしなにより体制側の対応が違う。ウクライナ侵攻直後はモスクワを中心にロシア全土で数万規模の反戦運動があったと記憶しているがすぐに鎮圧されてしまった。まぁこの失敗から学んだんでしょうな、市民の抵抗はどう潰すかというのを。情報統制、逮捕連行、愛国心の鼓舞、歴史の改ざん…。

映像アーカイブ漁りの鬼ロズニツァの映画にしてはやけに短いのもそのためかもしれない。たぶん、少なくともロシア国内にはクーデターを記録した映像が閲覧可能な形ではまともに残ってなかったんである。抵抗勢力の動きは断片的ながらこの映画を観ればわかる。けれどもクーデター勢力の動きはまったくわからない。クーデターの首謀者はおろか末端の兵隊すら画面には映らないってわけで、そこは抵抗市民にフォーカスしている都合ある程度意図的に刈り込んでいる可能性もあるのだが、クーデター首謀者たちが自らの犯罪性を示す証拠となりかねない映像資料を徹底的に破棄してしまったため使える映像がなかった、と考えるのが自然じゃないだろうか。

映画の最後にテロップが出るようにソ連8月クーデターは市民の激しい抵抗の甲斐もあり失敗に終わったが、クーデターの首謀者たちは法で適切に裁かれることがなかった。ロズニツァの近作でリトアニア独立運動を描いた『ミスター・ランズベルギス』では独立運動の指導者ヴィータウタス・ランズベルギスがインタビューに答えてクーデターの首謀者を裁けなかったことが現在のロシアの恐怖政治と帝国主義を生み出してしまったと語っている。ゴルバチョフもエリツィンもクーデターの火元を絶つことはできなかった。できないままソ連は沈み新生ロシアが立ち上がった。そして今度はクーデターとは誰も思わないぐらい、プーチンを筆頭とする保守派は同じことをうまくやってのけたのである。

ウクライナ戦争の終結がまったく見えない現今、こんなものを観れば「この頃はまだロシアにも…」とため息が漏れるばかりだが、こんな時代も、こんな人々も、こんな抵抗も、あるいはこんな希望も確かにロシアにはあったのだと知ることは、とはいえ無駄なことではないだろうと思う。現在のロシア市民には強いソ連回帰志向があるというが、本当に帰りたいのはソ連ではなくソ連崩壊直前とロシア連邦誕生直後のごく短い期間にあった、幻の時代なのではないか?

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『皇帝のいない八月』とはなんともソ連8月クーデターにぴったりな表現だがソ連8月クーデターとはまったく関係ないし製作されたのは1991年の8月クーデターの十年以上前、にも関わらず描かれているのは自衛隊右派のクーデターというこの奇妙なシンクロ。

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