《推定睡眠時間:30分》
後に第11代韓国大統領となるチョン・ドゥファン(全斗煥)の大統領就任直前の姿が出てくるのでその時期のチョン・ドゥファンを演じた人といえば『ソウルの春』のファン・ジョンミン、これはジョンミンがハゲチャビンで喜怒哀楽狡猾お茶目とさまざまな顔芸を全力で披露する怪演っぷりで面白かったのだが、『大統領暗殺裁判 16日間の真実』に出てくるチョン・ドゥファンはどっかの知らないオッサンが表情をあまり変えずに淡々と演じていたのでぶっちゃけこっちのドゥファンの方がリアル感があってコワかった…! どっかの知らないオッサンとか書くなよとは自分でも思うが映画サイトとかで検索しても名前が出てこないんだから俺が悪いわけじゃないだろ。
ドゥファンが出てくる映画ということはタイトルの大統領暗殺とは1979年のパク・チョンヒ(朴正煕)暗殺事件のことである。チョンヒはCIAの韓国版KCIAのキム・ジェギュに殺されそのネタも『KCIA 南山の部長たち』などで映画化されているが、この暗殺事件でジェギュの命令に従い警備員を殺害したパク・フンジュ大佐(劇中ではパク・テジュ)の裁判を描くのが『大統領暗殺裁判』。チョンヒ暗殺に関わった数人の人物の内でフンジュのみが軍人であったため軍事裁判で裁かれることとなり、これは民間人の裁判と異なり一審制で控訴なしのため勝機無しと見て弁護を引き受けたがる弁護士がいなかったのだが、そこで立ち上がったというか立ち上がらされたのが有能だが卑怯かつノンポリでチャランポランとしている主人公の弁護士であった。はたして裁判の行方は…ってそんなの歴史の1ページなんだから検索すればわかってしまうことだが。
舞台となる1979年前後は韓国的には政治の季節ということでチョンヒ独裁体制に対して民主化を求める運動が激化、しかし主人公はノンポリなのでそんなの全然気にしない。独裁でもなんでも別にメシさえ食えてりゃなんでもいいよってなもんである。ところがコイツがフンギュの裁判を通して軍事独裁政権の理不尽に次々とぶち当たり、同時にフンギュの高潔な人柄にもほだされて、段々と正義を求めて戦うようになっていく。このへんはノンポリのタクシー運転手が光州事件の現場を見たことで正義のために覚醒する『タクシー運転手』を思わせたので、韓国現代史エンタメ映画の王道展開といえるかもしれない。
ということで王道is面白い。最近の韓国映画でつまらないものに当たること自体ほとんどないが、わけても政治ネタなんか韓国映画界の十八番である。ポンポン進む裁判自体も面白いが途中から話は予期せぬ方向へ、いやまぁ予期できる人もいるかもしれないが、主人公を目の敵にしていたドゥファンが『ソウルの春』で描かれた粛軍クーデターを起こして権力を掌握するんである。裁判映画かと思ったらポリティカル・サスペンスになるってわけで一粒で二度おいしい、大統領暗殺事件から粛軍クーデターまでを一軍人の裁判を通してコンパクトに描いたシナリオも演出も良く出来ているし、そして誰だか知らないオッサンが演じるドゥファンのコワい存在感も良しときた。韓国現代史エンタメ映画界にまた一つ新たな佳作が出現といったところじゃなかろうか。
ただ映画としての完成度とは別に思ったのはこれでええんかということであった。『ソウルの春』はクーデターを起こしたドゥファンを私利私欲をむさぼる悪い軍人としてまず立てて、それに対抗する主人公を国家に命を捧げる良い軍人としてかなりエモく描いていたので、そこにはナショナリズムが強く感じされたのだが、この『大統領暗殺裁判』でも基本的な構図は同じで、卵が先か鶏が先かではあるが、権力欲に憑かれた悪い軍人のドゥファンと上官の命令には絶対服従の融通は利かないが軍人の職業倫理には忠実な良い軍人のフンジュが対比的に描かれているのであった。もちろん映画の作り手としてはこうした対比を通して良い軍人たるフンジュを推すわけである。
この悪い軍人と良い軍人という対比はわかりやすいというメリットはあるのだが、韓国現代史に疎い俺としてはどうもそれは現実の政治を単純化し過ぎているようにも感じられる。だって、殺しは殺しである。パク・チョンヒ暗殺犯のキム・ジェギュは暗殺の動機を権力欲ではなく弾圧から国民を守るためと語っているというが、いかに正当化しようが暴力によって権力を交代させようとしたことには変わりがない。これは民主化運動を守るためという大義とは裏腹に非民主的であるし、そのために政治の不安定化を招いたことは否定しようがない。ドゥファンが粛軍クーデターを行った理由をチョンヒ暗殺事件に求めることができるかどうかはわからないとしても、暴力による権力の交代をそれに先んじて実行してみせたのは民主化運動擁護を標榜するジェギュだったのである。その意味でジェギュのチョンヒ暗殺は、少なくともドゥファン台頭の下地を結果として用意したことになるだろう。
しかしこうした論点にこの映画は立ち入ろうとしない。その代わりに持ち出されるのが良い軍人と悪い軍人の二項対立と、良い軍人賛美のナショナリズムなんである。映画の中では良い軍人として悪い軍人たるドゥファンとは対照的に描かれるフンジュではあるが、上官であるジェギュの命令だからと大統領府の警備員を殺害するというのは、軍人ゆえ上官の命令には逆らえなかったという情状酌量の材料にはなっても、正義にまでは反転しない。俺の考えではそうなのだが、しかしそれをおそらくドゥファンをわかりやすい悪役として描くために正義としてしまうのがこの映画なわけで、そうして暴力肯定を行ってしまう、つまり正義のための暴力は許されるという見解をとるあたり、この映画が『ソウルの春』同様に一見すればリベラリズムと見えて、実のところ根本には右翼思想が見え隠れする所以である。
正義のための暴力は許されるとして暴力を肯定してしまえば、たとえ正義だとしても暴力は許されないとするよりも、暴力の行使を抑止することは難しくなる。結局人間なんていくらでも都合良く正義を作り出してしまえるもんですしね。前の韓国大統領も「正義のために」戒厳令を発令したと主張していると言います。それが事実かどうかは別の話として、これもまた正義のための暴力は許されるという発想がもたらした事件であることは間違いない。だからチョンヒ暗殺とその後のドゥファンの権力掌握はこいつらが悪い軍人だったから起こったという切り口では問題の本質に到達できないと思うのだが、まぁエンタメ映画という都合もあり、ともかくこの映画では良い軍人と悪い愚人で済ませてしまう。
そのあたりに対して俺はこれでええんかと思ったりしたんであった。要するにこの映画はあくまでも観客を気持ちよくさせるためのエンタメであって、自国の現代史という危ういものを題材としつつも、そこに批判精神は見えなかったのだ。あと余談かもしれませんが『KCIA』はそういう意味で「この暴力に意味はあるのか?」とちゃんと問うていた批評性のあるイイ映画だったと思います。別の映画の褒めで感想が終わってしまった!