寺田ヒロオに捧ぐ映画『KCIA 南山の部長たち』感想文

《推定睡眠時間:5分》

トキワ荘が解体される時にNHKかなんかが特番みたいの組んで手塚治虫を筆頭にかつてのトキワ荘漫画家たちがトキワ荘で一堂に会する的なプチ同窓会をやって、それでその映像の中に俺の記憶違いでなければトキワ荘漫画の大傑作にして漫画家漫画のド定番『まんが道』でお馴染みのチューダー、金がないから焼酎をサイダーで割ったやつですけど、このチューダーを作ってみんなで飲むみたいな一場面があった。

ところが『まんが道』の中でチューダー考案者として描かれていたトキワ荘漫画家のまとめ役、寺田ヒロオがその場にいない。手塚も藤子も赤塚も石ノ森も(俺の記憶では)水野英子も来ているのに寺田の姿はそこになくて、なんでも出演の打診はあったが寺田はこれを断ったらしい。藤子不二雄がトキワ荘に入居した(そして後に『まんが道』で漫画的に誇張されつつも仔細に描かれることになる)当時の寺田は優秀な児童漫画家だったがあくまで清く正しい児童漫画に強く拘ったために次第に漫画が過激さを増していく時代の変化を受け入れられず、トキワ荘解体の1982年には既に筆を折って半ば隠遁生活を送っていたのだった。

『KCIA』にはクーデターで政権を握ったパク・チョンヒ大統領(イ・ソンミン)と革命同志にして現在は韓国中央情報部(KCIA)部長として右腕ポジションにあるキム・ギュピョン(イ・ビョンホン)がマッコリをソーダで割った通称マッソを「あの頃はよくマッソを飲んだよなあ」とか言いながら懐かしそうに酌み交わす場面がある。だが誰に気兼ねする必要もないギョピョンとのサシ呑みで緩んだチョンヒの表情はマッソを口にすると途端に硬くなる。「こんな味だったか? あの頃はもっと美味くなかったか…?」

テレビ向けのトキワ荘同窓会で振る舞われたチューダー、集まったトキワ荘漫画家はみんなこんな風に思いながら呑んだんじゃないだろうか。トキワ荘の漫画家たちは「○○党」みたいなごっこ的な同人グループをよく作ったりしていたが、たとえごっこでも党であって、そこには既成漫画に対する対抗心や新しい漫画表現を開拓せんとする意志があった…はずである。だが各々が自身の漫画表現を確立し全員ではないにしても多くの人間が漫画界に確固たる地位を築いていた1982年、もはやトキワ荘の漫画家たちに革命の動機も気力も意志も残されてはいなかった。

あの頃のマッソの味とはきっと革命の味だったのである。『KCIA』での大統領サシ呑みの場に、ギョピョン同様の革命同志であり、クーデター以来大統領を右腕として支えてきたものの、突如として米国亡命を遂げ腹心から一転軍事政権の腐敗を告発する大統領最大の政敵となったKCIA元部長パク・ヨンガク(クァク・ドウォン)がいなかったように、人見せ用のトキワ荘同窓会の場に現代漫画の腐敗を告発して表舞台から去った寺田ヒロオも姿を見せなかったのだった。

…という、まさかの『KCIA』=トキワ荘論。なんという牽強付会と自分でも驚くがいやでも似てるんだよ構図がなんとなく! なんとなくでしかないとも言えるがなんとなくは似てるの! だからそこでグッと来たよね。やっぱ『まんが道』面白いじゃないですか。でテラさんすげーなーって思うじゃないですか。それでその後のリアルテラさんどうなったんだろうってネットで検索かけて衝撃を受けるじゃないですか。この全日本国民が通る道を俺も一応通ってますからね。いやぁこれは沁みるよ。革命、その後…っていう感じでね。

ジャンルとしては一応サスペンスですけど映画の焦点はそこだよね。まぁ内部的にはいろいろあったとしても大義としては世のため人のために革命に加わったあの頃の熱も理想も失って、自分たちが一番偉くなってしまったものだから倒すべき敵もわからなくなって、その時に革命の先頭に立った男たちは何を成すのか…男たちとか書くとアクティブなフェミニストを敵に回す昨今ではあるがまぁでもこれは実際に男たちの話だからな。いいんだよそういう余計なことを書かなくて…あぁっ! 三点リーダ症候群! それも余計だ。

でね、だからその男たちの関係性、KCIA現部長ギュピョン、KCIA前部長ヨンガク、大統領パク・チョンヒの三人があの頃と今(当時)でどう変わってしまったかっていうのが面白いところで、俺はもっと『黒金星』みたいなゴリゴリの胃痛系サスペンスを想像してたんでそういう意味では拍子抜けなんですよかなり。だけど革命後の男たちの心情と彼らの心が次第に離れていく過程を追った渋い人間ドラマとしてはすごい良かったね。

哀しい話ですよこれは。邦題のサブタイトルでKCIAがあった「南山」っていう場が強調されているのが象徴的ですけど、南山というのは主人公ギョピョンの居城で、チョンヒは大統領官邸(青瓦台)、亡命したヨンガクはワシントンD.C.とかっていう風にクーデターの時は場と行動を共有していた三人も今はみんなバラバラの場所で活動してるんですよね。で、その狭い場所の中ではそれぞれが王のように振る舞うことができる。

そんな場所を手にしちゃったらもう手放せないじゃないですか。トキワ荘の漫画家たちだって売れ始めたらトキワ荘を抜けて自分が主の居場所を作ったし、その革命的化学反応も決して長くは続かなかった。ある意味で最後まで革命の可能性を信じ続けた寺田ヒロオも結局は漫画界の現状に幻滅しながら自宅の離れっていう自分が絶対権力を握る居場所にこもることしかできなかったわけで、『KCIA』の皮肉なラストもルートこそ違えど寺田の最期と同じ場所に辿り着いたのではないかと俺は思う。

革命の熱はいつしか醒めて気付けば空虚な「場」にしがみついている。あの熱を支えていた革命分子の紐帯はとうに失われてもう元の関係には戻ることができない。その喪失感が三人を狂わせお互いに刃を向けさせる。アメリカの思惑がどうとかチョンヒに取り入ろうとする暴力側近の策謀がどうとかそんなのはどうでもいいもので、ここで描かれるのは本質的には三人がそれぞれの形で革命を取り戻そうとして空転する姿にほかならない。

大統領パク・チョンヒにとって革命は今も継続中である。継続中であるからして軍事政権への不満を暴力で抑え込むことは彼にとって保身ではなく革命のための行動なのだ。あるいは少なくともそのように思うことで市民への暴力を正当化しているのである。しかしその執務室に飾られた肖像写真はまるで天皇裕仁のようで、彼がもはや被支配者の側には立っていないことを冷たく映し出す。チョンヒとギョピョンが「あの頃はよかった」と日本語で言葉を交わすのはなにやら示唆的である。

ヨンガクにとっての革命は軍事政権の腐敗告発である。もっともそれは青瓦台や南山にとっては大事件でも他国にとってはゴシップ程度のものでしかなかったことが告発文書が日本の(新聞ではなく)週刊誌に載っていることから察せられる。ヨンガクは米韓の政治ゲームの中でコマとして使われるだけの道化だったのだ。そのことに本人もある程度気付いているからこそ、覚悟があるんだかないんだかわからん主体性に欠いた投げやりな行動を取っていたのではないだろうか。革命は信じたいが、もはやどうしたら革命が起こせるのか彼はわからなくなっていたのである。

ギョピョンにとっての革命は言うまでもなくチョンヒ大統領の暗殺である。憲法改正で終身大統領の座を手にしようとするチョンヒは今や革命で打倒すべき絶対権力であるし、なにより革命を信じて行動してきた自分やヨンガクを裏切ったのだ。これが反革命分子でなくてなんであろうか!
…と、憤ってみたところで、ギョピョンはひとつの矛楯にぶち当たるのだ。もし暴力革命によって生まれた軍事独裁政権に権力腐敗が生じたのなら、革命こそが革命で打倒すべき敵を作り出したと言えるのではないか?

短くも鮮烈なバイオレンス・シーンで事故的なアドリブなのか狙った演出なのかは知らないがギョピョンを演じるイ・ビョンホンは床の血でズルっとずっこける。そこ、笑えるけど切なくて超よかったね。あのズルコケ空転に三人がそのために人生を捧げた革命なるものの全てがあった気がしたよ。寺田ヒロオもトキワ荘後は空回ってばかりでしたし…まだトキワ荘絡めるの?

※出演陣ではイ・ビョンホンもいいがヨンガク役のクァク・ドウォンを推したい。三人の中でいちばん軽薄に見えていちばん革命とはなんぞやと懊悩していたように見えたので。あとちょっと山城新伍に似てるので。

【ママー!これ買ってー!】


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寺田ヒロオを軸にした薄暗くてノスタルジックなトキワ荘映画。しかしこのキャストはすごいよな。

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