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およそ15年ぐらい前ではないかと思うが駅のホームで電車を待ちながら街の風景をぼーっと眺めているときにゲシュタルト崩壊を起こし、見慣れた風景がお互いになんの関係もない要素のバラバラな組み合わせであることが意識に押し迫ってきて、おお、これは……これはすごいぞ! とたいそう感動したものであった。お互いになんの関係もない要素が、まぁだから手前のビルとその奥のビルとか、そういうのが無関係なまま組み合わさって一つの風景を成しているというのはなんというか圧倒的な「生」を感じるものであった。伝わっているだろうか。伝わっていないかもしれないがそれならそれで別に良しである。この『今日からぼくは村の映画館』を観てもらえればたぶんなんとなく俺の言わんとすることはわかってもらえるだろう。
といっても『今日からぼくは村の映画館』には見慣れた街の風景なんてものは一切出てこない。これはペルーの映画だがその上に時代設定は1980年代ぐらい、そして舞台となるのはペルー山奥の道路も電気もガスも水道も何もないように見える本当に小さな農村だものだから、画面に映るものといったらひたすら自然風景ばかりである。その自然風景を見ながら俺はあのゲシュタルト崩壊の感動を思い出したのだな。もうね、このアンデスの人の手のほとんど入らない雄大な自然というのはデタラメなのですよ。少しも調和なんて取れていなくて草も木も花も山も雲も犬もヤギもみんなデタラメに好きに成長して入り混じっているのです。
このカオスはしかし敵対的なものではまったくない。だって草も木も花も山も雲も犬もヤギもみんな相互依存の関係にあるわけだからね。どこかが変化すれば別のどこかが予想外の方向に変化するし、その変化から逃れて単独で存在するものは一つとしてない。その緊密にしてダイナミックな共生関係によって風景が一つの方向に馴らされるのではなく……その相互依存の関係性によってこそカオスとしか言いようのない多種多様な色や形や方向が成長して、ひとつの風景を形成するというわけで、自分の小さな人生をちまちま必死にコントロールしようとして疲れ切っている俺のような俗物都会人種には、これがもう思わず額にチャクラが開いてしまうのではないかという感動的なものと映るわけだ。
その一点だけでこの映画はスバラシイと断言してしまって差し支えないだろう。なぜならここには撮るべきものが明確にあるからだ。人智を超えた見事な自然を撮ればそれだけで傑作というのはなんだか映画の敗北宣言のようでもあるが、いや問題はカメラが撮った自然風景がすごいかすごくないかではなくて、これを撮らなくては、と作り手に思わせる光景と、その意志があった、ということで、良い映画を観て他作を腐すというのもあまりお行儀の良い態度ではないかもしれないのだが、はたして今映画館で公開されている映画の中でどれだけこの切実さを持った映画があるだろうかと考えれば、たぶん割合にしてコンマ以下ではないかとおもう。
全然ないのである。ホントに全然ない。「これを撮らなければいけないんだッ!」という声の聞こえてくるショットを持つ映画が全然ない。それはたぶん今に始まった話でもなく、映画が産業として浸透して、それと共に映画会社が映画館に定期的に新作映画を供給しなければいけない構造が出来たときに、ほとんど失われてしまったものなんじゃないだろうか。世の中に「これを撮らなければいけないんだッ!」なんて光景はそうそうあるもんじゃないんだから、そうした産業構造の中で映画から「これを撮らなければいけないんだッ!」が失われていくのは当然至極、その代わりに映画は物語性を獲得したのかもしれず、風景と違って物語は『千夜一夜物語』のように無数のバリエーションを非常に安易かつ効率的に作り出していけるので、映画が物語偏重になるのも映画が産業である以上は必然的なことだったのかもしれない。
それが産業構造の要請する「新作映画を作るための物語」である以上、「これを撮らなければいけないんだッ!」と共に「これを語らなければいけないんだッ!」もまた感じられないとしてもおかしなことではないわけで……いやそんな厭世的なことばかり言ってもしょうがない、ともかく重要なのは『今日からぼくは村の映画館』という映画には「これを撮らなければいけないんだッ!」のショットが溢れていて、そして「これを語らなければいけないんだッ!」の物語しか存在しないということだ。
映画をおいしく見せるための派手なデコレーションも刺激的な味わいにするための調味料もこの映画には入ってない。ただ作り手がこれは必要だと判断したものだけで成立しているこの映画のいかに豊かなことか! 荷物をたくさん載せてロバと未舗装路を歩く少年、おばあさんから教わる知恵、移動映画館の壁に映写されるブルース・リー、野山で遊ぶ子供たちの背景に広がる入道雲、町の道路いっぱいに広がるヤギ、映画料金代わりに農作物を支払う人々、学はなくとも熟慮と合議で物事を決定する村人たち、すべてがハンドメイドの色とりどりの伝統衣装、悲しみよりも開放感を感じさせる葬列、叶わなかった夢を叶える装置としての映画……まったく泣きそうになるが、それは嬉しい泣きというよりも、そんな豊かさを生活環境や経済的にはこの映画に出てくる農民たちの1000倍くらい恵まれているはずのわれわれがじぇんじぇん持ち合わせていないか、ずっと昔に経済的繁栄の代償として自分から喜んで手放してしまったということの切なさからの泣きなわけで、当のアンデス山地の農民の人なら逆にまるで理解不能なものかもしれない。
ぶっちゃけ映画を通して貧村少年の世界が開かれると同時に閉鎖的な村人たちもまた変わっていく的な『ニュー・シネマ・パラダイス』なり『ミツバチのささやき』なりが頭に浮かぶストーリーにはははぁんこれは国際映画祭での評価を狙ったなみたいなあざとさは感じられるし、実際の貧村の生活はもっと大変だんべとも感じられるのだが、圧倒的な「これを撮らなければいけないんだッ!」「これを語らなければいけないんだッ!」の前ではそんなことはどうでもよい。豊かで美しく生に満ち満ちた、実に感動的な映画だったとおもいます。