《推定睡眠時間:45分》
『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』続編制作決定の報に触れた時には「またタイムスリップするのか!?」とズッコケかけたが何のことはない、特攻隊員アキラさんとの出会いからたぶん10年弱、生前学校の先生になりたいと語っていたアキラさんの夢を継いで今は高校教師となった主人公(福原遥)の周りで起こるアレコレを描く今度はSF要素もない正統派の恋愛ヒューマンドラマがこの『あの星の降る丘で、君とまた出会いたい。』であった。
ところで前作『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』に対するインターネットというか主にツイッターでの悪罵と嘲笑いったらものすごいもので、どうも映画を観もしない人たちが河瀨直美の『東京2020オリンピック』同様に右翼映画として叩いていたようなのだが(そもそも面白いとかつまらないとかではなく右翼映画だからとか左翼映画だからとかそんな理由で映画が叩かれてよいのだろうか?)、俺は『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』はなかなか良い映画だと思っていて、それというのも『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』では特攻隊員たちが現代からやってきた主人公の女子高生の目にはほとんど理解不能な存在として描かれていたからだった。
歴史の中の人間を眺める時におそらく二つの態度がありえるだろう。一つはその人間を現代の人々や自分たちとまったく変わらないものと捉える普遍主義的な見方で、もう一つはその人間を現代の人々や自分たちとは切断されたものと見る相対主義的な見方なのだが、昨今の日本の太平洋戦争題材映画などを観るにどうもそうした映画は前者の立場を取りがちなように思える。その理由は思うにそう難しいものではなく、現代の観客が感情移入しやすいキャラクターを出した方がお客は喜ぶから、じゃないだろうか。けれどもそうした風潮は歴史に対してある程度の不誠実を示すことになるかもしれない。なぜなら、現代の観客が感情移入しやすいようにキャラクターを造型するということは、その時代その人物の特殊性を必ず一定程度は捨象することになるからだ。
少し話は逸れるかもしれないが、今公開中の『開戦前夜』という映画は日本が英米相手に開戦した場合どのような結果になり得るかを予想することを目的とした総力戦研究所を描く実録系映画で、俺はこれを観ていないのだが、どうも観た人たちによると「まるで現代の日本のようだ」と評判らしい。もしこの映画のテーマが「なぜ日本は勝てない戦争に突き進んだか」ということならば、「まるで現代の日本のようだ」と観客に思わせてしまうこの映画は、おそらく失敗なんだろう。なぜなら日本が太平洋戦争という破滅をそれでも選択した根本的な要因は満州を中心とした中国大陸での権益を手放すことができなかったためであり、アメリカの要求というのも満州国の解散(そもそも承認してない)と関東軍の撤兵だったからだ。
日本が帝国主義に舵を切った最大の理由は国内に資源がないというそれに尽きる。そのため石炭など豊富な資源を埋蔵する満州は大日本帝国の存在意義のようなものであって、これを手放すことは即ち大日本帝国の失敗であったし、五・一五事件、二・二六事件と度重なるクーデター未遂による政府の暴力的再編によって、そのような後退姿勢を取ることは時の政府には実質的に不可能であった。総力戦研究所がどのようなシミュレーション結果を出そうが日帝の開戦路線に変更がなかったのはこうした現代の日本とは明確に異なる戦前(といっても日中戦争は既に始まっており、その時期を「戦前」と表現するのはどうなのかと思うのだが)の日帝の特殊事情があるためであって、そこには「まるで現代の日本のようだ」と言えるところはほとんどない。俺の知る限り現代の日本は海外に植民地や傀儡国家は持っていないし、自衛隊が何度もクーデター未遂を起こしたこともなければ、天皇が関東軍の暴走を追認してもいないからだ。
普遍主義に基づく歴史観で過去を眺めてしまうとこのように「なぜそれが起こったか」という事実関係がわからなくなってしまう。その意味で社会情勢や技術発展などが複雑に折り重なった同じものが二度と無い特殊なものとして歴史を眺め、現代から切断された人間として過去の人を眺める態度は、少なくとも歴史を構成する事実に多少なりともその人間を近づけることになるだろう。と、まぁ、そんなわけで『あの花』はなかなか良い映画だと思ったのだが(そこで描かれているのは現代の女子高生が戦中日本で経験するカルチャーギャップであった)、その続編たる『あの丘』、なにせ現代が舞台なのでそのへんのカルチャーギャップ描写などほぼ皆無であったし、そればかりか主人公が平和教育の授業で「愛する誰かを守るために自分の命を捨てる行為は現代の私たちの心も打つものではないでしょうか」みたい普遍主義的な歴史観を披露したりする始末であった。
こうなると俺としては前作に感じた面白さが一切無いからいや普通の恋愛ヒューマンドラマじゃねぇかとなったりしてしまうのだが、ただ映画の名誉のために言っておくと、これは普通の恋愛ヒューマンドラマとしてかなり誠実ですごく丁寧な映画だったんじゃないかと思う。いつまで経っても主人公が現代世界で出会ったイイ感じの人(細田佳央太)とイイ感じの恋愛に発展しないのでチラリと腕時計を見たら映画開始から1時間以上過ぎていた。このコスパタイパの時代に1時間以上もイイ感じの大人の男女2人がキスもせず手も繋がず職場の同僚として共通の課題に取り組んだりしながら亀の歩みで距離を縮めていくのだ。俺は野蛮人なのでさっさとやれや(何を?)と思ってしまうが、まぁ現実には出会って即合体みたいなパターンはワンナイトならともかく恋愛では少なかろうし、職場恋愛ともなればいざ関係がこじれたら厄介だから尚更慎重になるわけで、その意味ではリアルな大人の恋愛形成過程を丹念に綴った恋愛映画と言えるんじゃないだろうか。
更に言うと2人の恋愛過程が亀の歩みなのはこれが一種の大河ドラマ的な物語の広がりを見せる映画だったからでもあった。主人公が出会うというか再会する戦中世代の隠居老人・倍賞千恵子の語る戦後悲話は(俺は寝ていたのでよくわかっていませんが)サブエピソードというには重量級であり、主人公の受け持つクラスの問題児も主人公とその相手役の中を深めるための装置という感じではなく、小説家を志しているが孤独の中で自信と失い自暴自棄になりかけているその心理はしっかり丁寧に追っていた。のみならず、そこに主人公がかつての経験からこれを今の子供たちに伝えたいと強く思うようになった平和教育をどのように実現していくかという教師としての悩みも入ってくる。美男と美女がくっつけばそれで客はバカ泣きだろガハハ! なんていう無神経な映画ではないのである。
今回は前作みたいな飛び道具もないわけだしその点で意外性や新奇性に欠けるところは否めないけれども、そのぶんしっかり地に足の付いた恋愛ヒューマンドラマとして完成されているのが『あの星』である。前作には主人公が戦中にタイムスリップしたのは夢なのではないかと解釈できる余地があってそこもちょっと面白かったのだが、タイムスリップが既成事実のように扱われる今作でもラストシーンで「実は前作のお話は……」とメタフィクション的に解釈できる余地を残しており、なるほど主人公は本当は戦中にタイムスリップなどしていなかったのかもしれない、あれはやはり当時いろいろプレッシャーを抱えていた主人公がテレビで見たりなんかしたいろんな記憶を夢の中で混ぜ合わせた結果であったのかもしれず、でも、タイムスリップしたとかしてないとかそんなことはたぶん重要ではないだろう、重要なのはそこで主人公が感じた戦争の悲惨や平和の尊さであるとか、自分は前に進まなければいけないという意思なのではないだろうか……とかそんな感じで、これもまたSFとまでは言えずファンタジーとまでも言えず、でも単なる現実のお話でもない、「奇妙な味」とも言えるような、なかなかイイ話、イイ映画なのである。