過酷青春戦争映画『芳華-Youth-』感想文(ネタバレ結構あり)

《推定睡眠時間:50分》

体調が悪く偏頭痛の気配も感じ取ったため上映前に薬剤イン、結果、推定睡眠時間50分。爆睡系ではなくまどろみ系。夢なのか映画なのか判然としない映像だけは目に入っているがストーリーの方は入ってない。気が付けば中越戦争勃発。映画のいちばん美しいところ(すなわち予告編で推している部分)を丸ごと見逃してしまい、悔やまれる。

それにしても中越戦争とは。本当にもう歴史がわからないのでとにかく検索してみると中越の中は中国で越は越南でベトナム、1979年に起きた中国とベトナムの戦争とのことですが背景が込み入っているっぽく難し案件、そもそもベトナムの日本名が越南っていうことすら知らなかった俺にはハードルの高すぎる戦争であった。

コトバンクの中越戦争の項を見てみると中国のベトナムに対する懲罰的な意味合いの濃い軍事行動とある。人民解放軍がベトナムに侵攻するが劇中では自衛的行動と呼ばれていた。センシティブな題材(後に公開されたが中国国内では一度は公開差し止めになったらしい)であるから党の公式見解に沿っているんでしょうが、それがどの程度事実に即しているか、また政治的意図が込められているかは中越戦争をさっきまで知らなかった人間には判断無理。
だいたいここでは凄惨な戦争イメージがまるでPTSDのフラッシュバックのように主観的に繋ぎ合わされるだけで、戦争の経緯も終結も大局的なことは何一つ描かれないのだった。

もちろんそれは中国人なら誰でも知っている戦争だから、という事情もあるだろうけれども、その主観性というのがどうやらこの映画の核。70年代後半の文革末期、軍に奉仕するための舞踏団に入った貧しい農村の娘が…的な筋を聞くとちょっと身構えてしまうところがあるのだが、政治的な映画ではなかった。
そうではなくて激動の時代にただただ流され翻弄された一介の踊り子と軍人の目から見たごくごく狭い中国と、その中での個人的な想い出や痛みが描かれる映画だったのだ。

なんでも監督のフォン・シャオガンは1978年、20歳の時に人民解放軍に入隊した人であるというから自伝的な要素の有無はともかくとして当時の空気は確実に映画に反映されているだろうし、その傷みもまた肌で知っている(はず)。
作家と創作物は別だろ論というものが世にはあるわけですが、いやぁそれを聞くとねぇ、やっぱねぇ、響くよねぇ。そういう人の主観の映画はねぇ。

内容的にはかなりドメスティックであるにも関わらず普遍的なものを感じた理由はそこらへんにあったんだろうな。こういう映画は、強い。

それにしても素晴らしいのは舞踏団の群舞。これは映画が始まってすぐに画面に映し出されるのでそのメカニカルでありつつ優雅な動きに目も心も奪われてしまったがその直後に睡眠に入っているのでその後に散々描かれたであろう数々の美しい群舞が結局見れずじまい。ふだん睡眠鑑賞には後悔しないがこれはさすがに後悔した。

先にも書いたが本格的に覚醒したのは中越戦争勃発時で、そのころには舞踏団は活動休止、踊りだけが楽しみで踊りだけが生きる希望で踊りだけが…な主人公の舞踏団員シャオピン(ミャオ・ミャオ)は野戦病院の看護師に駆り出されてしまう。
一方、シャオピンが思いを寄せるフォン(ホアン・シュエン)は前線部隊に回されてベトナムへ。もう踊りどころでも恋愛どころではないし、文革の終わりと中越戦争の敗北でもって二人の輝かしい(でも影のある)青春は終わってしまったのだった。

直接見ていない俺はその日々を中越戦争後の会話の端々やちょっとした場面から想像するしかない。シャオピンの先輩っぽい舞踏団員のスイツはシャオピンはワキガ体質だったから他の団員から激しいイジメを受けていたと言っていた。なるほどそれが芳しい香り、芳香! 違うよ芳華。そうか、俺が見ていないところでそんなことがあったか…。

だがシャオピンは踊ることだけは諦めたくなかった。治療と言うよりは死体処理がメイン業務のようになってしまった野戦病院での経験により深刻なメンタルダメージを受けてしまったシャオピンはやがて舞踏団を脱退、入院することになるが、舞踏団のラストステージに客側として呼ばれたシャオピンはステージを見ながらふらふら外へ。
何をしているんだろう? と他の患者が見に行くと、そこには月明かりの下で舞台の上の踊り子たちと同じ動きを、死ぬほど練習して誰よりも完璧にマスターした(と思しき)群舞を一人で踊っていたのだった。

泣いてしまうよそんなもの。在りし日々の本気のシャオピン・ダンスを見ていないからなんだか余計に切なかったよ。怪我の功名といえば怪我の功名。後悔はしたが睡眠鑑賞にはそういう美点もある。エンドロールに流れるダイジェスト的なダンスシーンからシャオピンがいちばん輝いていた時を想像するのもそう悪いものではなかった。あぁ、シャオピンっていうか舞踏団のみんな、色々諍いもあったがあの時は輝いていたね。見てないけど。

大河ドラマであるから中越戦争後も映画は続く。かなりバッサバッサと時が進む忙しない編集はその後のシャオピンとフォンの辿った過酷な道を思えば食い足りなさも感じるが、映画はスイツの回想として進んでいくのでこれでいいんだろう。
毛沢東時代は終わって中越戦争も終わってイデオロギーから経済へと国の指針が変わっていく中で、スイツはなんとかその波に乗ることができたがシャオピンとフォンはそうではなかった。波に乗るには舞踏団の思い出が、果たされなかった恋の約束が、戦争の傷が重すぎた。二人は次第にスイツの人生から姿を消していく。

最後に辿り着く現代パートで分かるのはこの物語が波に乗れた人間の波に乗れなかった同志に対する一種の贖罪であったということだった。忘れられた人々をスクリーンに焼き付けて忘れさせないための映画。というと、どうしてもやはり監督の経歴からなにかを察してジワっときてしまう。色々あったんだろうな。色々あるんですよあの世代の中国人…まぁ、知らないんですけど。

整然とした構図も鮮やかな色彩も生き生きとした光の表現も、それからなんつっても群舞が綺麗な美しい映画だが戦争ものなので美しさよりも過酷さが前に出てくる。というより過酷な環境の中だからその踊りは祈りを帯びて、一層美しく咲き誇るのかもしれない。
『プライベート・ライアン』や『ランボー4』、最近の映画では『ハクソー・リッジ』なんかを思わせる凶悪な人体損壊描写満載の戦闘シーンはまったく凄絶、POV的にワンカットで捉えていくので臨場感が凄まじい。

戦争の全体像が語られないようにベトナム兵(※便宜上そう書いたが正規軍は投入されず国境警備隊とかが応戦してたらしい)もまた画面にハッキリと姿を現すことはなく、強調されるのは前線の兵士の具体的な被害と痛みばかり。
シャオピンの送られた野戦病院の方も地獄絵図で全身火傷を負ったどう考えても助かる見込みゼロっぽい16歳の兵士(軍功を夢見て年齢を偽って入隊した)の見た目ときたらホラー映画のようであった。

中国映画だから決して語られることはなかったが、そこから立ち上がる無念には自分たちが奉仕した大義や体制への怒りのトーンが感じ取れなくもない。
なんのために戦った。なんのために踊っていた。誰のためにこんなに傷ついた。そのもやもやした心情をスイツの語りが仄めかしつつ、映画はお国の発展の犠牲となって今や忘れられたシャオピンとフォンにささやかな幸せを用意する。
それが本当のことなのかスイツの願望混じりの作り話なのかは重要ではなく、たぶんスイツが語ろうとしたということが重要なんだろう。

【ママー!これ買ってー!】


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中国の発展の影で忘れられた人々の悲劇といえば今年はこれも傑作だった。

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