大人だけどキラキラ映画『夜明けのすべて』感想文

《推定睡眠時間:10分》

なにはなくとも書いておかねばならぬのはダブル主演の男のほう松村北斗の恋人役の女の人がうわこれ東映90年代Vシネだったら絶対孤高の女殺し屋の役で主演張ってたしあと石井隆とかきうちかずひろのハードボイルド劇画映画にも殺し屋の役で出てたわめっちゃイイ女!! という人で誰なんだこれは一体とおもい早速家に帰って検索すると芋生悠という役者さんであった。いまひとつ顔と名前が一致しないのだがフィルモグラフィーを見ると結構長かったのでおそらくなんかの映画では見ているのだろう。現在26歳で役者活動開始は2014年。ということはいつか映画の中でその姿を見ていたとしてもまだ今より幼かった可能性は大いにあろう。

あのあどけなかった…と書いたところでどのあどけなかった芋生悠なのかわからないわけだが、ともかくかつて見たかもしれないあどけなかった芋生悠は今や立派なハードボイルド殺し屋である。若い頃のクノ真季子さんにちょっと似た感じの眼光鋭く人を寄せつけないオーラを纏ったクールビューティということでこの人がパニック障害はいいとしても性格の方がどうにも幼くて困る松村北斗の恋人で松村北斗に上から目線で扱われるなんて光景を見たらそれはもうですね…バカヤローそんな男は捨ててしまえ! そんな男は捨てて俺と一緒に…いや、わかってるさ、釣り合わねぇよな、ははは…冗談冗談、気にしないでくれ。あんたイイ女だ。カッコいいよ。大丈夫、アンタなら行けるさ。さぁどこまでもその翼で羽ばたいてくれ…って俺なんかのアドバイス、アンタにゃあいらねぇな、ははは! みたいな感じになってしまう。

芋生悠の自立したクールな女性像はダブル主演の女のほう上白石萌音の子供っぽい風貌やゆるふわ系のキャラとは好対照を成す。それで思ったのだがこれは子供の映画であった。上白石萌音と松村北斗は共に20代後半ぐらいの年齢設定、それぞれ持病のために新卒入社(と思われる)の大手職場を退職し現在は町工場的な小さい科学玩具メーカーで働いているのだが、それなりに社会経験を積んでいるわりには二人ともどうも年齢不相応に幼いところがある。そんな二人を決して邪険に扱わないこの小さな科学玩具メーカーは良い職場だが、邪険に扱わないのは二人よりも一回りも二回りも歳を重ねたこの職場の中年先輩たちとって二人が子供同然であることの証明でもあった。加えて玩具メーカー社長の光石研と松村北斗の元上司・渋川清彦という萌音&北斗を庇護する人物はその「オヤジ」性が強調される。強調されるというか、それ以外の面が一切出てこないのがこの映画における光石研と渋川清彦であった。

観る前はなんとなく俺の気に食わない映画っぽそうだったので観ながらムカつくかなと思ったのだが意外や全然ムカつかなかった理由がそれで判明。これはキラキラ映画なのである。毎度このブログを読んでいただいているみなさんには再三では済まない再三の説明になってしまって申し訳ないがキラキラ映画とは世間のなんとなくこんなでしょイメージとは異なり女子高生が恋愛をする映画「ではない」。これはキラキラ映画を50本ぐらい観ているキラキラ映画ファンの俺の言うことなのである程度信じてほしいのだが、実はキラキラ映画とはなにかしらの問題を抱えた(それは身体の問題の場合もあるし心の問題の場合もある)女子高生や男子高生が多くの場合で恋愛感情を伴う異性との交流を通じて成長し、それぞれが抱えた問題をお互い支え合うことで解消していく、ビルドゥングスロマンなのだ(だからキラキラ映画は入卒シーズンを表す桜並木のシーンで始まったり終わったりすることが多い)

そうしたキラキラ映画の俺定式にこの『夜明けのすべて』はキレイに収まるように俺には思えた。年齢的にはとっくに大人なのだがメンタルは子供のままの萌音&北斗が周囲の大人たちに温かく見守られながら一緒に自転車で家に帰ったりお菓子を食べながら二人で駄弁ったりみたいな高校生的交流をして、その中で持病と少しずつ折り合いをつけてお互い次のステップに進んでいく…萌音&北斗は恋愛関係にならないじゃないかという反論もあろうがキラキラ映画においても必ずしも主演の女子高生と男子高生(※たまに警官や教師もある)が恋人関係に発展するとは限らないし、恋愛感情はあっても片方が事故とか病気で死ぬことで恋愛が成就されず、生き残った方の成長だけが物語に残るケースも決して珍しくない。『君の膵臓をたべたい』や『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』などのキラキラ映画大ヒット作はどちらも後者のケースである。

これはとても興味深いことなんじゃあないかと思う。映画がというよりもそれが観客に絶賛されて受け入れられていることが。それも「こんなあったかい助け合いの世界があったらいいな」的な感じで絶賛されているらしいことが、である。劇中の人々があたたかいのはあくまでも二人が手助けの必要な子供だからであって、いずれそうではない世界で二人はある程度自立して生きていかなければいけないという前提があるからこそのあたたかさなんである。そこで隠されるのは子供を養わなければいけない大人の本音と心労であり、本当は萌音&北斗を取り巻く大人たち(芋生悠もそこに含まれる)にもそれなりのツラさがあるはずなのだが、この人たちはそれを決して萌音&北斗には見せようとしないし、二人もそれに気付かない。

子供がその存在によって大人の心の支えになるという面は確かにあるが、抽象的な話ではなく具体的な話をすれば、大人のほうが圧倒的に多くの面で子供を支えている。やさしい世界が自然に出来上がるものではなく大人たちのほとんど一方的な忍耐と献身によって成り立っているものであることは、萌音の母親の介護にまつわるエピソードや終盤の展開からも見て取ることができる。映画の中では語られないことによって雄弁に語られているそのやさしい世界の舞台裏は、しかしどうやら多くの観客にとっては興味がなく、そこに少しでも想像を馳せてみようという気にもさせないようであった。それが何を意味するかと言えば、この映画に感激する観客は、自分が忍耐と献身によって自分よりも弱かったり幼かったりする他者をサポートする側ではなく、サポートされる側としてこの映画を観ているということじゃあないだろうか。

最初は自分の世界しか見えておらずそのために塞ぎ込んでいた主人公二人が、まぁ誰だって持病の一つや二つあるしな、自分が特別ってこともねぇや、と大人の視点で世界を俯瞰できるようになるまでを描いているこの映画なので、物語が進むにつれて病気の影は薄くなる。とりもなおさずそのことはこれが特定の病気についての映画ではないという事実を指し示すが、この映画を語る際に病名をわざわざ出して語ろうとする人のなんと多いことだろう。そうとしか語れないのである。もしこの物語の中に主人公二人の精神的成長を読み込めていれば、というか普通に観ていれば逆にそうとしか読み取れないんじゃないかと俺は思うのだが、そうであれば病名など重要ではないことがわかるはずなのだ。要するに、次第に大人の視点を獲得していく主人公二人とは逆に、観客のほうはこの映画を観ながら大人の視点を放棄していくというわけである。

自分のほうが苦しいに決まっているのだから周囲の人間は自分を当然サポートすべきと考える思考の幼さこそ劇中で主人公二人が乗り越えようとする人生の課題なのだが、都合良くそうした物語の本質を見なかったことにして劇中のやさしい世界に浸ろうとする『オトナ帝国』的な甘えは、それがいい歳こいた大人の観客によるものだとするなら、今という時代の症候をそこにはまざまざと見ることができるだろうと俺は思う。今は誰もが大人になんかなりたくない。誰かを助けるよりも助けられたい。自分の見ている世界がすべてで、その外の世界など存在しないと思いたい。そのような退行的な態度をたしなめる大人もいないし、たしなめても一顧だにされないか、共感の欠如した「やさしくないもの」としてモラル的な非難の対象にさえなる、そんな時代に作られたことは、『夜明けのすべて』という映画にとってたいへんに幸運で、同時に不運なことでもあるんじゃないだろうか。

※ちなみに俺の中でこの映画の一番よかったところはオッサンたちのとぼけたユーモアです。

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通りすがり
通りすがり
2024年2月18日 12:43 AM

おっさん3人の取材シーン、すげえ良かった

あるひと
あるひと
2024年2月20日 1:49 PM

>映画の中では語られないことによって雄弁に語られているそのやさしい世界の舞台裏は、しかしどうやら多くの観客にとっては興味がなく、そこに少しでも想像を馳せてみようという気にもさせないようであった。

まさにこれでしたね。違和感というか、小さなモヤモヤは。