感動した人は読むなよ感想『37セカンズ』(悪口注意)

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ニコラス・ケイジが60秒で狙った車を盗み出す『60セカンズ』よりも20秒以上早い! これはニコラス・ケイジ超えのスーパーケイパー&カーアクション映画に違いない…白々しいが、思いついてしまったから書いてしまう。いくぶんそれで人間性を損ねている気がするが思いついてしまったから仕方がない、こんなシリアスな映画の感想の頭に置くべきことではないと知っているが仕方がないんだよ…。

仕方がないついでに文句を書いておく。あのね、同日公開の『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』っていうアメリカ映画があるんです。ダウン症の人が主人公で、無理矢理入れられてた介護ホームを抜け出して南部を旅する的な内容。おもしろかったですね。すごくよかった。これは明日感想書く。
で、『37セカンズ』の映画評論家レビューみたいなやつ読んだらこの『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』も「それからこれも」的な感じで併せて紹介されてたんです。どう思いますこれ? どうも思わないかもしれないな。だから俺がどう思ったか書いてやる。

いいですか、『37セカンズ』は脳性麻痺の人の映画なんです。『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』はダウン症の人の映画です。どっちも当事者の人が演じてます。これは珍しいこと。でも、共通点そこだけですよ。だって脳性麻痺とダウン症まったく違うでしょ。絡むところないぐらい違う。しかもストーリー展開も全然違う。それをざっくり同じ障害者映画枠に入れて――この評者の人はどっちも褒めているのだが――語るって雑すぎないすか? 映画とか人間の見方が。

言っちゃえばこれこの映画評論家だけじゃないんですよ。他にもネットの映画愛好家がこの二作を並べて論じてるの見た。その人たちもやっぱり両作品とも褒めてるわけですよ。ってことは完全善意なわけでしょ。もうね、こんなガッカリさせられることってないですよ。無神経もいいところじゃないですか。障害者が出てりゃ脳性麻痺でもダウン症でも同じか? って話で。同じなんですよ。同じものとして見てるんですよこういう人たちは、障害者映画として。

俺が嫌なのは、こういう風に個の差異を無視して別々のものを一緒くたにしてしまうことこそ差別の論理だからで、この二作はどちらも差別を主題にした映画ではないのだけれども、逆に言えばだからこそ観る側の無神経が残酷さを帯びてくる。
あれとこれを区別する権利はそれぞれの当事者ではなくそいつらを眺める自分にこそあるとする態度が「善意」に変換されて差別として意識されない。そんなもんマジョリティの傲慢じゃなくてなんですか。

もし何か別の映画と比べる必要があるとしてもシナリオの類似性でいえば『37セカンズ』は去年の話題作『ホットギミック ガールミーツボーイ』の方にある意味では『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』より似ていると言えるし、『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』は最近の映画で言えばダウン症の人がメインキャストで出演した『誰もが愛しいチャンピオン』と「ダウン症の人がメインキャストで出演した」という点で『37セカンズ』よりは共通するところがある。

『37セカンズ』と『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』をあえて並べて語ろうとすれば同日公開の「障害者映画」の枠でこの二作をくくるしかないんだ。悪趣味なジョークとしてそういうことを書いたり言ったりするんなら別にいいよ。俺もそういうの好きだし言うしね。でもそれを善意で偽装するのは絶対に違うだろ。そういうのがね、本当に嫌なの俺は! 俺はね!

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と、あらぬ方向にイチャモンの矛先が向いたのはぶっちゃけ『37セカンズ』という映画が俺は嫌いだったので、でも題材が題材だし直に悪口を言うとみんなから嫌われそうだしな~みたいな打算があったことは正直に言っておかなければならない。何事も正直が一番。笑顔の偽善より不機嫌な独善。世の中的には100パーそうでないことは知ってる(知ってるからあえて独善派としてあらぶる筆を振るっているのだ…!)

何が嫌ってね、まず強者の物語なんですよ。これはちょっと説明がいるかもしれないな。主人公の佳山明さんは少女漫画のゴーストライター。友人の思考が雑そうな漫画家YouTuberの代筆をして自分は表舞台に上がらない、というか漫画家YouTuberに上がらせてもらえない。でも漫画家として自分の実力を試したいこの主人公は土手かなんかで拾ったエロ漫画雑誌を読んでエロ漫画の応募を試みる。すると漫画自体は編集者に評価されたがエロにリアリティがないと言われる。そういうわけで主人公は夜の歌舞伎町に繰り出して、身障者専門のデリヘル嬢みたいな人に出会う。

障害者の性処理。これを難しい問題だと語る人がいっぱいいるのは知っているが、俺はあまり重要な問題だとは思わない(もちろんそれが最重要課題になってる当事者の人はいるだろうとは思う)。ウチの近所のドラッグストアには生理用品コーナーにTENGAが置かれるようになったが、まずは大雑把なところから言うと、こういう流れが進んで性処理がヘルスケア一般のカテゴリーに入れられればいいんである。オナホールだけじゃなくてディルドーも置いてローションも置いて、っていう風にしていけば誰でも気軽に性処理できるわけで、障害の度合いによって格差が生じる可能性はあるが、ともあれそれはアダルトグッズ大国日本の企画開発力で乗り越えられる問題だろう。

そういう問題じゃないんだよ人間を抱きたいんだよ! なるほど、それもあるかもしれない。売春は昨今のジェンダー議論ブームの中では無条件に推奨できるものではないかもしれないが、健常者(のとくに男)が当たり前に異性なり同性なりを抱けるのに障害者は抱けないとなればこれは是正すべき点だろう。
だが、である。俺も二十代の頃は月2くらいのペースでソープに通っていたが、射精できたことは一度しかない。いつも途中で萎えるんですよ。ノれない。気持ちよくない。人肌を求めて通うものの、人肌といってもそこで触れる知らない人の肉体は砂の抜けたサンドバッグのようだ。それはどちらかと言えば俺のメンタルの問題であることはわかっているが、ともかく楽しくなかったのである。60分で入っても5分もすれば嬢の人と心理距離ができて萎えてしまうし帰りたくなる。

だから主人公の人が不慮の生理的事故により達しないままデリの男に逃げられる場面はわかりみ深かった…というのはまぁいいとして、なんでも米国にはセックスセラピストという職業もある。性産業従事者の労働搾取であるとか暴力を防ぐためにはやはり公娼制を導入すべきだろうとかねてより思っているが、そこでライセンスを細かく分けてたとえば身体障害者に特化したセックスセラピストの人(ソープ嬢とかデリヘル嬢とか呼ぶと夜の街感があるからいっそ呼び名を変えてやれ)、知的障害者に特化したセックスセラピストの人、対応に当たって各種の専門知識を要する人に特化した…と、保守的な日本でそこまで性にオープンな制度設計ができるわけがなかろうとは思ってはいるが、そんなような制度改革を打てば健常者と障害者の性処理格差というのも埋まるだろう。

何が言いたいかといえば、こんなものは点字ブロックとかスロープとかと同じ「インフラ」の問題でしかないわけで、障害者の性処理の難しさというのは別に障害と不可分に結びついたものでもなんでもないんである。
俺に言わせればそれを障害者の一大事であるとか、成長のための課題として盛り込む作劇というのはいかにも筋肉質の脳で考えた汗臭いものである。主人公はそれを乗り越えてどんどん先に進んでいく。歌舞伎町クエストを転機として家出するし、生き別れた父にも会いにも行くし、海外だって行く。そんなのよっぽどメンタル強い人じゃないと無理じゃないですか!

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あまりにも情けないイチャモンだという自覚はあるが、その強さの志向が弱者健常者の俺には嫌だったのだ。なぜならば、主人公の強さの称揚は身障者を取り巻く様々な社会の欠陥を頑張れば乗り越えられるものとして覆い隠して、他方、健常者の鑑賞者には自分たち(の社会)には何ら瑕疵がないと思わせ、健常者と障害者の現実の社会的格差をも覆い隠して、安心して泣ける土台を提供することになるからである。

普遍的なものがたり、という感想をいくつも見た。強者のものがたりだからだろうと思う。強さは人間の細部を殺す。たとえばこういうケースを考えてみればいい。世界で一番100メートル走が早いすごいスポーツ選手がいる。その強さにはどんな人も適わないと知っているが、強さの秘訣はみんな知りたがるし、その強さに元気付けられたりする。しかし、その人の強さは単にその人の強さでしかないというのはちょっと考えればわかる。強さの秘訣を聞いて実践しても誰もその人のように強くはなれないし、強さに元気付けられた…という人は世界で一番100メートル走が早いすごいスポーツ選手を構成する全ての属性を捨象して、強さの志向のみをその人から受け取っているのだ。

ようするに、世界で一番100メートル走が早いすごいスポーツ選手はどんな人種だろうが、どんな性格だろうが、どんな病気を持とうが、どんな趣味があろうが、その他どんな人間的要素を持っていようが、ただ「強い人」としてしか見られないのだ。この人が障害を持っていたら「障害を乗り越えた強い人」、この人がアルコール依存と戦っていたら「アルコール依存と戦う強い人」、万事そんな調子。それが強さのもたらす効果なのである。
だからある物語が普遍的に見えるとすれば、それは決して弱者の物語ではないからなのだ。弱者の物語はいつでもその個人の属性と紐付けて語られるし、人はたとえその境遇には共感を覚えたり同情したりしても、その弱さは共有しようとしない。

もし『37セカンド』の主人公がエロ漫画に応募することもなく夜の歌舞伎町を恐れて家に引きこもっていたら、その物語は決して普遍的とは呼ばれないだろう。その代わり、そこに彼女の置かれた様々な困難が生々しく浮かび上がってくるはずである。その困難の中ではじめて観客は彼女を自分とは違うリアルに生きる個性化された一人の人間として見るのだ。
という理由で、俺はこの映画の強さの志向がたまらなく嫌だったのだ。それを無邪気に喜ぶ観客の偽善と無責任だって嫌だった。脳性麻痺者の抱える困難が健常者のそれと同種のものとして語れるわけがないだろう。アナロジーとしてならともかく。

もうひとつ嫌だったのは(基本的に嫌なところしかない)日本人好みの家族の修復の物語に落ち着くところである。エロならエロで突っ走れや。なに穏当な泣かせポイントに着地してるんだ。これは完全に俺の根性が腐っているが家族なんてどうでもいいんだよ。そんなものは捨てろ。暴論は承知しているが捨てなさい。
『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』との比較に腹が立ったのはこのへんにも理由の一端がある。なぜならばですね、『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』は壊れた家族をあっさり捨てて別の家族を構築する話だったからですよ。こういうのは日本の家族映画とアメリカの家族映画の一番違うところ。家族を元通りにするのが日本映画、家族を新しく作るのがアメリカ映画。余談ですが最近つらみ深い系映画として話題を呼んだ『マリッジ・ストーリー』もその文脈に置けばちょっと見方変わるんじゃないすかね。あれは別れの大変さの話じゃなくて、別れを通じた創造の話ですよ、アメリカ映画的には。

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そうだ思い出した、あと設定ありきのキャラクター演出も嫌でしたね。この人はこういうお仕事だからこう、この人はオタクだからこう、みたいな。なんて繊細さの欠片もない映画だと思ったよ。この強さ志向からすればさもありなんとは思いますがね。
それからエロ漫画編集部に主人公が原稿持ってったら女編集者に「セックス描写にリアリティがない」とか言われるんですけどそれがリアリティないだろ。エロ漫画のどこにリアリティがあるんだよ。だいたいエロ漫画の読者そんなもん求めないだろ。これも設定先行感があって嫌だったわー。そこも嫌だしじゃあセックスのリアルを体験するために歌舞伎町へっていう展開も本当体育会系っぽくて嫌。『殺し屋1』の作者がリアリティのために殺し屋体験したかって話ですよ。別の犯罪体験で捕まったけど…。

もう、悪口はだいたい吐き出したな。よし。じゃあ良かったところを書こう。主人公の佳山明さんは蚊の鳴くような声が天然エロス。その声を振り絞ってお母さんの横暴に抗議するところは魂こもってて良かった。最初の方にお母さんに服を脱がせてもらって全裸になるシーンがあるが、あそこはかなり勃起したとここは正直に書いておこう。脳が勃ったという感じだ。知的障害者施設で職員が女性入居者を犯してた、みたいなのは度々ニュースになるが、うーむ確かに俺が自力では入浴とかが難しい人を介助する立場だったらこれはやばいなと思った。裸を見るから興奮するんじゃない。そこに主従関係ができてしまうから興奮する。

前に、知的障害者の介護士の人のこんなエピソードを読んだことがある。その知的障害者の人の楽しみは缶コーヒーを飲むことで、そのことを知っていた介護士はあるとき、この人が言うことを聞いてくれたら缶コーヒーをあげて、言うことを聞いてくれなかったら缶コーヒーをあげない、ということをやってみた。効果は絶大。その介護士は缶コーヒー好きな知的障害者の人に手を焼いていたが一気に世話が楽になったらしい。とそこで、介護士は気付く。自分のしていることは刑務所の看守とか動物園の飼育係と同じでようなもので、主従関係の主の方に立ってしまっているのではないか。それはたいへん危険なことなのではないか…。

勃起した脳で佳山明さんを見ながら俺はそんなことを考えていた。まさに、この母親がそんな人なのであるが、ただまぁそれもわりと有耶無耶にされてしまって、障害者と介護者に特有の関係性としては前景化しない。例の普遍化作用で一般的なというか、家族の問題に最終的には還元されてしまうので…まぁ、障害者が主人公だからと過度に障害を前に出す必要もないと思うが、俺はね、障害者も健常者も変わらないよ! っていう強さ志向の「やさしさ」が、どうしても無神経で、個を押しつぶすものに見えて受け付けなかったんだよ。

※あとミニチュアみたいな空撮はちょっとだけおもしろかった。

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脳性麻痺の人の映画といえば症状的にも内容的にも『37セカンズ』に比べてだいぶ重度だが、これ。

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