なんだか複雑映画『イップ・マン 完結』感想文

《推定睡眠時間:10分》

香港映画の完結宣言は『男たちの挽歌Ⅱ』以来一切信じていないので終わったと見せかけてどうせ続くんだろと斜に構えて観に行ったが番外編の『マスターZ』なんかは詠春拳ユニバースとして今後も展開があるかもしれないがどうやらドニー・イェンの『イップ・マン』はこれで本当に終わるようだ。

なぜなら最終的にイップ・マンが死ぬからというのもあるがシリーズの音楽を担当してきた川井憲次のスコアが今までとは様子が違う。お馴染みの威風堂々たるテーマ曲や胡琴を使った悠久の歴史を感じさせるあれ(表現が拙くてもうしわけないが…)は鳴りを潜め、代わりにピアノを軸にしたメロディアスで哀愁漂うヒーリング・ミュージックがイップ・マンの晩年に寄り添う。まだ続編をやるつもりならこんな痛ましい音作りはしないだろう。それを聞いて「あ、終わるんだ…」とシリーズの終わりを実感したのだった。

それもそうだ。ドニーが演じてるから見た目は若いが劇中のイップ・マンこの頃もう70代後半。もちろん『イップ・マン』の最終章であるからドニーの技斗はそれなりに用意されているが、一作目の『イップ・マン 序章』のような激しさはなく、二作目『葉門』のような華やかさもなく、三作目『継承』のような様式美と華麗さもない。奇をてらわないシンプルな技斗で、だからこそ詠春拳のエッセンスが出ているとも言えるが、それは同時にイップ・マンの肉体の限界を表現したものでもあったのだろう。

中国/香港現代史を体現するイップ・マンの人生は戦いの連続であった。冷酷な日帝軍人と戦い、横柄な英国人ボクサーと戦い、路傍の文無しカンフーマスターと戦い、今回はアメリカに渡って米帝代表の野獣海兵隊教官と戦う。そんなイップ・マンでも寄る年波と病魔には勝てないわけで、勝ち負けよりも後世に何を遺せるかというのがこのシリーズ最終章でのイップ・マンの目的になる。まぁ今までもそうだったとも言えるが、物語の比重が大きくそっちに傾いたというわけである。今回イップ・マンが詠春拳を繰り出すのは老い先短い自分のためではなく最初から最後まで誰かに何かを遺すためなのだ。

激動の時代を乗り越えて今や華人も平和に暮らせるようになった。弟子のブルース・リーも立派に育ったみたいだし、まぁ息子は反抗期で口を利いてもくれないが、先を見据えてアメリカ留学させれば色々学んでちゃんとした大人になってくれるだろう。もう生きるために戦わざるを得ない時代は過ぎた。これからは平和と協調と理性の時代だ。自分にできることなんか大してないが、それでも後世の同胞のために必要とあらば…と老体&病体に鞭打って構えを取るイップ・マンの姿に最強カンフーマスターのオーラはない。なんだか泣かせる技斗であった。

と一応シリーズのフィナーレですからありがとうイップ・マン的な文章をさしたる思い入れもないのに書いてみましたがまぁ世が世ですからぶっちゃけそこまで素直に観ることができなかったというのも悲しい事実であった。今は情報の流れが速いしこれも一年後ぐらいに読んだらもうなんのことを言ってんのかわからなくなってんのかな。これを書いてるの2020年7月6日。折からの反体制デモに業を煮やした中国共産党の方針で香港に国家安全維持法が導入され、香港の独立性が脅かされる事態となっているのだった。

映画に政治を持ち込むなと言われても(言われてないが)もとより抗日映画として始まった『イップ・マン』から政治性やナショナリズムを切り離すのは難しい。『継承』だけは例外と言えるが、野蛮な列強に蹂躙された中国人たちが奪われた自らの文化や居場所を取り戻し民族の尊厳を回復するために拳を振るうのが『イップ・マン』シリーズの骨子であり、その構図は『完結』でも変わらない。

今回描かれるのは1964年のサンフランシスコを舞台にした華僑二世差別に端を発する比較的スケールの小さい戦いなので、時代的に凶悪な民族の敵を作り出すのが難しかったのか、『フルメタル・ジャケット』のハートマン軍曹を思わせるカラテ推しの鬼教官(ハートマン軍曹というキャラが教官とは別に出てくるのでややこしい)がイップ・マンのライバルとなるが、本人はカラテも使わないし(2020/7/7 追記:あれカラテだったそうです)なかなか強引な「中国の敵」設定である。

祝完結ムードに大いに水をぶっかけることはわかっているが俺がこの映画を観ていて思ったことの一つはこれが中国本土の観客にどんな風に受け入れられているんだろうということだった。広い中国のことだから一概には到底言えないにしても、遠からぬ将来経済力でも技術力でもアメリカを凌ぐであろうという超大国に成長した現代中国で、あえてかつての民族的被差別経験と、それを擬人化したようなカラテ推しの悪辣米国軍人を中国拳法でぶっ倒すという映画の構造が、今の豊かになった中国の観客たちにどんな心理的効果を与えるんだろうとちょっと考えてしまうのである。

もう一つは日中戦争後にイップ・マンが居を移して詠春拳普及の拠点としていた(そしてもちろんブルース・リーやサモ・ハンやジャッキー・チェンを生んだ)香港の一国二制度が事実上無効化されるような状況にあって、もしイップ・マンがその場に居たとするなら、やはり香港の同胞のためにイップ・マンは戦ってくれたのではないか…ということである。

ここには二重三重の皮肉があるのだ。かつて抑圧されていた者が巨大な力を手にするや今度は抑圧する側に回ってしまうこと、その同じ者がイップ・マンという抵抗の象徴を間接的にでも映画で用いること、そしてもしかするとその欺瞞をイップ・マンの物語が物語の持つ力によって糊塗してしまうこと。万雷の心中拍手で迎えたかったシリーズ最終章もそんな風に思ってしまうと素直に拍手ができなくなってしまう。それどころかこれまでのシリーズ作まで毀損されたような気分になって、「今」観たくなかった、というのが正直なところなのである。

映画単体としてはシリーズ最終章に相応しい見事な幕引きであったと思う。たぶんシリーズで一番地味な出来ではあるが例の川井憲次サウンドからすればあえて地味編を選んだんだろう。ブルース・リーに象徴される中国伝統武術の継承と近代化がサブテーマとして描かれる一方、学問と国際化の必要性が説かれ、イップ・マンの世代が果たせなかった民族融和の可能性を次の世代に託す展開は、あたかも武術という名の暴力で道を切り拓くカンフー映画のレクイエムのように映る。日本で殺陣あり時代劇がレッドリストに入っているように今の中国はカンフー映画なんかもう求めていないのだろうか…と邪推すると切ない。

サンフランシスコのオープンセットなんかもノスタルジックで味があるが今回最大の見所といったらやはり敵役スコット・アドキンスの技斗でしょう。チャイナタウンのカンフー会館(そんな名前ではないが)を単身襲撃し問答無用の瞬足蹴技で百戦錬磨のカンフーマスターたちを床に沈めていく場面でのやべぇヤツ来ちゃったじゃん感は圧巻である。ハートマン軍曹(いや本当にややこしいのだがこれは『フルメタル・ジャケット』的な意味で)なりきり罵倒芝居も迫力がありましたな。どこか鬼になりきれなくてアホっぽく見えてしまうのはご愛敬だ。

お話としては今も絶賛継続中の移民差別を描いたものなのでアクチュアルであるが案外そのへんのドラマも『序章』とか『葉門』ほどの重さがなく、アクションもそうだがドラマ部分でも枯れた印象が強い。サンフランシスコの華僑たちとイップ・マンの交流もあまり濃くは描かれず、アメリカの土を踏んだのも息子の留学先を探すためであるから、一応鬼教官のスコット・アドキンスと戦ったりはするのだが本当に一応というか物のついでという感じである。

なのでアドキンスVSドニーというなかなかの対戦カードも今ひとつ盛り上がりに欠くのだが、ドラマの核はあくまでイップ・マンと息子の関係修復にあったのでこれで良かったんだろうと俺は思う。
反目よりも歩み寄りを、喧嘩よりも話し合いを、恨みよりも赦しとそして他者や他国の尊重を。あぁ、そうか、そういう意味ならやっぱり、「今」観てよかったシリーズ最終章かもしれないな。

【ママー!これ買ってー!】


ケルベロス 地獄の番犬 オリジナルサウンドトラック Stray Dog KERBEROS PANZER COPS

川井憲次といえば押井守とのコンビ作でも知られるが、その初期の代表作と個人的に思っている『ケルベロス』のスコアは曲想が『完結』と似ているので、帰りの電車で聞いていたら『完結』の場面が頭に浮かんでウルッときてしまった。そこは『ケルベロス』を思い浮かべてやれよせっかくプロテクトギア10個ぐらい頑張って作ったんだからと思うのだが。でも動くプロテクトギア1個だけだったからな…いや好きだけどね台湾ロードムービーとして!

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2 Comments
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ファンなんですけども
ファンなんですけども
2020年7月8日 7:50 PM

ずっと読んでますけど、なんか映画にわかとかゆるふわとかいいながら、シネフィルがくだけたフリして文句ばっかり言ってる印象になってきたのは少し残念かも。年齢?