【ネッフリ】『もう終わりにしよう。』のびのび感想文

《推定ながら見時間:10分》

なりたかった私とかなれなかった私というのをテーマにしたがる映画監督は腐ってウジが湧くほどいるがチャーリー・カウフマンはとにかくそれだけを描き続ける人なのでいやもういいだろお前がもう終わりにしろよと思うが撮る映画撮る映画おもしろいはおもしろいので結局観てしまうのだった。

ネットフリックスのあらすじにはこうある。

恋人との将来に悩みつつ、雪の日に辺ぴな農場に住む彼の両親を訪れた女性。だが、不思議な感覚に見舞われて、何が現実なのかわからなくなっていく。

なんのこっちゃねん。どんな映画か全然わからなかったが観てみるとむしろ逆に…ジェシー・バックリー(この人は今年公開された音楽映画の傑作の一本『ワイルド・ローズ』で「なれなかった人」を演じていた人だ)とジェシー・プレモンス(この人はアメリカ的としか言いようのない強烈な存在感を放つ演技派の大注目株)のダブルジェシーを主人公に置いた会話劇だったので、物語があっちこっちにとっちらかって回収不能になりがちなカウフマン映画の中ではシンプルでわかりやすい感じ。

あとエモい。エモいですね~これは。空虚にエモいよ。映画オタクなんて単純ですよね。歌と踊りを出せばなんとなくエモくなって傑作認定してくれます。チョロイなぁ映画オタク。カウフマンも映画オタクだからそのへんわかって撮ってるんじゃないの。どうせお前ら歌と踊りで喜ぶんだろっつって。まぁ、喜ぶんだけどさ。喜ぶけどそんなのしょせん動物的反応ですから空虚ですよ。でもその空虚が儚くてエモいわけで、エモいけれども空虚なわけで…エモの円環に入ってしまった。

いや、いや、なにも映画オタクをバカにしたくてそういうことを書いているんじゃないんだ。バカにしたいのは確かだが(確かなのか)そういうですね、まさしくそういう映画なんですよいや本当に。なりたかった私となれなかった私の狭間で昔のことばかりを思い出す、なりたかった私を思い出せば思い出すほどなれなかった私が惨めになるが、その惨めに浸っている間だけは本当の惨めを生きないで済む。

それはもう何を思い出すことも何になることも望まないでただ機械のように死に向かって歩くことで、そこには何の苦悩もないかもしれないが、何のエモもありはしない。だいたい完璧な空虚にハマれるほど人間強くないですからふとした瞬間に…ボーッと歩きながら、何も考えないように仕事をしながら、何気なく視界に入り込んだ出来事や物体が、ロバート・ゼメキスのラブコメが、プルーストのマドレーヌみたいに強烈なエモを伴ってリアルよりリアルな過去に意識を連れ戻す。そうだった、私にはなりたい私があったのだ。だからなれなかった私があるのだ。なんと惨めなことだろう、なんと惨めなことだろう、なんと惨めなことだろう…けれどもその惨めが、なれなかった私の救いなのだ。まだ惨めを感じることができるぐらいには生きていることが。

それにしてもどこまで続けるのかとドキドキしてしまった。序盤の車移動の場面だが、外は雪に覆われて何も見えないし対向車もない、カメラワークも単調でジェシー×ジェシーの…なんかこの表記だと80年代アイドルデュオ感ないですか? ないならいいが、とにかく、その外気温に負けず劣らずの低温会話がひたすら続く。

女の方のジェシーはたいへん頭のよい理系の人だが鬱っぽく「もう終わりにしよう…」の文句が頭の中にリフレイン、たまに口をついて出てきてしまい男の方のジェシーにえっ? って顔をされるし話の流れで即興詩を詠むことになったら死に関する暗黒詩が。色々、口から出てしまうタイプの鬱の人でこれから男の方のジェシーの実家に行って両親に挨拶しようってのに換気が必要な空気の悪さ、しかし寒気を入れたら凍えてしまうのでそうもいかず、アダルトな包容力で男の方のジェシーはなんとか頑張る。これは頼れる男だ。

しかし実家につくと男の方のジェシーは何故かすぐに家に入らず家畜小屋に女の方のジェシーを案内する。そこに転がっているのは子ヤギの死体、男の方のジェシーは語り出す。両親がエサを忘れてしまったからね…このヤギは倒れた状態でまだ生きていたが、床に接した面は腐っていてウジが湧いていたんだよ…。なんで! そんな! 話を! 急に! お前もお前で鬱なのか。暗雲立ちこめる実家挨拶、これは果たして大丈夫なのだろうか…「チェーンがあるからね!」とりあえずチェーンがあるから大丈夫を連発する男の方のジェシーとパパ・男の方のジェシーだったがお前らのチェーン信仰なんなんだよ。

ママ・男の方のジェシーが『ヘレディタリー』のトニ・コレットでこれは適役、まぁこれもある意味『ヘレディタリー』みたいな映画ですからね…ある意味になんでもかんでも入れようとするんじゃない。でパパ・男の方のジェシーは名バイプレイヤーととりあえず文章の見栄えを良くするために書いてはみたもののとくに記憶に残る役柄は正直なかったデヴィッド・シューリスで、ジェシー×ジェシーとこのクセモノふたりの会食場面の会話の気まずさときたら大爆笑、ちょっと懐かしの『バッファロー’66』を思わせるところです。

でもこれも切ないんだよ、ママ・男の方のジェシーが「中一からはもう息子の話が難しくてついていけなくて…」とか女の方のジェシーに言ってさ、それでガキの頃に男の方のジェシーが遊んでたゲームの話をするんですけど、その名前が間違っていて、ジョナスとかなんとかいうのが正式名称なんですけどジーニアスジーニアスって連呼する。メガドライブをファミコンって呼ぶようなもんだよね。今ひそかにメガドライブ米国版の名称がジェネシスであることからジーニアスとジェネシスでダジャレたんですけど気付きました?

それでさ、男の方のジェシー、キレるんですよ。ジーニアスじゃねぇよジョナスだよ! って。泣けたなぁ。そこから立ち上がってくるものがあるじゃないですか、なんだか。今はめちゃくちゃ丸くなりましたけどそれはたぶん多少の罪悪感と許しを請う意識からで、男の方のジェシーが子供の頃にはこのママはこいつを天才少年にしようとしてたんだろうってのが見える。でも、天才少年になれなかったんだよ、男の方のジェシー。こいつは何にもなれなかった。

何にもなれなかったからなれた自分に思いを馳せるし、なれた人としての女の方のジェシーに惹かれる。その依存的な投影の心理を女の方のジェシーは頭がいいから見抜いていたんだろう。鬱の理由はおそらくそこにあるのだ。この男は私を「よくできた自分」として眺めている。そうありたかった自分の魔法の鏡にしている。決して私そのものを見ようとはしない。だから男の方のジェシーは女の方のジェシーにやさしい。だから男の方のジェシーは見たくない自分の姿を見るとキレてしまう。本質的に、これは恋愛ではなくオナニーであることを女の方のジェシーは知っていて、男の方のジェシーも頭の片隅では知っているのだ。

最近復権を果たしつつあるスタンダードサイズの画面も目を引くがそこにあるはずのものが何もないような独特のカメラワークが印象的な映画だった。一面の銀世界に浮かぶ乗用車を真上から捉えた俯瞰ショットはそこに轍がなければ被写体が乗用車であることも認識できなさそうな感じであるし、長い長い鬱々車移動を経てようやく実家に辿り着いたと思えば家の方にカメラを置いてジェシー×ジェシーを撮るものだから家なんか存在しないように思えてしまう。あとエンドロールのクレジットとか超ちっちゃくて読めない。

風景画を描くと語る女の方のジェシーにパパ・男の方のジェシーはアンドリュー・ワイエスを引き合いに出してこんなことを言う。ワイエスの絵は哀しそうな人物が描かれているから哀しい絵だとわかる。でも風景の中に人物がいないのなら、その絵をどんな風に感じ取ればいい? それに対する女の方のジェシーの返答、「自分が絵の中の人物になったつもりで絵を見ればいいんです」。これが独特の撮影アプローチを取った理由だろうか。この台詞はまたチャーリー・カウフマンの作品全体を理解する補助線にもなるだろう。

笑える。切ない。不穏な感じ。考えさせられる。観ればわかる。以上、ネットフリックスのタグ風感想まとめ。なんで急にタグ風が出てきてしまったのかは不明だが、急にいろんなものが出てくる映画だからまぁ映画のトーンに合わせてということで…ちなみに俺はこのオチ、幸せなオチだと思いましたよ。ハッピーエンドではないかもしれないけれど。

【ママー!これ買ってー!】


Killer7【CEROレーティング「Z」】

俺に言わせればこの映画は変態と人殺しが出てこない版のカルトゲーム『Killer7』なので、逆に『Killer7』のストーリーが何が言いたいのかわかんねぇっていう人は『もう終わりにしよう。』を観れば何が言いたいのかわるんじゃないすか。地下室とか学校とか舞台もなんとなく共通するしな。

↓原作

もう終わりにしよう。 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

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